« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »

2015年5月30日 (土)

日韓関係について考える

日本と韓国とは異文化・異民族であることをもっと確認すべきだ。当たり前のことだが、日本と韓国とは地理的には近隣でも、文化的・民族的には異なる国であり民族である。

 

また、アジア各国を「アジア・東洋」でひとくくりにして近親関係にあるとするのは誤りである。アジア諸国家・諸民族には文化・歴史・宗教などに大きな違いがある。それぞれ個性がある

 

日本人そして日本文化は排他的ではなく、非常に大らかで包容力がある。韓国人及び韓国文化は排他的・独善的である。

 

それが、日本近代は「開国攘夷路線」を推し進めて近代化を遂げ、他国の植民地にならず発展し、韓国近代は「鎖国攘夷路線」に固執したために近代化に失敗し、独立を維持できなかった原因である。

 

李氏朝鮮の「鎖国攘夷路線」、そして事大主義(じだいしゅぎ・小が大に事(つか)えること)という外交路線が韓国を滅ぼしたのである。

 

新羅・高麗・李朝など朝鮮半島に生まれた王朝の多くは、支那大陸の中原を制した国家に対して「事大」してきた。

 

漢城の西大門である敦義門のすぐ外、義州を経て北京に至る街道に建てられていた迎恩門とは、支那皇帝の臣下であり、冊封国であった李氏朝鮮の歴代の王が、明代および清代の支那皇帝の使者を迎えるための門である。迎恩門とは恩のある支那皇帝の使いが通る門という意である。迎恩門は朝鮮国王が三跪九叩頭の礼によって明代および清代の支那からの使者を迎えた場所である。

 

その迎恩門に隣接して建てられていた慕華館は、清の使節団が滞在する建物である。慕華館とは字面を見ても明らかだが『中華を慕う館』という意である。かくの如く李氏朝鮮は、支那の属国であった。

 

しかし日清戦争によって、韓国・朝鮮は清の桎梏下から脱し、独立を達成した。そして、「迎恩門」は破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の「独立門」が建立された。そしてその後、日本が統治したことによって、韓国・朝鮮は近代化を遂げ、社会資本が整えられ、発展したのである。今日、韓国はその事を日本に感謝することは全く無い。

 

韓国は近代になっても、強い方につくという「事大主義」という外交姿勢は変わらず、李氏朝鮮時代は支那、その後、ロシア・日本、そして戦後はアメリカ、さらに今日は支那というように自分の国より大きな國に「事(つか)える」相手を変えて来た。朴正煕は「自律精神の欠如」として「事大主義」を批判していたが娘は確実に「事大主義」を継承している。

 

日本と支那・韓国との文化・道徳面における差異は実に大きいと思う。それは、京都御所と、北京の紫禁城・ソウルの景福宮を比較してみれば一目瞭然である。

日本は支那から儒教を学んだが、宦官・纏足という畸形文化は全く受け入れなかった。また易姓革命も受け入れなかった。

 

全世界の国家がそうであるように、東アジアにおいても大陸国家と半島国家・海洋国家とに分けられる。支那は大陸国家であり、朝鮮は半島国家であり、日本や東南アジア各国は海洋国家である。戦争が起こる確率が高いのは、半島国家である。大陸国家・半島国家・海洋国家が「共同体」を形成することはきわめて難しいというか、不可能に近いと考える。 

 

日本と支那や朝鮮が「共同体」を形成するということは、日本が大陸および半島との関係を今日以上に深めるということである。これまでの歴史で、日本が大陸に進出して成功したためしはない。

 

戦前は、軍事的・政治的に大陸に深入りして、ソ連中共の謀略に引っかかり、泥沼の戦いとなって日米戦争にまで進み敗北した。戦後は、経済的に深入りして、金と技術をまきあげられ、共産支那を軍事大国にしてしまい、かえってわが國の安全と独立が脅かされている。

 

私は、今日言われている「東アジア共同体」に日本が積極的に関与するのは、きちんとした国家戦略を確立しないままに、無原則に支那大陸に深く進出して行った戦前のわが國の過ちを繰返すこととなると考える。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月三十日

午前は、諸雑務。

 

午後一時より、有明の東京ビッグサイト国際会議場にて、『世界の若い議員と語り合うグローバル・オピニオン・サミット』開催。半田晴久氏(世界開発協力機構(WSD)総裁)が司会兼モデレーター。セイバー・チョードリーIPU(列国議会同盟)議長、マーティン・チェンゴン列国議会同盟事務総長、スリン・ピッスワン前ASEAN事務総長(基調講演)、城内 実外務副大臣(基調講演)、カオ・キム・ホルン氏(カンボジア首相特命大臣)、原口一博民主党 副代表、平沢勝栄氏(元外務委員長)、松木謙公(維新の党 幹事長代行)、ブレンダン・スキャネル氏(元駐日アイルランド大使)、ラルフ・コッサ氏(パシフィックフォーラムCSIS理事長)、伊藤憲一日本国際フォーラム理事長、舛添 要一東京都知事などがスピーチ。質疑応答、討論が行われた。後日報告します。

 

帰宅後は、明日行われる『日本の心を学ぶ会』における講演の準備、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月29日 (金)

「やまと歌」の本質について

「やまと歌」の起源は「戀」であった。相手の魂を乞ふ歌である。「乞ふ」とは魂を自分の方に呼び寄せることである。それが「戀」(こひ)の原義である。

 

大君への戀闕の心を表白する歌が「天皇讃歌」である。天地自然・山川草木への恋歌が「自然讃歌」である。死者を恋ひ慕ふ歌が「挽歌」である。即ち、やまと歌は全て「戀歌」と言っても過言ではないのである。

 

(うた)の語源は、「訴へる」である。恋ひ慕ふ対象への魂の訴へが「歌」である。その「訴へ」は「言霊」の発動である。歌ふことによって、愛する対象の所に自分の魂が寄って行き、また相手の魂が自分の所に寄って来るのである。そして魂と魂とがむすばれ、一体となるのである。それを「結び」と言ふ。

 

近現代詩や近現代の小説を創作することを「歌ふ」とは言はない。やまと歌を創作する事のみを「歌ふ」と言ふ。それはやまと歌が魂からの訴へであるからである。

 

多田千恵子氏は「歌いあげるという言い方は現代の詩については使われない表現であって、こういう表現がふさわしいこと自体、短歌がエレメンタルな抒情、朗々たる詠嘆を本命とする消息をよく物語る」(『山鳥の尾』・「短歌」誌昭和五自由一年十二月号)と論じてゐる。

 

「エレメンタル」とは「精霊」「自然や人間の中に宿る魂」「超自然的存在」のことである。「やまと歌」が古代から今日まで滅びずに、歌はれ続けて来たのは、日本人の魂の訴へに最も適した文藝であったからであらう。否、「適した」と言ふよりも、日本人の魂の訴へそのものが「やまと歌」なのである。

つまり、「やまと歌」は、最も純粋な日本文藝であり、最も高い日本文藝である。日本人固有の民族文学であ。その根底にあるものが「魂の訴へ」であり、「魂乞ひ」なのである。

神道祭祀の最も重要な行事は今日に於いても、祝詞奏上である。古代日本人が、神祭りを行ふ時、神に対する訴へる言葉を繰り返した。その結果、自然に決まった形をとるやうになった。それが「やまと歌」の発生であり起源である。

 

折口信夫氏は、「言葉そのものに威力・霊魂があると考へた。それが言霊である。それは唱辭(トナヘゴト)、抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の靈魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌の内にひそんでゐる靈魂が働きかけると信じてゐたのである」(『古代人の信仰』・「折口信夫全集」第二十巻)と論じてゐる。

 

近現代小説を創作することを「物語る」とは言はない。それに対して、日本の伝統的物語は「語る」のである。何を語るのか。「もの」を語るのである。「物」とは何か。それは「物の怪」の「もの」であり、「憑物」の「もの」である。即ち人間の「魂」であり「靈」である。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十九日

