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2015年7月15日 (水)

高山彦九郎の歌について

高山彦九郎の歌

 

東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處(おほみやどころ)

 

高山彦九郎(たかやま ひこくろう)は、延享四年(一七四七)五月八日に、上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)に生まれた。寛政五年(一七九三)この世を去る。林子平蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」と称される。名は正之。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田十六騎の一人である高山重栄といふ。

十三歳の時に『太平記』を読み、尊皇の志を持ち、十八歳の時に家を出て、各地を遊歴して「勤皇論」を説く。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友した。

 

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代の歌で、彦九郎が四十五歳の作と推測される。

 

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を拝すると)」といふ意。

 

「一天万乗の聖天子」「上御一人」の住まはれるにしては、あまりにも質素で小さい京都御所を拝しての実感であり、彦九郎の「尊皇精神」がひしひし伝はって来る名歌である。光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は大変に苦労をされたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思ふ。

 

高山彦九郎は、この年、岩倉具選(江戸時代中期・後期の日本の公卿。岩倉家七世の祖。篆刻を善くした。公卿としては主に後桜町上皇に仕へ、その院別当などを務めた)宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより、光格天皇に拝謁した。

 

川田順氏は、「如何にして彦九郎が天顔に咫尺し奉るを得たか。…寛政三年春、近江國高島郡の一漁師が、湖水で緑毛龜を生捕った。大變な評判になったが、たまたま彦九郎も衆と共にこれを一見し、知人の志水南涯をして飼養せしめ、清原宣條(のぶえだ)等の公卿を經て、遂に叡覽に呈するに至った。龜に毛のあるものは文治の瑞兆なるが故である。かやうな機縁にて、匹夫の彦九郎は、窃に天顔を拝するを得たのであった」(『幕末愛國歌』)と記してゐる。

 

高山彦九郎が、光格天皇の龍顔を拝する栄に浴した感激を詠んだ次の歌は、『愛国百人一首』にもとられており、名高い。

 

「われをわれと しろしめすかや すべらぎの 玉の御聲の かかるうれしさ」

 

「わたくしをわたくしとお知りになるであらうか、天皇陛下の玉の御声を拝聴するうれしさはかぎりない」といふほどの意である。  

 

この歌も、「東山 のぼりてみれば あはれなり」の歌と共に草莽の臣の上御一人に対し奉る恋闕の情を歌った絶唱である。

 

高山彦九郎は、京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、遥かに内裏(皇居)を跪いて伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去されたが、昭和三十六年に再建された。

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