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2015年7月 7日 (火)

天皇の国家統治とは

天皇の国家統治の御事を「しらす」「しろしめす」と申し上げる。「やまとことば」の「しろしめす」は「知る」の尊敬語である「知らす」にさらに「めす」といふ敬意を添へる語を付けた言葉である。「知る」とは「関係する」「司る」といふ意味である。「しらす」「しろしめす」とは単に知識を持ってゐるといふ意ではない。もっと深い精神的意義を持つ。天下の一切のことを認識し把握するといふほどの意であろう。今日でも「そんなことは知りません」といふのは、単に知識として知らないといふ意味以上に、「私には関係がない」といふ意味も含まれる。

 

『續日本紀』に収められてゐる文武天皇の宣命には「現御神と大八島國知ろしめす天皇」とある。また『萬葉集』では「御宇天皇代」と書いて「あめのしたしらしめししすめらみことのみよ」と読む。

 

文武天皇の宣命にはさらに「天津神の御子ながらも、天に坐す神の依さし奉りし随(まにま)に、聞こし看し(め)し来る此の天津日嗣高御座の業と現御神と大八島國知ろしめす倭根子天皇命の授け賜ひ負せ賜ふ…」と示されてゐる。

 

また『萬葉集』巻十八所収の大伴家持の長歌に「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代…」とある。

 

「しらしめす」即ち<天皇の統治>とは、天津神の御命令で日本に天降って来られて、天津神の御委任で天津神の日の神の霊統を継承される現御神として、天津神の命令のままに天の下をお知りになる(お治めになる)といふ、きはめて宗教的・信仰的な意義がある。天皇の統治は決して権力行為ではない。

 

<無私>と<慈愛>の心が無くては対象を深く認識し把握する事はできない。天下の一切の物事を「お知りになる」といふことは、<無私>の境地であられるといふことであり、天下の一切の物事に対して深い<慈愛の心>を持たれてゐるといふことである。

 

先帝昭和天皇陛下が、よく「あっそう」といふお言葉をお発しになられたのは、まさに無私と慈愛の心で相手の言ふ事をお聞きになられお知りになったといふことである。有難き限りである。

 

天皇の國家統治のことを「しらしめす」と申し上げるのは、天皇が無私と慈愛の御心で天の下の全てを認識されることである。それは、天皇が鏡の如く「無私」の御存在であるから可能になるのである。天皇が鏡の如く全てを映し出す「無私の御存在」であればこそ、全てを領知され認識され司られることができるのである。天皇國家統治の「みしるし」である三種の神器の一つが「鏡」であるのはそのことをあらはしてゐる。天皇は自己を鏡となして一切のものごとを映し出される御存在である。

 

近代日本の哲學者・西田幾太郎は、「知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ」と言ったといふ。

 

知ることと愛することは一体である。愛とは捨身無我である。自分を相手のために捧げるのが愛の極致である。自分を無にしなければ本当に相手を知ることは出来ないし、愛することもできないのである。天皇陛下の國家統治もご自分を無にされて天下萬民を愛されることなのである。

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