午前は、諸雑務。

昼は、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。有り難し。

午後二時より、赤坂の日本財団ビルにて、『笹川平和財団・笹川日中友好基金主催講演会「中国の現状と課題」』開催。モデレーターは、関山健笹川日中友好基金事業部長。吉田文彦笹川平和財団常務理事が主催者挨拶。周志興(CONSENSUSメディアグループ総裁 深圳創新発展研究院院長)施 展(北京外交学院世界政治研究センター主任、外交学系政治学教研室副教授)、周 濂(中国人民大学哲学院副教授)輝華)(中国人民大学経済学院教授、中国人民大学国家発展及戦略研究院研究員)、劉仲敬(武漢大学歴史学院博士課程在学中)が講演。質疑応答。きわめて興味深い内容であった。後日報告します。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆など。

 

 

 

| | トラックバック (0)

この頃詠みし歌

世を厭ふ心起ればひたすらに如意輪観世音を仰ぎ祈れり

 

平和平和と叫びて敵国の手先となる輩の多き事が疎まし

 

自然災害他國侵逼原発事故国難重なる日の本の國

 

大観の描きし富士の絵を仰ぎわが雄心の湧きて来るなり

 

松園の美人画を見てしばしの間夢の世界に入り行きし如し

 

新緑の目にあざやけきを楽しみて不忍池を経巡りにけり

 

千駄木の坂道登りわが母校に投票に行く休日の午後

 

滅びゆくやまと歌かも短歌雑誌の若手歌人の歌讀み思ふ

 

わけの分からぬことを口語体で書きてゐるこれを歌とはとても思へず

 

母と共に生きゐることのうれしさよ母ゐますかぎりは生きねばならぬ

 

楽しげに過ごしゐる母は突然に家に帰りたいとつぶやきたまふ

 

命の炎燃ゆるがままに歩みゆかむ苦楽一如のこの人生を

 

長き歳月政治の世界に生きて来し人は今宵は穏やかに語る

 

浅草の雷門の華やぎを彼方に眺め歩む夕暮

 

懐かしき人と語らふこの夕べ浅草の夜の時は過ぎゆく

 

いにしへの萬葉集の歌学び今を生きゐることのうれしさ

 

いにしへに生きたる人の歌を讀み今を生きる身の学びとやせむ

 

楠公祭の斎の庭に友ら集ひ皇國彌榮を祈りまつれり

 

「櫻井の訣れ」歌ひつつ涙する昔の乙女が隣席に坐す

 

海原を見渡し立てる初夏の日にさやかなる風吹きわたるなり

 

そのかみの國の守りのますらをを しのびつつ立つ能古島かな

 

今頃は如何におはすかと母のこと思ひつつ一人部屋で過ごしゐる

 

人多く待ちて並べるトイレにて便意こらえつつ我も立ちゐる

 

 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十八日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

夕刻は、水道管の工事に立ち会う。

夜は、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月28日 (木)

浅川公紀武蔵野大学教授の講演内容

三月七日に開かれた『アジア問題懇話会』における浅川公紀武蔵野大学教授による「レームダック期に入ったオバマ政権の外交・安全保障政策」と題する講演の内容は次の通り。

 

 

 

「レームダックとは、『死に体』『役立たず』と訳される。オバマにはそういう認識はない。三回目の選挙はない。自分の考えていることをやっていくと言う流れがある。共和党との攻防は今後も続く。米中間選挙、上院四三〇の内二四七議席を取った。戦後最高。下院一〇〇のうち五四。ホワイトハウスと共和党との協力は『移民制度改革』で最初から崩れた。拒否権発動の脅しをかけ始めている。議会との協力、特定法案での妥協のプロセスを無視。

 

 

 

『オバマは二〇〇一年のテロの遺産を背負い、リーマンショックの危機を背負って、それを乗り越えた』と言う人もいる。オバマは、『アフガン、イラクについて一応決着をつけた』と思っている。イラン、アフガンの戦争活動を早く切り上げたかった。そのために急ぎ過ぎた。二〇一一年、アルカイダのビンラディン殺害を契機にして、アメリカは『目的を果たした』と誇大宣伝・過大評価をした。テロとの戦いが終わるという思いがあった。しかしむしろテロは激化。オバマは『アルカイダは壊滅状態にある』と言ったが、そうではなかった。イラクから米兵を撤収時期尚早と言われた。

 

 

 

オバマは『テロは終りつつある』というレトリックに反するということで、安保上の現実よりも政治的計算を優先させた。オバマはイスラム過激派テロの脅威を軽視。シリア内戦は長期化した。イラクは米軍撤退後、テロリストの一大拠点になった。残り二年間のオバマ外交安保政策は、差し迫った脅威たる『イスラム国』への対応。

 

 

 

喫緊の問題はテロ。『イスラム国』は米本土への脅威になり得る。暴力的過激主義の根本原因に対抗するため他の国々と協力する努力が重要。外交評議会(CFR)のリチャード・ハース会長は『オバマ大統領は中東では困難な状況を引き継いだが、状況をはるかに悪化させた』と言った。戦略計画を示すことができない。韓国とアメリカ・日本とは価値観が違う。アメリカは日本の命綱。オバマは『アジアが大切』と言った初めての大統領。また『尖閣は安保条約の適用範囲内』と言ったのはオバマのみ」。

 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十七日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料の整理など。

| | トラックバック (0)

2015年5月27日 (水)

「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」が戦後日本全体を覆ってきた精神

 戦後日本は、「平和」「民主主義」「人権尊重」「生命尊重」「個の尊重」を最高の価値として押し戴いた。「平和」「生命尊重」は、國のために戦ふといふ「強者の思想」を否定し、武力は放棄する、國軍は持たないといふ「弱者の思想」である。國家の独立・平和・歴史・伝統、國民の生命、自由が侵略者から蹂躙されても、「戦争は無い方が良い、人命尊重だ」と言って、戦ふことを忌避する「弱者の思想」である。

 

 弱者であるから徒党を組む。即ち集團で運動をせざるを得ない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の生き方しかできない。弱者は弱者なるが故に、常に「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象を常に見つけ出し、あるいは作り出さずにはをれない。これが「いじめ」である。「いじめ」とは、小學生・中學生の専売特許ではない。

 

 「戦後民主主義・平和主義」の「守り手」・「弱者の味方」を以て任ずるマスコミは、「知る権利」「知らせる義務」とやらを振り回し、カメラやマイクを持って「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象となってゐる特定の人物を「正義の味方面」をして追ひかけ回し責め苛む。これまで、かういふやり方でどれだけ多くの人々が血祭りにあげられ、「魔女狩り」の対象になってきたであらうか。小學生・中學生のいじめは、大人のかうしたやり方を真似してゐるのである

 

三島由紀夫氏は言った。「われわれは戰後の革命思想が、すべて弱者の集團原理によって動いてきたことを洞察した。…不安、嫌惡、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の道具に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集團運動である」(『反革命宣言』)と。

 

 革命思想のみならず、戦後日本全体を覆ってきた精神全体が、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」である。自分よりも富める者・幸福に見える者を憎み、嫉妬し、これを引きずり下ろさうといふ精神である。それを煽りつづけて来たのがマスコミである。

 

 

三島氏はさらに言ふ。「文學・藝術の故郷は非合法の行動の暗い深淵に求められていくことになるであらう。…法はあくまでも近代社會の約束であり、人間性は近代社會や法を越えてさらに深く、さらに廣い。かつて太陽を浴びてゐたものが日陰に追ひやられ、かつて英雄の行爲として人々の稱贊を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになった」(『行動學入門』)と。

 

 長い日本の歴史の中で、須佐之男命・日本武尊といふ神話時代の英雄、さらに中古中世の鎮西八郎為朝、源義経、さらに近世・幕末における赤穂四十七士、井伊直弼を撃った水戸脱藩浪士の行動、さらに大東亜戦争における特攻隊員を始めとした将兵たちの行為などは、「英雄」と讃へられてきた。しかし、戦後日本は、さうした英雄の行為を「非合法」「反ヒューマニズム」として裁き、「日陰」に追いやった。

