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2015年7月17日 (金)

天皇国日本の素晴らしさ

古代民族信仰が今日ただ今も脈々と生き続けてゐるのは日本のみである。

 

 天皇が天下を統治されるところを「都」といふ。天皇は祭祀主として神を祭り、國民の幸福・國家の平安・五穀の豊饒を祈られた。それを「まつりごと」といふ。そして、政治と祭祀は一体であった。天皇の祭祀が行われる宮のあるところであるから、「みやこ」といふ。

 

 天武天皇の御代までは「一代一宮の遷宮」といって、御代替りごとに皇居も新しく造営された。新たなる祭り主たる天皇が御即位になったら、宮も作り替えなければならなかった。新しき宮に新しき神霊が天降ると信じたからである。しかし、原則的には奈良盆地の東南すなわち大和地方の中に皇居が造営された。

 

 この習慣は、伊勢の神宮の式年遷宮に受け継がれてゐる。日本の伝統信仰・民族信仰の中心神殿たる伊勢の神宮は、二十年毎に式年遷宮が行はれ、神殿を新しく作り替え、御装束・神宝が新調される。式年遷宮を大神嘗祭といふ。神嘗祭とは、その年にできたお米を伊勢の大神にお供へする行事である。新しい宮を造ることによって、祭られてゐる神の威力が更新し増大すると信じられてゐる。

 

 神宮は決して過去の遺物として残ってゐるのではない。わが國の古代民族信仰は今日ただ今も脈々と生き続けてゐる。他の國の古代民族信仰は、キリスト教や回教に滅ぼされて、神殿は過去の遺物となってゐるが、日本伝統信仰は、今日ただ今も日本人の生活の中に生きており、全國各地でお祭りが行はれてゐる。最新の技術を用いた建物などを建設する時も、地鎮祭や上棟祭が行われる。國家元首が伝統信仰のまつりごとを行はれるといふのもわが日本だけである。

 

 アメリカ大統領は聖書に手を置いて宣誓をする。イギリス國王はキリスト教會で即位式を行ふ。しかしそれらは民族信仰・古代からの伝統信仰に基づく行事ではない。日本天皇は、御自身が古代以来の日本伝統信仰・民族宗教の祭り主であらせられ、しかも今日においても日本国の君主であらせられる。このやうに國はわが國だけであらう。だからこそわが國の國體を万邦無比といふのである。

 

日本國の中心地にして四方を山に囲まれてゐることが皇都の大原則であった。

 

 天武天皇の御代になると、國家の運営や外國との関係、宮殿の規模や官僚機構の肥大化などにより、「一代一宮」の制度は、事実上困難になった。また大化改新の後、唐の政治法律制度を見習ったので、唐の都を模した都を建設することとなった。そして、天武天皇は、都を御一代毎に遷都するのではなく、恒常的な新京造営を計画された。持統天皇はその御遺志を継がれて藤原京を御造営あそばされたのである。藤原京の造営によって「一代一宮制」は廃止になった。

 

 藤原遷都は、持統天皇八年(六九四)十二月である。藤原京は奈良県橿原市高殿町一帯を中心として九百二十メートル四方。東西二・一キロメートル。南北三・一キロメートル。中央に内裏がある。大内裏・朝堂院・大極殿を中心に中央政府の官庁が造られた。そして官僚の家族の住む家ができ、一万人位の官僚およびその家族が住んでゐた。その周りに一般の人々が住む家ができた。藤原京は、元明天皇の御代の和銅三年(七一〇)に奈良に遷都されるまで十六年間続いた。

 

 藤原京は、今日は無くなってゐる。しかし、藤原京跡地には大極殿跡が残ってゐる。そこに立つと今でも萬葉時代と同じ眺めすなわち大和三山と吉野の山々を眺めることができる。

 

 持統天皇は、藤原京において、

 

「春過ぎて 夏來たるらし 白たへの 衣(ころも) ほしたり 天の香具山」

 

といふ御歌を詠まれた。 

 

 神武天皇が日向から東に歩を進められて、大和橿原の地に都を開かれたのは、海路の神であられる鹽土老翁(しほつちのをぢ、別名・住吉大神) の「東に美(うま)き地(くに)あり、青き山四方にめぐれり。……蓋し六合(くに)の中心(もなか) か。……都つくるべし」といふ御託宣に基づくのである。日本國の中心地にして四方山に囲まれてゐることが皇都の大原則であった。

 

 藤原京はその原則・御託宣にかなった地である。長歌に歌はれてゐる通り、四方の山々すなわち北側の耳成山、東側の天香具山、西側の畝傍山、遥か南の吉野山は、すべて神聖にして美しい神奈備山(神のゐます美しい山)である。東西南北を神聖なる山で囲まれることによって、藤原京はそれらの神奈備山の神々によって護られるといふことである。日の神の御子である天皇がまつりごとをされる宮殿は、神聖な山に囲まれて、東から昇る太陽が西に沈むその中心地にある。

 

 大和國の別名を大倭日高見國(おほやまとひだかみのくに)といふ。太陽が天空高く見える國といふ意である。神武天皇は日向國(日に向かふ國)からどんどん太陽に向かって東へ東へと進まれて日本國の中心であり四方を山に囲まれた大和に来られ、都を開かれた。そこで日の神であられ皇室の御祖先神であらせられる天照大神を祭られたのである。

 

 持統天皇は、このやうな歴史と伝統に基づいて、天皇を中心とする神の國であるわが國の都として藤原京を造営されたのである。

 

 天智天皇・天武天皇・持統天皇の御代は、「天皇を中心とする神の國」たるわが國肇國以来の國體を正しく國家体制として実現した時代である。『古事記』『日本書紀』の編纂もこの時代であり、大嘗祭が初めて行はれたのも、伊勢の神宮の式年遷宮が初めて行われたのも、大宝律令が制定されたのも、この時代である。

 

 古代日本人の思想・信仰・美的感覚が最も大らかに直截的に表白された初期の萬葉歌はこの時代に詠まれた。つまり、天智天皇から持統天皇の御代はわが國にとってきはめて重要な時代であったといへるのである。           

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