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2015年7月26日 (日)

 「名を惜しむ心」と「清明心」が日本人の倫理の基本 

「名を惜しむ心」「名誉を尊ぶ心」は日本人の重要な倫理観である。日本民族は名誉を重んじ名がすたることを恥じる心が強い。そして恥辱を嫌ふ。人の子と生まれて来た者は家の名・祖先の名を尊ぶ。家の名・祖先の名を汚されることを最も嫌ふ。それは武士に限ったことではない。一般庶民もしかりである。家名を重んじたのは武士だけではない。だから日本文化は「名と恥の文化」といはれる。『仰げば尊し』といふ歌には、「身を立て名をあげやよ励めよ」とある。 

 

さらに日本人の重余蘊倫理観は、「清らかさ」「清浄さ」を大切にする心である。これを「清明心」(清く明るい心)といふ。天照大神が天の岩戸からお出になられた時、八百萬の神々は一斉に「天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明(さや)け、おけ」と唱へたと伝へられてゐる。明るく、さはやかに、清らかに生きるのが、わが日本人の理想だったのである。

 

天武天皇十四年(西暦六八五)に定められた冠位の制(官人の位階)では、「明位」「浄位」が上位に置かれた。御歴代の天皇の『宣命』(漢文体で書かれた詔勅に対して、宣命体で書かれた詔勅のこと。宣命体とは、体言や用言の語幹は漢字で大きく、用言の語尾や助詞などは万葉仮名で小さく書いた)には、「明」と「浄」という言葉がことにしばしば使われてゐる。

 

このやうに、わが國は伝統的に「明らかさ・清らかさ」が最高の美徳とされてゐた。平田篤胤は、「そもそもわが皇神のおもむきは、清浄を本として汚穢(ケガレ)を悪(キラ)」ふと論じてゐる(『玉襷』)。

 

政治家に対して清廉潔白さが求められるのは、東洋においてはわが國が最も厳しい。ただしそれは、本来、堅苦しい窮屈な道徳観念ではなく、明るくさはやかな心でなければならなかった。

 

日本人は、清いことは善いことであり、汚いことは悪いことであると考へて来た。日本人は人間の価値基準を「善悪」といふ道徳観念には置かず、「浄穢」といふ美的価値に置いたともいへるのである。日本人は、「きたない」といふことに罪を感じた。

 

故に、神道では「罪穢(つみけがれ)」といって、道徳上・法律上の「罪」を「穢」と一緒に考へた。神道では、罪穢を祓ひ清めることが重要な行事なのである。禊祓ひをすることが神を祭る重要な前提である。身を清らかにしなければ神を迎へることはできないのである。人類の中でお風呂に入るのが好きな民族は日本民族が一番であらう。

 

実際、日本人にとって、「あいつはきたない奴だ」「やり方がきたない」と言はれることは、「あいつは悪人だ」と言はれるよりも大きな悲しみであり恥辱である。また、「あなたは善人だ」と言はれるよりも、「あなたの心は美しい」「身の処し方がきれいだ」と言はれる方に喜びを感じる。

 

徳川家康や吉良上野介があまり日本人に好かれないのは、「やり方がきたない」といふイメージが定着してゐるからであらう。

 

悪人とか善人といふのは場合によって転倒する可能性がある。といふよりも、わが國の祖先は徹底的な悪人・悪魔といふ存在を考へることをしなかったのである。日本神話には西洋のやうな悪魔は存在しない。日本民族は本来清らかな民族なのである。

       

以上述べてきた如く、日本人の道徳・倫理観には名を惜しむ心と清明心が大きな位置を占めてゐる。そしてその二つの倫理観の根底にあるのは、天皇に仕へまつる「赤誠心」である。

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