 

 「武」は否定され、「生命の尊重」が最高の道徳とされ、「平和と民主主義」を謳歌してゐる今日の日本において、戦前どころか有史以来見られなかったやうな凶悪にして残虐なる犯罪、殺人事件が続発してゐる。

 

 三島由紀夫氏は、昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷台上で自決された際の『檄文』で、「生命の尊重のみで、魂が死んでもよいのか」と訴へた。まさに、現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまひ、頽廃と残虐の時代になってしまった。そしてその事によってかへって人間の生命が尊重されなくなってゐる。

 

戦後日本の「魂の腐敗」と「國家の欺瞞」は、「軍國主義國家」であったとされる戦前の日本にはあり得なかったやうな、人命軽視といふ言葉すら空しくなるやうな、残虐なる殺人が日常茶飯事になった現代社會を現出させた。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十六日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理、。

この後、施設に赴き、母に付き添う。機嫌良し。

午後六時より、吉祥寺にて、渡部昇一氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月26日 (火)

天皇を現御神と仰ぎ絶対の信を寄せることが日本の臣道

近年、國體護持・皇室尊崇の念を持つ人々による、皇室・皇族に対する「諫言・批判・苦言」が雑誌新聞などに発表される多くなった。尊皇愛国の精神篤い人は、天皇様や皇太子様が「自分たちの抱く天皇の理想像」あるいは「天皇様にはこうあっていただきたいという思い」と異なる御発言や御行動をされた時、天皇様や皇太子様を批判の思いを抱くことがある。心の中でそういう思いを抱くことはあるいはやむを得ぬことかも知れない。

 

しかし、天皇皇后両陛下をはじめ皇太子同妃両殿下などの御皇族方の御行動・御発言に対し奉り、雑誌・新聞などで色々と批判し苦言を申し上げることは如何なものであろうか。何か他の方法にて、諫言申し上げるべきではなかろうか。自分の意志や思想と一致する天皇を尊ぶことなら誰にでもできる。しかし、自分の意志や思想と異なる行動をされた天皇に対しても忠義を尽くし従い奉るのが真の尊皇であり勤皇である。そのことは、日本武尊の御事績・楠正成の御事績を見ればあまりにも明らかである。

 

久保田収氏は、「楠正成が、わが国史上の英雄として崇拝されて来たのは、その絶対尊皇の精神と行動にある。『太平記』四十巻の中で、近世の人々が最も感動深く読んだものは、正成の活動と忠誠とであった。正成が天皇の御召しを受けて参上し、力強く決意を申し上げたこと、千早の険に拠って、北条氏の大軍を向こうにまわして奮戦し、建武中興の糸口をつくったこと。『七生報国』の志を残して、湊川で戦死したことなど、正成が死生を超越し、一意至誠をもって天皇に捧げた純忠の精神は、読む人に深い感動を与え、正成への憧憬と、その志を受け継ごうとする決意とを生み出したのである。天和二年(一六八二)に亡くなった山崎闇斎の学問の流れを汲んだ若林強斎が、その書斎を望楠軒といって、楠公を崇拝する気持ちを明白にし、正成が『仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし』と申したということに感じて楠公崇拝の心をおこした、と伝えている。強斎は、このことばが『わが国士臣の目当』であると考え、正成を日本人の理想像として仰いだのである。」と論じている。(『建武中興』)

 

楠公の『仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし』こそ、わが国の臣民のあるべき態度である。天皇を現御神と仰ぎ絶対の信を寄せることが日本の臣道である。尊皇精神とは、日本国の祭祀主として神聖なる君主であられる天皇へのかしこみの心である。

 

村岡典嗣氏は、「歴史日本が創造した道徳的價値の重要なものとしては、尊皇道と武士道との二つを、擧げ得る。尊皇道徳は太古に淵源し、我が國體の完成とともに、而してまたその根柢ともなって成就したものである…そは即ち、天皇に對し奉る絶對的忠誠の道徳であって…太古人がその素朴純眞な心に有した天皇即現人神の信念こそは、實にその淵源であった」と論じている。(『日本思想史研究・第四』)

 

第二十三代・顕宗天皇はその父君・市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺したまふた雄略天皇をお怨みになり、その御霊に報復せんとされて御陵を毀損しやうとされ、弟君・意祁命(おけのみこと)にそれを命じられた。だが、意祁命は御陵の土を少し掘っただけで済まされた。天皇がその理由を尋ねられると意祁命は「大長谷の天皇(註・雄略天皇の御事)は、父の怨みにはあれども、還りてはわが従父(をぢ)にまし、また天の下治らしめしし天皇にますを、今単(ひとへ)に父の仇といふ志を取りて、天の下治らしめしし天皇の陵を悉に破壊りなば、後の人かならず誹謗(そし)りまつらむ」(『古事記』)と奉答された。

 

如何に悪逆非道の天皇であると思っても、天皇に反逆してはならないというのがわが国の尊皇精神なのである。この絶対尊皇精神は太古以来の伝統である。

 

本居宣長は、「から國にて、臣君を三度諌めて聽ざる時は去といひ、子父を三たびいさめて聽ざるときは泣てしたがふといへり、これは父のみに厚くして、君に薄き悪風俗也。…皇国の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者去べき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ悪くましまして、従ふに忍びずと思はば、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知べし、たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり…然れば君あししといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて、従ひ奉るは一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其益広大なり。」(『葛花』)と論じている。

 

天皇は現御神であらせられ絶対的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考えや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下をあからさまに批判する事は絶対にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。楠正成公が言われた如く「仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし」なのである。

 

天皇陛下が間違ったご命令を下されたり行動をされているとたとえ思ったとしても、国民は勅命に反してはならず、まして御退位を願ったりしてはならない。どうしても従えない場合は自ら死を選ぶべきであるというのが、わが国の尊皇の道であり、勤皇の道であるということを本居宣長先生は教えているのである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十五日

午前は、諸雑務。

昼は、知人と懇談。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時より、赤坂の乃木会館にて、『楠公祭』執行。祭詞奏上・祈願詞奏上・『櫻井の訣別』斉唱・玉串奉奠などが行われた。祭主の犬塚博英氏が挨拶。続いて、大原康男国学院大学名誉教授が「靖國祭祀の原型としての楠公祭」と題して講演。

帰宅後は、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月25日 (月)

萬葉古代史研究會

四宮正貴が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 六月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区南大塚地域文化創造館

 

東京都豊島区南大塚二-三六-一 〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

 

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

| | トラックバック (0)

『神皇正統記』の中核思想は尊皇である

『神皇正統記』の中核思想は尊皇である。建武中興の思想的背景を正しく論じた書で、神話の精神に回帰して日本國が神國である事が説かれてゐる。それは冒頭に、「大日本者神國也。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ。此故ニ神國ト云也」と示されてゐる通りである。

 

『神皇正統記』は、正直・慈悲・智慧といふ倫理と神話時代からのわが國の道統とを合一して國史を論じた書物であると思ふ。北畠親房公は、「三種の神器」は正直・慈悲・智慧の三つの根本徳目を表現してゐると説かれた。

 

親房公は、「よそ政道と云事は…正直慈悲を本として決断の力有べきなり。これ天照太神のあきらかなる御をしへなり」と論じてゐる。

 

わが國の尊皇の精神と維新の道統すなはち國體精神はわが國独自の精神である。外来思想はわが國國體精神に合致する思想のみが受容された。そして、わが國體精神を説明し確認するために儒教・佛教が用いられた。「和魂漢才」とはかうしたことをいふのであらう。

 

