« 千駄木庵日乗七月五日 | トップページ | 萬葉古代史研究會 »

2015年7月 6日 (月)

國體と政体について

筧泰彦氏は次のように論じてゐる。「英語のネイションといふ語は元ラテン語のntioの複数形であるntionesに由来してゐます。それは『生まれたもの』を意味してゐますが、しかし西欧ではそうしたネイションはステイト(State)とは別物であります。ステイトは『国家』と訳されていますが、これは権力団体であります。これは全く人為的に作り上げたものにすぎません。日本国家はさうした人為を基にしたものではなく自然に生れ出たものであます。日本の国家は、同一の血縁とその意識が土台になってゐますが、家や氏族といふ様な狭い血縁のみの共同体ではなく、同一の土地や、同一の言語、同一の風俗習慣など、特に歴史的・文化的伝統を一つにする人々の一体であります。さうした大生命の具現たる國の上に、それに基づいて権力的・統一的な組織たるステイトが構築されている国家で、大生命を具現している国家なのであります。現在の歴史世界が始まって以来、その自然の一大生命を枯らすことなく保持して来ました。」(『日本語と日本人の発想』)と。

 

三島由紀夫氏は次のように論じてゐる。「私は統治的国家と祭祀的国家とあると考えて、近代政治学の考えるネーションというのは統治的国家だけれども、この統治的国家のために死ぬということはぼくはむずかしいと思う…もう一つネーションというものは祭祀的な国家というものが本源的にあって、これは管理的機能あるいは統治機能と全然関係がないものだ。ここにネーションというものの根拠を求めなければ、私は将来守ることはできないのだという考えを持っている。それと文化、これはごく簡単に考えればラショナル(注・合理的、理性的)な機能を統治国家が代表して、イラショナル(注・非理性的、非合理的)なイロジカル(注・非論理的)な機能はこの祭祀国家が代表している。ほくの考えるよき国家というのは、この二つのイロジカルな国家とロジカル(注・論理的)な国家が表裏一体になることがぼくの考えるいい国なんですよ。…天皇でなければだめなんです。どうしても祭祀国家の大神官いがいなくちゃならんですね。」(村上一郎氏との対談『尚武の心と憤怒の抒情』所収)と。

 

この二つの文章には、「ステイト」「ネイション」といふ言葉についての捉え方に違いがある。しかし、日本国の「祭祀共同体としての国家」と「権力機構としての国家」との関係が論じられてゐる。

 

『大日本帝国憲法』は第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という条文は、祭祀国家・自然に生まれ出た国家としての日本のことが書かれている。第四条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という条文は、筧氏の言う「権力団体としての国家」、三島氏の言う「統治国家」における天皇の権能が書かれているのである。ただし、『大日本帝国憲法』第一條の「統治ス」とは、権力行為ではなく、三島氏の言う大神官即ち祭祀国家日本の祭祀主としての権能のことである。

 

祭祀共同体としての国家は國體であり、権力機構としての国家は政体であると理解して良いと思われる。『大日本帝国憲法』は、國體と政体を正しく分けて、第一條から三條は「國體」が書かれ、第條以下は「政体」が書かれている。まことに理想的な憲法である。

|

« 千駄木庵日乗七月五日 | トップページ | 萬葉古代史研究會 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/61843842

この記事へのトラックバック一覧です: 國體と政体について:

« 千駄木庵日乗七月五日 | トップページ | 萬葉古代史研究會 »