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2015年7月13日 (月)

明治維新における「七生報国」の精神

「七生報国」の楠公精神は、後世においてきはめて大きな影響を与へた。明治維新で活躍した多くの志士は、殆ど例外なく楠公に対する感激と崇敬とを抱いてゐた。維新の志士たちの楠公仰慕の心は非常に強いものがあった。明治維新の戦ひにおいて、楠公精神・七生報国の精神は志士たちによって継承され、且つ、実践された。楠公仰慕心、「七生報国」の精神の継承が、明治維新は成就の一大原動力であった。楠公の絶対尊皇精神が、明治維新の戦ひに挺身した志士たちの精神的基盤であったと言っても過言ではない。

 

歌人であり国学者でもあった橘曙覽は次の歌をのこした。

 

「湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝をりふせて 嗚呼といふめり」

 

楠公の墓が荒廃してゐたのを嘆いた義公・水戸光圀が、元禄五年(一六九二)、佐々助三郎宗淳を湊川に派遣して石碑を建て、「嗚呼忠臣楠子之墓」と自筆で題した。その楠公のお墓に刻まれた文字を仰げば、子供といへども感激して墓前に屈んで「嗚呼」と唱へるであらうといふ意。

 

吉田松陰は、安政三年(一八五六)『七生説』を書いて、正成が七度人間と生まれて國賊を滅ぼすことを誓ったことについて、「楠公兄弟は、徒(たゞ)に七生のみにあらず、初めより未だ嘗て死せざるなり。是より其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起せざる者は無ければ、則ち楠公の後復た楠公を生ずる者、固より計り数ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや」と論じた。

また、吉田松陰の『留魂録』には次の歌がある。

 

「七たひも 生かえりつゝ 夷をそ 攘はんこゝろ 吾忘れめや」

 

楠公の崇拝者として知られ『今楠公』といはれたといふ真木和泉守保臣は、天保十年、二十七歳の時、次の歌を詠んだ。

 

「すめる世も 濁れる世にも 湊川 絶えぬ流れの 水や汲ままし」

 

さらに、西郷隆盛は次のやうな漢詩をのこしてゐる。

 

「楠公題図(楠公の図に題す) 

奇策明籌不可謨(奇策の明籌、謨(はか)るべからず)

正勤王事是真儒(正に王事に勤る、是真儒)

懐君一子七生語(懐(おも)ふ、君が一子七生の語)

抱此忠魂今在無(この忠魂を抱くもの、今在りや無しや)」。

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