親房公の目的は神話時代の精神と道統を回復し國體を明らかにすることであったが、親房公が儒教の影響も強く受けた事は確かである。徳富蘇峰氏は次の如くに論じてゐる。「『神皇正統記』を一読してもさえも、いかに彼(注・北畠親房公)が宋學の大なる感化を蒙りたるかを知ることができる。…およそ宋人ほど大義名分について、深く研究したる者はない。王覇の弁、正閏の別、すべて宋人の論議を尽して余蘊なきものである。…三種の神器論を持ち出し、南朝の正統であること宣揚したる所以のものは、宋人の論理そのものを使用したといわずんば、少なくとも宋人の精神、もしくは思索の傾向の感化を受けたることを看過することはできぬ。日本主義の宗師が支那の感化によって、その論陣を張ったということはいささか意外であるが、しかも事実はまったくその通りである。」(『明治三傑』)

 

一方、津田左右吉氏は次のやうに論じてゐる。「日本人の道徳に関する知識は概ね儒教によって指導せられて来たのである。しかし、日本人の道徳生活そのものは、古今を通じて、かういふ知識とは関係の甚だ浅いものであり、直接には殆ど影響を受けてゐない」(『役行者傳説考』)「我皇室が國民の血族上の宗家とする思想は、儒教の天子の観念とは全く相容れないものであるが、当時の人々は全く平気で儒教風の文字を連ねてゐた。これらは畢竟、儒教が文字上の教としてのみ取り扱はれてゐたことを示す」(『文學に現はれたる我が國民思想の研究』)

 

親房公は、儒教思想を借用して國體を論じたのである。それだけ親房公のみならず日本人は包容力があるといふことである。儒教は學問・知識として受け容れられ、借用もされたが、儒教を宗教として受容しなかったことは、我國に孔子廟の数が、神社仏閣の数とは比較にならないほど少ない事を見ても明らかである。

 

日本人はまた、儒教の普遍的な倫理思想は受け容れたが、「有徳王君主思想」とそれに由来する「易姓革命思想」は受け容れることはなかった。むしろ厳しく排斥した。日本人は包容力があったとはいへ、國體の根幹を破壊する思想はこれを受け容れなかったのである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十四日

午前は、諸雑務。

午後は、菩提寺に赴き、四宮家の墓を掃苔。拝礼。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時より、池袋にて、同志多数と懇談。小生は「俵星玄蕃」「大利根無情」を熱唱。

帰宅後は、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月23日 (土)

『日本の心を学ぶ会』における瀬戸弘幸氏の講演内容

二月二十二日に行われた『日本の心を学ぶ会』における瀬戸弘幸氏の講演内容は次の通り。

 

「以前、松本健一氏の『北一輝論』を鈴木邦男氏からいただいた。北一輝を論じた人で松本健一氏以上の人はいない。北一輝は『二二六事件』の首謀者の一人として逮捕された。しかし北一輝が青年将校を指導した形跡は全く無い。北一輝は蹶起を知らされていなかった。それには理由があった。北一輝は堕落していると思われていた。北一輝は三井から資金を得ていた。純粋な面もあったが、そうではない面もあった。事件前に北に通報したらばれると思われた。

 

明治の軍は天皇陛下の軍即ち皇軍であった。そういう軍が結果的に天皇に牙をむいた形になった。そこで『青年将校は悪者によってそそのかされた』ということにした。その悪者が北一輝ということになったのかなあと思う。何故北一輝は悪者にされたのか。明治三十九年に『國體論及び純正社會主義』を刊行したが、発禁処分になった。北の本が不敬だと騒いだのはマスコミ。政府も放置できなくなり発禁になった。この本は北一輝が二十三歳の時に書いた。五百部の自費出版。秘密裏にこの本は広まっていく。『日本改造法案大綱』とこの本を青年将校が讀んでいた。蹶起した時、北一輝は青年将校に電話した。それが『指令』とされた。誰かを悪者にしなければならなかった。北一輝はそのことを自覚していた。指示もしていないのに、『私の責任です』と言って責任を背負って死んでいった。処刑の時『天皇陛下万歳』とは言わないと言ったとされているが、看守が聞いたといって表に出ただけ。本当にそういう会話が交わされたかははっきりしない。北一輝は中国革命を助けるために中国に行った。

 

日本は明治以後近代化し資本主義国家になった。資本家が労働者を搾取し、社会状況は殺伐としていた。右翼も反資本主義。しかしマルクス主義者とは違う。純正社会主義とは、『分配を平等にすべきことを主張せず、上層階級を下層に引き下げるものにあらず、下層階級が上層に進化するものなり』という主張。これは天才的主張。『日露戦争は戦うべきか、戦わざるべきか』が右翼と左翼の分岐点。幸徳秋水・堺利彦は日露戦争に反対した。奈良時代平安時代は、土地は全て天皇のものであった。北一輝の主張は、マルクス社会主義とは違った意味での土地国有化・生産手段公有化論。基幹産業の国有化という北の主張は当然だった。『國體論及び純正社會主義』には個人の独立と自由を尊ぶ言葉が連ねられている。言葉尻をとらえて『不敬』と言われた。学歴のない者がこういう画期的なものを書いたことへのジェラシーがあったのではないか。『天皇機関説』を肯定。これは当時では不敬になった。

 

右翼とは反近代・反西欧。農本主義・反資本主義。資本主義は労働者を確保しなければならない。農村・農業から工場労働者を吸い上げたので農村は疲弊した。農村を犠牲にして日本近代の資本主義は伸びた。そこから農本主義が生まれた。国土と国民があって国家がある。土地を大事にする。『土とまごころ』という本があった。阿部勉さんが出していた。日本天皇は稲作文化と一体。農本主義の中心が天皇。国家社会主義は理解されないが、農本主義は受け入れられる。農本主義は右翼思想の柱の一つ。日清戦争は日本が徴兵制だったから勝った。清は雇用された兵隊だった」。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十三日

午前は、諸雑務。

この後、『政治文化情報』発送作業、発送完了。購読者の皆様には週明けにはお届けできると存じます。

午後四時より、西荻窪にて、呉善花さんにインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

清らかさ・明るさを好む日本人のロマン精神は「海」への憧れと一体であった

呉善花氏は次の如くに論じている。

 

「島国の日本には古くから、海の彼方の国から幸せがもたらされるという信仰があったと知った。また、豊かな穀物の実りをもたらしてくれる神への信仰が、日本の祭りの根本にあり、また神社信仰の基盤となっていることを知った。そうした信仰のもとに共同体を形成し生活を営んできた歴史が日本にはあった。『皆さんのお蔭』の意識の底には、そうした信仰の伝統が流れていて、『自分の力』が『外部の威力』と無縁ではありえないという気持ちを形づくっている」(『攘夷の韓国 開国の日本』)と。

 

日本の「まれびと信仰」はその典型である。よそから来た人が美しいもの、良きものをもたらしてくれる素晴らしい事をもたらしてくれるという憧れの念というか好意というものを日本人は持っている。天上への憧れが「天孫降臨神話」を生み、海の彼方への憧れが「浦島伝説」を生んだ。古代において、多くの渡来人及び外来文化を受け入れたのもこういう感覚があったからであろう。

 

四方を海に囲まれている島国に生きる日本人にとって、海は実に身近な存在である。我々日本人が海の彼方へ憧れを抱いたのは自然である。それは海そのものへの憧れであると共に、海の彼方の「他界」への憧れでもあった。日本民族が太古に遥か北方や南方の海の彼方からこの日本列島に渡って来たらしい事が原因なのかも知れない。

 

 名も知らぬ遠き島より

 流れ寄る椰子の実一つ

 

 故郷の岸を離れて

 汝はそも波に幾月

 (中略)

 実をとりて胸にあつれば

 新(あらた)なり流離の憂(うれひ)

 

 海の日の沈むを見れば

 激(たぎ)り落つ異郷の涙

 

 思ひやる八重の汐々

 いづれの日にか国に帰らむ

 

