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2015年5月 1日 (金)

「国民主権論」は日本國體と相容れない思想である

 西洋の国家観によれば、君主主権と国民主権とは相対立するもので両立し得ない観念である。君主と人民との闘争に終始した西洋の歴史からすれば、これは当然のことと言えよう。西洋の国法学説は、この観点に立って展開されてきたのである。

 

 西洋の国法学説でいう主権とは、近代中央集権国家がフランスに初めて成立する過程において国王の権力の伸長を国内外に主張し、絶対王政を正当化するための理論的武器となったものである。それは「朕は国家なり」という言葉でも明らかな如く、国王は何ら制約を受けない最高絶対の権力者とされ、国民は国王に信者の如く絶対服従するものとされ、国王と国民とは二極の対立概念として理解されているのである。

 

 西洋の国民主権論は、もっとも徹底した「反君主制」の理論として確立されたのである。そしてかかる反君主制の思想が、敗戦後戦勝国によって憲法の中に盛り込まれたのである。

 

 こういう史的・思想的背景を持つ西洋の主権概念は、日本国体とは相容れない。なぜなら日本では、古来西洋のような闘争の歴史は無かったからである。日本の歴史と伝統は、天皇を中心として君民一体となって民族共同体・信仰共同体を形成し発展させてきた。天皇と国民、国家と国民の関係は、相対立するものではなくして、不可分一体の関係にある。天皇と国民を、氷炭相容れない対立関係と見るのは、西洋流の考え方に立っており、日本の伝統とは絶対に相容れない。

 

 我々がここで確認しておきたいことは、国民主権は決して「人類普遍の原理」ではないということである。前述したように、国民主権という考え方は国王・皇帝と国民が対立し抗争した歴史を持つ西洋諸国の考え方である。十七世紀のヨーロッパにおける国王と人民との争いの中で、ルソーが理論化した考え方が国民主権であるといわれている。国王の権力の淵源は国民の委託にあるのだから国民に主権があり、国民の意向に反する君主は何時でも打倒できるという考えである。

 

 主権という言葉は西洋の国法学の影響により、国家における最高の政治権力と一般に解せられており、権力至上主義の臭みが濃厚である。これは、わが国の歴史と伝統に即応しない。

 

 明治以来の日本の国法学者は、大なり小なり西洋の学説の影響を受けているが、主権とか統治権という言葉が古来無かった日本としては、学者が西洋の学理をそのまま取り入れてしまったことが、今日の憲法論議において混乱を招いてる原因である。

 

 日本天皇の統治の伝統は、公平無私、仁であり愛であり徳であった。権力ではなかった。日本国体の特質は次の二点に要約されよう。

 

 (一)、日本は建国以来天皇を中心として全国民が統合され、同じ運命、同じ使命を担う民族共同体・信仰共同体として生成発展してきたこと。

 (二)、天皇と国民との関係は、天皇の権力支配によって成り立っているのではなくて、君民一体、君民一如の歴史的、精神的、倫理的つながりを不可欠の内容としていること。

 

 従って日本においては天皇統治は、精神的道統であった。そして古来日本には西洋的意味における国民主権の考え方は無かった。「現行憲法」における国民主権は西洋的意味で用いられており、日本国体の道統と相反するものである。

 

日本においては天皇と国民は、権力的・政治的に対立する存在ではなく、信仰的・精神的に一体の存在だったのである。それを敢えて相対立する存在ととらえて、国民主権をわざわざ第一章に置くというのは、国体破壊・伝統無視につながる。

 

 「国民」とは国の伝統をその感性と理性の双面において継承する人々の集合体のことであり、この集合体のうちに蓄積されていると考えられる伝統の知恵が法の根本規範を与えると理解することもできる。こういう理解だと、国民のうちには、過去の死者、現在の生者、未来の子孫のすべてを、その伝統精神の継承者としての次元においてではあるが、包含されることになる。

 

 しかし、「現行憲法」における「国民」とはそういう意味ではなく、今日ただ今実際に生存する人々のみのことである。そういう意味の「国民」は伝統精神に同調することもあれば、それから逸脱することもあり得る存在である。そのような国民は民主主義にあっては「多数参加に基づく多数決」という形で、政治的決定を行う。しかしそれは誤りを犯すこともあり得るのである。

 

 また「主権」につていも、「なにものにも制限されることのない最高権力」であり、歴史のうちに蓄積されていく根本規範そのものにあるという考え方がある。知性においても徳性においても不完全たるを免れ得ないこと必定の国民が主権を持つというのはすでにして衆愚政治への危険が伴う。

 

 伝統を貫き根本規範を完全に具現している人々という意味における「国民」ではなく、今日ただ今実際に生存している人々という意味における「国民」に主権が存するとする「現行憲法」は、「多数参加に基づく多数決」として民主主義方式が「多数者の専制」という名の衆愚政治へ堕ちていく危険がある。事実今日のわが国の状況はそうなっている。

 

 天皇の地位が、「国民の総意に基づく」とすると、天皇の地位は現在における多数派の国民の意志に基づき、国民の代表者からなる国会で議決すれば、天皇の地位はいかようにでも左右できるという見解が成り立つ。現在の憲法学者の八割はそういう解釈であると言う。

 

 憲法上の「国民」とは、「過去の死者、現在の生者、未来の子孫のすべて、そして日本の伝統精神の継承者としての国民」、「日本の伝統を貫いて存在し日本国家における根本規範を完全に具現しているものとしての国民」と定義し、現在生きている国民の多数派が日本の天皇中心の国体及び伝統精神を軽々しく踏みにじることないようにすべきである。

 

 一国の憲法はそれを構成する民族の伝統的規範意識を踏まえたものであることが不可欠の条件であるとされている。欧米の古い憲法が生きた憲法として欧米においては効力を持っているのに対し、欧米の憲法を真似て制定した新興国の憲法が画餅化しているのはこのためである。

 「現行占領憲法」は、戦勝国たるアメリカに強制され、制定された。そして「憲法三原理」なるものとりわけ「国民主権」の考え方は、欧米においてのみ通用するものであり、天皇国日本には通用しない。

 

 日本民族の国家の基本に関する法観念は、天皇を君主と仰ぐ国家である。欧米の歴史的所産である主権在民・国民主権という国家体制を押しつけることは、日本の国体を破壊することである。

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