 明治三十三年雑誌「新小説」に発表された島崎藤村の詩である。のち、大中寅二によって曲が付けられ、今日も多くの人々に愛唱されている。柳田国男が明治三十一年夏に愛知県の伊良湖に旅した時、椰子の実が流れ寄って来たのを見た体験を、藤村が聞き、詩にしたものという。椰子の実に託して、海の彼方の南の国へのロマン・望郷の思い、そして「流離の憂い」を表白した詩である。

 

たとえ南国に故郷の無い人間でもこの詩を読むと、何となく望郷の念にかられる。それは、日本人が、古来、「常世」(とこよ・この世の彼方即ち他界にある永遠の世界・理想の世界)への憧れを抱いていたからではあるまいか。

 

 「常世」とも「妣(はは) の国」とも言われる所は、海の彼方の憧れの国なのである。そこは、太平洋岸では日の昇る水平線の彼方であり、日本海岸では日の沈む水平線の彼方である。そこに、永遠の国・浦島太郎が老いなかった竜宮城があると信じたのである。

 

 昔々浦島は

 助けた亀に連れられて

 竜宮城へ来てみれば、

 絵にもかけない美しさ。

 

 文部省唱歌『浦島太郎』の一節である。海の彼方に不老不死の国があるという信仰が「浦島伝説」を生んだ。

 

 日本文学の起源と言われている「祝詞」にこの海への憧れが高らかに歌われている。

 

 「天下四方(あめのしたよも)の國には、罪と云ふ 罪は在らじと、…大海原に押し放つ事の如 く、遺(のこ)る罪は在らじと祓ひ給ひ清め給ふ事を、…瀬織津比姫(せおりつひめ)と云ふ神、大 海原に持ち出でなむ。如此(かく)持ち出で往() なば、荒鹽(あらしほ)の鹽の八百道(やほぢ) の、 八鹽道(やしほぢ)の鹽の八百會(やほあひ)に座() す、速開都比姫(はやあきつひめ) と云ふ神、持ち可 可(かか)(のみ)てむ…」(大祓詞)

 

 日本人の持っている「陸地の穢れたものはすべて海に流せば淨まってしまう」という信仰が『大祓詞』に歌われている。また、日本人はお淨めに塩を用いる。塩は海から取れる。海が清らかなところと信ずるがゆえである。清らかさ・明るさを好む日本人のロマン精神は「海」への憧れと一体であったのである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十二日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、明日のインタビューの準備など。

| | トラックバック (0)

2015年5月22日 (金)

萬邦無比の日本國體

我が日本は自然に生まれてきた国であって、人為的に作られた国ではない。「生まれる」と「作られる」とでは絶対的な違いがある。日本は古代において自然に「生まれた」国である。ところがアメリカや旧ソ連や中華人民共和国は一定の目的を持って高々数十年から百年くらい前に人為的に作られた国である。

 

「生む」は日本伝統信仰の観念であり、「作る」はキリスト教の観念である。伊耶那岐命伊耶那美命は日本国土をお生みになったのであり、キリスト教の神(ゴッド)は人間を作ったのである。キリスト教の神はなぜか国家は作らなかった。国家は神によって造られた人間が集まって文字通り人為的に作られたと言うのが西洋の考え方である。日本の国家観と西洋国家観の違いは実にここから発すると考えられる。

 

日本国は、数多くの個としての人間が寄り集まって人為的に契約を締結して作った権力機構・政治形態としての国(これを「国家法人説」と言い換えてもいいと思う)とはその本質が全く異なるのである。

 

「国家法人説」とは、国家を法的な主体としての法人と考える理論で、いわゆる「天皇機関説」の基礎をなす理論とされている。また「法人」とは「自然人以外で法律上の権利義務の主体となることができるもの。一定の目的の下に結合した人の集団あるいは財産についてその資格が認められている集団」といわれている。国家とは、社団法人や財団法人のように多くの人々が一定の目的のために契約を結び人為的に造られたものだというのが「国家法人説」なのである。天皇中心の信仰共同体としての日本は断じてそのような存在ではない。「国家法人説」を政体としての国家はともかく日本国体に当て嵌めることはできない。

 

日本人は、豊かな自然に包まれて、様々な階層の人々も、「和」「むすび」を基本として生きてきた。そして信仰共同体としての国家が生まれた。その「和」「むすび」は人と人との間柄のみならず、人と自然の関係もしかりであった。

 

我が日本はどのような闘争や激動があっても、日本という国が分裂し破壊し尽くされてしまうということ無く、天皇を中心とする「和」「むすび」によって国家の統一は維持され、民族の伝統は一貫して継承されてきた。ここが日本という国の有難いところである。

 

この「むすび」の語源は、「生す」「生える」である。「草が生す」「苔が生える」といわれる通りである。つまり命が生まれることである。故に母から生まれた男の子を「むすこ」といい、女の子を「むすめ」というのである。「むすび」とは命と命が一体となり緊密に結合するということである。米のご飯を固く結合させたものが「おむすび」である。そして日本伝統信仰ではその米のご飯には生命・魂が宿っていると信じてきた。

 

「庵を結ぶ」という言葉があるが、日本家屋は様々な材木や草木を寄せ集めこれらを結び合わせて作られた。結婚も男と女の結びである。故にそのきっかけを作った人を「結びの神」という。そして男女の〈むすび〉によって新たなる生命が生まれる。日本の家庭も〈むすび〉によって成立しているのである。 

日本という国家も同じである。人の魂が結び合って生まれてきた生命体なのである。日本民族の農耕を中心とする伝統的生活のから培われた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命体が日本国なのである。そしてその〈むすび〉の中核が日本伝統信仰の祭祀主である天皇である。これが三島由紀夫氏の言う「祭祀的国家」としての日本なのである。

 

我々はまず以て「国家観」を正しく確立しなければならない。言うまでもなく日本と欧米とは歴史・文化・宗教・社会構造・人間関係を異にしているのだから、日本国を近代西欧流の国家法人説・国家暴力装置説などの「国家観」によって論じてはならない。

 

近代以後のいわゆる「西洋化」そして大東亜戦争以後のいわゆる「民主化」(その実態は日本伝統破壊)によって、信仰共同体としての日本の本当の姿(これを国体と言い換えてもいいと思う)が隠蔽され、麗しい祖国日本を、単に権力関係・契約関係・社会経済関係によって成り立った法人であり機構であると考えるようになってしまった。現行占領憲法は実にそういう思想によって作られているのだ。今日の日本の政治腐敗・自然破壊・教育荒廃などの様々な矛盾の根本原因は実にここにあると考える。

 

わが国は、信仰的・祭祀的統一によって形成された国家である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。祭祀国家として約三千年の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本国の本質であり、日本國體の尊厳性なのである。わが國體が萬邦無比と言われる所以もここにある。

 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十一日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き、母に付き添う。

午後五時より、浅草にて、深谷隆司元衆院議員にインタビュー。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備。

| | トラックバック (0)

2015年5月21日 (木)

天皇国日本の本質

 日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。これを『日本神話』は「神が日本國を生みたもうた」と表現した。

 

 したがって、日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國ではない。さらに、征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。だから我が國の國體を「萬邦無比」といふのである。

 

 日本民族の生活の基本たる稲作に欠かすことのできない自然の恵みが、太陽であり大地である。日本民族は太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大御神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の靈が宿ってゐるものとして尊ばれた。そして、古代日本人は太陽神・天照御神を最も尊貴なる神として崇めた。天照大御神は、太陽の神であると共に、皇室の御祖先神であると信じられた。

 

 天照大御神をはじめとする天津神、大地の神である國津神、稲穂の靈をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主たる日本天皇は、天照御神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。祭り主たる天皇は、稲作を営む古代日本人の共同體の統合と連帯の中心者・君主として仰がれた。

 

 古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體なのである。

 

 天皇国日本は、そこに住む人々の共同の意識・倫理観・信仰精神と共にある。祭祀主たる天皇は権力者でもないし権力機関でもない。その共同体に生活する国民は、天皇の大御宝と尊ばれ、神の子として育まれ、美しいものへの憧憬憬の心を育てられて生きてきた。

 

 その信仰共同体としての国は、母なる大地であり、まさに祖国であり母国である。日本国は、親と子との関係と同じ精神的結合によって形成されてゐるのである。

 

日本の統一は、分立してゐた地方の共同体勢力がともどもに日の大神=天照大御神の権威を承認することによって成就した。日の大神の御子である「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一したのである。日本各地から太陽神祭祀の象徴である鏡が数多く発見されてゐる。

 

天照大御神をお祭する祭り主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理・神聖なる御存在=現御神として仰がれるやうになった。信仰共同体・日本国の〈生きた全体性〉は天照大御神とその地上的御顕現であらせられる現御神日本天皇によって体現される。

 

祭祀主による日本国の統合は、軍事力によるのではなく、祭祀による統合であった。古代日本において、軍事力が全く使用されなかったといふことはなかったとしても、基本的には祭祀的統合・結合が基本であった。古代日本の地方共同体が稲作生活を基本として交流し、共同を確かめ、稲作生活に必要不可欠な太陽を神と仰ぐ信仰を共通の信仰としたのである。そして天照大御神を最高神と仰ぐ共同体・日本国として統一された。それが天皇国日本の成り立ちである。

 日本は米作り・稲作文化を基本とする國である。「天孫降臨神話」に示されてゐる通り、日本国の君主・統治者たる天皇のご使命は、瑞穂を盛んに稔らせることである。太古において稲作文化は、九州から本州へと急速に広がったといはれる。稲作文化を営むことによって、わが日本民族は共通の意識・文化・言語・倫理観・信仰をはぐくんでいった。日本民族は遊牧・牧畜・狩猟を生活の基本とする民族とは基本的に異なるのである。

 

 稲作生活は、一人では営むことができない。共同作業である田植へ・刈り取りを中心としてゐる。共同体の形成なくして稲作生活は営めない。稲作生活はまた、規則正しい四季の変化に則って作業を行ふ周期的繰り返しの生活である。ゆへに、自然の影響が大きい。そこで穏やかなる自然環境を願ふために神を祭り神に祈ったのである。

 

 南九州に置ける稲作生活を基本とする祭祀的統一体が西に進み、大和を中心とする祭祀的統一体に発展した歴史を物語ったのが、神武天皇の御東征であるとされる。

 

 日の神を祭る祭祀共同体が我が国の起源であり本質である。伊勢の神宮に奉斎されてゐる神鏡が、崇神天皇の御代に皇居からお出ましになり、大和笠縫の地に奉斎され、ついで垂仁天皇の御代に伊勢に奉斎されたと傳へられてゐるが、この事は、天照大神が皇室の御祖先神であらせられると共に、日本民族全体の祖先神・御親神であらせられることを示したと思はれる。

 

 『記紀』の神話は、かうした神聖なる宗教的統一が行はれた日本国生成の物語が語られてゐるのである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二十日

午前は、諸雑務。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、資料の整理、明日のインタビューの準備など。

| | トラックバック (0)

2015年5月20日 (水)

天皇陛下が祭祀を行はせられ、天下を統治されるところを「都」と言ふ。

「大阪都構想」を掲げて戦った橋下徹大阪市長の主張が、十七日に行はれた住民投票で僅差とはいへ敗れ、廃案となった。「大阪都構想」は、大阪市を廃止し、その領域に特別区を設置するといふ構想であった。戦時中に行はれた東京府・東京市を廃止し東京都とした前例を参考にしており、大阪市等の廃止に伴ひ、大阪府などを行政区画上、「都」へ変更するといふものだった。

 

 「都」とは一体どういふ意義を持つのであらうか。天皇陛下が祭祀を行はせられ、天下を統治されるところを「都」と言ふ。天皇は祭祀主として神を祭り、國民の幸福・國家の平安・五穀の豊饒を祈られる。それを「まつりごと」といふ。そして、政治と祭祀は一体である。天皇の祭祀が行はれる「宮」のあるところであるから、「みやこ」と言ふ。

 

 天武天皇の御代までは「一代一宮の遷宮」といって、御代替りごとに皇居も新しく造営された。新たなる祭り主たる天皇が御即位になったら、宮も作り替へなければならなかった。新しき宮に新しき神霊が天降ると信じたからである。しかし、原則的には奈良盆地の東南すなわち大和地方の中に皇居が造営された。

 

 この習慣は、伊勢の神宮の式年遷宮に受け継がれてゐる。日本の伝統信仰・民族信仰の中心神殿たる伊勢の神宮は、二十年毎に式年遷宮が行はれ、神殿を新しく作り替へ、御装束・神宝が新調される。式年遷宮を大神嘗祭といふ。神嘗祭とは、その年にできたお米を伊勢の大神にお供へする行事である。新しい宮を造ることによって、祭られてゐる神の威力が更新し増大すると信じられてゐる。

 

 伊勢の皇大神宮は決して過去の遺物として残ってゐるのではない。わが國の古代民族信仰は今日ただ今も脈々と生き続けてゐる。他の國の古代民族信仰は、キリスト教や回教に滅ぼされて、神殿は過去の遺物となってゐるが、日本伝統信仰は、今日ただ今も日本人の生活の中に生きており、全國各地でお祭りが行はれてゐる。最新の技術を用いた建物などを建設する時も、地鎮祭や上棟祭が行われる。

 

 アメリカ大統領は聖書に手を置いて宣誓をする。イギリス國王はキリスト教會で即位式を行ふ。しかしそれらは民族信仰・古代からの伝統信仰に基づく行事ではない。日本天皇は、御自身が古代以来の日本伝統信仰・民族宗教の祭り主であらせられ、しかも「現行憲法」下においても、事実上の國家元首であらせられる。このやうな國はわが國だけであらう。だからこそわが國の國體を萬邦無比と言ふのである。

 

 天武天皇の御代になると、國家の運営や外國との関係、宮殿の規模や官僚機構の肥大化などにより、「一代一宮」の制度は、事実上困難になった。また大化改新の後、唐の政治法律制度を見習ったので、唐の都を模した都を建設することとなった。そして、天武天皇は、都を御一代毎に遷都するのではなく、恒常的な新京造営を計画された。持統天皇はその御遺志を継がれて藤原京を御造営あそばされた。藤原京の造営によって「一代一宮制」は廃止になった。

 

 ともかく、「都」とは、天皇が天神地祇をおまつりあそばされる「宮」のある聖地なのである。今日も、天皇陛下は、宮中に於いて、国民の幸福・五穀の豊穣・世界の平和・国家の安穏を祈る祭祀を行はせられてゐる。大阪に「都」といふ名をつけることは、我が国の歴史伝統を否定することになりかねなかった。その意味で、「大阪都構想」の廃案は良かったと思ってゐる。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月十九日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。久しぶりに家に帰りたがる。

帰宅後は、明日のスピーチ、及び、明後日のインタビューの準備。

| | トラックバック (0)

2015年5月18日 (月)

『國體政治研究会』における荒岩宏奨展転社編集長による「神々が定め給ひし國體と臣民の道」と題する講演の内容

二月十六日に開催された『國體政治研究会』における荒岩宏奨展転社編集長による「神々が定め給ひし國體と臣民の道」と題する講演の内容は次の通り。

 

「私の思想の拠り所は保田與重郎。保田は本居宣長の思想を継承した。江戸時代の国学者はいにしえの人の心をつきとめるために、仏意・漢心を排した。賀茂真淵と宣長のように日本を深く見つめることはが大事。日本本来の国家観を持つことが大事。國體明徴が大事。

 

國體とは何かは、語る人々によってさまざまな國體観がある。一億国民一人一人に國體観がある。吉本隆明は共同幻想と言った。一人の幻想。三島由紀夫の國體観は、二・二六事件の蹶起将校の國體観から培養されたもの。

 

天皇が天皇たる所以を探ることによって國體が分かる。神武天皇の御代な國體が実現した。邇邇藝命は初代天皇ではなく、神武天皇が初代天皇とされる。鳥見山の大祭を再現したお祭りが大嘗祭。鳥見山の大祭を検証することが最も重要。

 

稲は神代から伝えられている。豊葦原の瑞穂の國は砂漠とは対照的。日本は天照大御神の御子孫が統治される国。これが國體である。これを条文化したのが『大日本帝国憲法』の國體条項である。

 

『シラス』を『大日本帝国憲法』は『統治』と表現した。外国は『ウシハク」。天皇は『シラス』。『シラス』とは、見たり聞いたり知ったり食べたり、すべて身に受け入れること。天皇の御巡幸は民の状況を知ること。

 

京都御所の石灰の壇(注・いしばいのだん。清涼殿の東庇の南端にあり、土を盛り上げ、石灰で塗り固めて板敷きと同じ高さにしてあった壇。天皇が毎朝、伊勢神宮と内侍所(ないしどころ)を拝された所)の横で食事を召し上がる。これが重要。収穫された食べ物を天皇が召し上がることによって、陛下の御身にとり入れる。これが統治すること。食國(おすくに)とはまさに国土で獲れた食糧を召し上がること。天皇が育った食べ物を御身に受け入れること。

 

物や情報を陛下の御身に受け入れることが『統治』。日本が外国文化を受け入れるのは、この『シラス』が原因。『ウシハク』は統治とは方法が異なる。『ウシハク』は我がものとして支配する意。大国主命は『ウシハク』。天照大神の御子は『シラス』。国土は領土ではない。領土という言葉はウシハクにつながる。『領土』という言葉を使うべきではない。『国土』は『しらす』、『領土』は『ウシハク』。

 

『ことよさし』のコトは『事』。ヨサスは任せるという意。天照大神は子孫に日本統治をお任せになった。『三大神勅』によって定められた天皇統治が國體であると考える。

 

天皇をお護りしお助けすることが民のつとめ。天孫降臨の大目的の一つは、高天原と同じ生活をすること。神武天皇はそれを実現された。君民一体・神人一体が観念的なものとしてではなく、実体としてあるのが『祭り』。鳥見山の祭事は『天孫降臨の神勅』を達成したことを奉告する祭り。

 

大嘗祭の起源。邇邇藝命と共に降臨した神々は天職を相続している。臣民の道は、天孫降臨のお伴をした神々の役目を果たし、天皇をお助けすること」。

            〇

これは、小生のメモと記憶に基づく記録です。文責は小生にあります。荒岩氏は、もっと大事なことを多く語られました。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月十八日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料の整理。

| | トラックバック (0)

「第五十一回日本の心を学ぶ会」のお知らせ

テーマ 「日本と朝鮮半島を考える」

 

今年で朝鮮総連は結成60周年を迎えるようです。

そもそもこの組織の前身である在日本朝鮮人連盟は「解放された独立国民としての襟度をもつべく在日同胞を啓蒙統制する」ことを目的とする、在日朝鮮人の帰国支援、生活相談、朝鮮語講習を行う政治色の薄い組織として結成されました。

 

しかし、金天海ら共産党員が加入し組織の実権をにぎると、その性格は極めて左翼色の強いものになり、「在日朝鮮人は日本に定住し革命に参加せよ」「天皇制を打倒し民主政府を樹立せよ!」と呼びかけるなど日本共産党の先兵として各地で、破壊活動、暴動、襲撃事件を起こしました。

 

青年隊、自治隊、保安隊などと呼ばれた朝連の実働部隊の過激な活動は日本の安全にとって重大な脅威であると、GHQは認識し、ついに1949年「団体等規制令」に基づき組織の解散を命じられ、幹部たちは公職追放を命じられました。

朝鮮戦争勃発後は「在日本朝鮮統一民主戦線」「祖国防衛委員会」を結成し北朝鮮を支援するため韓国向けの軍需物資の生産や運搬を妨害し、公的機関への襲撃暴行などを行いました。

 

 朝鮮総連はこのような団体を受け継ぐ形で結成されたものです。そしてこの組織は北朝鮮の指令のもとに活動し、一体であり、常に日本にとって警戒し監視すべき対象の組織でありました。

 

朝鮮半島は歴史的宿命的に日本の安全に密接にかかわってきました。そこで今回の勉強会では日本と朝鮮半島の関係について考えてみたいと思います。

 

朝鮮半島は日本にとって大陸の文化の伝わってくる道としての意味と、逆に大陸の勢力が侵略してくる道としての意味がありました。その地政学的重要さは今も昔も変わりません。

 

白村江の戦いは大陸勢力の伸長を防ぐ目的をもったものであり、日清、日露戦争も同じく大陸勢力の朝鮮半島支配を防ぐ目的をもったものでした。

 

共産シナの台頭で北東アジアの情勢が変動しつつある現在、日本と朝鮮半島について考えてみたいと思います。

 

【日 時】平 成27年5月31日(日)午後600分より

【場 所】文京シビックセンター 三階 会議室C
東京都文京区春日1-16-21 
東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1
都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1
JR
総武線水道橋駅(東口)徒歩9

【講 演】

「韓国・北朝鮮にいかに対処するべきか―日韓関係史を考える」 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

この告知文は、主催者が作成したものです。

|

『もののふ』の原義

 「もののふ」とは、武人・武士のことやまとことば(和語すなわち漢語や西洋などからの外来語に対し、日本固有の語)で言った言葉であり、雅語(上品な言葉。正しくてよい言葉。特に、和歌などに使う、平安時代風の言葉)的表現である。

 

 「もののふ」とは、「宮廷を守護する者」即ち「物部」の音韻が変化した語がであるといわれている。「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。物部氏という氏族は、もっとも有力な「もののふ」だったという。

 

 「物部」の原義は、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(群れ・組。世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。物部氏は、古代の氏族の一つで、朝廷の軍事・刑獄のことを司った。古代日本では、霊的力即ち巫術(超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して話し、行動するもの)を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を抑圧するものが「もののふ」(物部)であった。

 

 「もののふのみち」すなわち「武士道」は、物部、大伴の二氏によって明確なる史実として継承され体現せられた。

 

 物部氏は饒速日命の後裔で武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。これが後世武士の起こる濫觴とされている。用命天皇の崩御直後(用命二年・五八七)、仏教受容を唱えた蘇我氏との戦いに敗れ、物部氏は滅びた。

 

 なお、「武士」(ぶし)は、折口信夫の説では、野に伏し山に伏して主君のために仕える者であるからという。

 

 もののふの道(武士道)とは、古代日本(古事記・萬葉)においては、宮廷を守護すること即ち皇室に忠誠を尽くすという精神である。それが原義である。万葉歌人・笠金村の次の歌にそれは明らかである。(笠金村は伝未詳。聖武天皇の御代の人)

 

「もののふの 臣(おみ)の壮士(をとこ)は 大君の 任(まけ)のまにまに聞くといふものぞ」(三六九・軍人として朝廷に仕える男は、大君の仰せの通りに御命令の通りに聞き従うものであるぞ)

 

 大伴宿禰三中(系統未詳。遣新羅副使・摂津班田使などを歴任)が、部下であった丈夫部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)が亡くなった時に詠んだ歌には、次のように歌われている。

 

 「天雲の 向伏(むかふ)す国の 武士(もののふ)と いはるる人は 天皇(すめろぎ)の 神の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ちさもらひ 内の重に 仕へ奉(まつ)りて 玉かづら いや遠長く 祖(おや)の名も 繼ぎゆくものと 母父(おもちち)に 妻に子供に 語らひて 立ちし日より…」(四四二・天雲の垂れ伏す遠い国のもののふといわれる人は、天皇が神の如くにおられる皇居で、外の回りを立って警備し、奥庭におそばでお仕え申し上げ、(玉かづら・長居に掛る枕詞)ますます長く祖先の名を継ぎ行くものなのだと、父母に、妻に子供に語って出発した日より…) 

 

 故郷を出発する時の朝廷奉仕の確固たる覚悟が、上司の三中によって歌われている。「天雲の 向伏(むかふ)す国」は、「遠い国」につく慣用句で丈夫部龍麻呂の出身地のこと。東国の出身であったらしい。

 

 「もののふ」は『萬葉集』の原文(萬葉仮名)に「武士」と記されており、皇居を警備する武官のことである。「天皇の神の御門」は現御神信仰に基づく言葉で、現御神であらせられる天皇が居られる宮殿という意。「さもらふ」は様子を伺い機を待つという意であるが、この言葉から「さむらひ」(武士)という言葉が生まれたといわれる。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月十七日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。昔のことを思い出しと貰うべく色々話しかける。

帰宅後も、資料の整理。

| | トラックバック (0)

2015年5月17日 (日)

『【特別展】上村松園 生誕140年記念 松園と華麗なる女性画家たち』参観記

本日参観した『【特別展】上村松園 生誕140年記念 松園と華麗なる女性画家たち』は、「『一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香(かおり)高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである』と語った日本画家・上村松園 (1875-1949)2015年は、女性で初めて文化勲章を受章した松園の生誕140年にあたります。これを記念し、松園を中心に、近代・現代日本画壇における女性画家たちに注目した展覧会を開催いたします。『西の松園、東の清方』と並び称され、清らかで端正な女性像を手がけた松園は、近代日本画を代表する重要な存在として位置付けられています。1890(明治23)年、皇室による日本美術の保護と作家の制作奨励のため帝室技芸員制度が設けられ、1944(昭和19)年までに79名が任命されました。松園もその一人であり、男性作家が大半を占める中でその栄誉を受けたことは、女性の社会的な立場や活動の場が限られていた時代ながら、画家として高く評価されていたことを示しています。近年では、社会で華々しく活躍する女性が増えてきています。それでもなお、仕事、家庭、子育て、介護など公私に渡る人生の様々な局面において、どう生きるかという問題に直面している女性は少なくないでしょう。本展では、激動の時代を画家として歩んだ女性としての姿や生き方にも焦点をあてます。それぞれの画家の言葉や作品を通して、そのユニークな視点や多彩な表現をご覧いただきます」(案内文)との趣旨で開催された。

上村松園《蛍》《新蛍》《夕べ》 《砧》《春芳》《娘》《詠哥》《牡丹雪》《庭の雪》《杜鵑を聴く》、野口小蘋《上巳雛祭図》 《設色美人図》 《西園雅集図》 《幽壑閑居図》《芙蓉夏鴨》 《箱根真景図》、竹内栖鳳《潮来小暑》、横山大観《富士山》川合玉堂《朝晴》、 鏑木清方《伽羅》、小倉遊亀《舞う》 《涼》、 片岡球子《北斎の娘おゑい》、 北沢映月《想(樋口一葉) 等の名品を参観。

美人画というのは、伊藤深水、鏑木清方、東郷青児などによって描かれているが、私は上村松園の作品が最も好きである。日本女性の美しい姿が丁寧にそして清らかに描かれてゐると思う。また、描かれてゐる美人が着てゐる着物もまた美しい。

上村松園は「私は大てい女性の絵ばかり描いている。しかし、女性美しければいい、という気持ちで描いたことは一度もない。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香(かおり)高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。その絵を見ていると邪念の起こらない、またよこしまな心をもっている人でも、その絵に感化されて邪念が浄められる……といった絵こそ私の願うところのものである。芸術を以て人を済度する。これくらいの自負を画家はもつべきである。よい人間でなければよい芸術は生まれない。これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体にいえる言葉である。よい芸術を生んでいる芸術家に、悪い人は古来一人もいない。みなそれぞれ人格の高い人ばかりである。真・善・美の極致に達した本格的な美人画を描きたい」と書いている。

これはまことに素晴らしい言葉である。松園の描いた美人画は、単に美しい女性が描かれているのではではなく、高い品性というか、品格というか、視覚で感じられる「美」以上の精神的美しさがあると思う。私は近代の日本画家では男性では横山大観、女性では上村松園が好きである。

 

松園は、「よい人間でなければよい芸術は生まれない。これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体にいえる」と述べている。まことにその通りと思う。小生は、和歌を詠むが、当然のことながらなかなかそのような境地に達していない。大歌人と言われる方々には、まさに「真・善・美」の極致に達した歌がある。永遠の価値を持つ芸術には、洋の東西を問わず、時の今昔を問わず、そこに不滅の崇高さがある。

 

今日参観した松園の美人画では《牡丹雪》《砧》が大変素晴らしいと思った。数多くの松園の作品を見た後、小倉遊亀の《舞う》 《涼》、 片岡球子の《天龍寺開山夢窓国師》《北斎の娘おゑい》という作品を見たのだが、これもまた松園の作品とは全く違った雰囲気であるが、実に見事で迫力があり、描かれている人物の表情に実に強い個性がある。戦後日本の女性画家ではやはりこのお二方が偉大であると思う。

 

上村松園は昭和十九年、皇室による美術の保護奨励の制度として明治から続く帝室技芸員に選ばれた。松園は女性として選ばれた二人目の帝室技芸員である。女性初の帝室技芸員は、明治三十七年に選ばれた南画家・野口小蘋である。その晩年の代表作《箱根真景図》が展示されていた。

帝室技芸員の制度は、戦後になって廃止された。芸術家の顕彰、美術の保護奨励の制度は、重要無形文化財制度、日本芸術院会員への認定などに引き継がれたという。

四宮 正貴さんの写真

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月十六日

午前は、諸雑務。

午後は、広尾の山種美術館にて開催中の『特別展・上村松園生誕一四〇年記念 松園と華麗なる画家たち』参観。

夕刻、根津にて、友人ご夫妻と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月16日 (土)

オピニオン雑誌『傳統と革新』第十九号 

たちばな出版発行(四宮正貴責任編集)           

特集 戦後はまだ終わらないのか?...
―戦後七十年と國家革新―

巻頭言 「戦後」は何故終はらないのか                四宮正貴 

 
インタビュー

日本國は萬邦無比の邦―  戦後七十年から出発する保守政治の進路とは    村上正邦  

國際社會で信頼を得る道―國家自身の明確な意思を示すこと   中山恭子  

自分の國の歴史を正しく知って世界を理解し、他國と対等に生きることができる    猪瀬直樹  

戦後七十年―主体的な戦略と覚悟をもって「戦勝國史観」からの脱却を目指そう    長島昭久 

論文 

佐藤優の視点 ―戦後七十年と國家革新― 沖縄との國家統合の問題をめぐって 佐藤 優  

中韓が発する「戦後七十年問題」の本質                西村眞悟  

歴史へのノブレス・オブリージュ                      井川一久  

拉致問題と戦後体制 政府が拉致問題の終熄を企図した      荒木和博  

政治家よ「終戦ノ詔書」を熟読せよ―安倍談話への期待     久保田信之 

「國體論」からふり返る戦後七十年                    山本峯章 

「日本主義~反ダーウィニズム」で世界の混乱に対峙する      今村洋史  

戦後日本と台湾の関係                           王明理   

昭和天皇の學ばれた帝王教育 御誕生から學習院初等科修了まで(後篇)                                                                                                所 功 

  
〈リベラル提言〉戦後七十年、日本が抱える問題について、日本が進むべき道                                                                                  松木謙公

  
皇統維持に不作為は許されない                    松崎哲久

  
日本人拘束殺害事件にみるさまざまな現象 ~國家の威信と危機管理                                                                                              木村三浩 

 
連載『やまと心の歌』                          千駄木庵主人

石垣島便り13  日本を揺るがす? 南の島の住民事情      中尾秀一

  
第十八回 我が体験的維新運動史 右翼は皇室の尊厳を守る防人                                                                                                   犬塚博英

    
編集後記  

   
ISBN978―4―8133―2499―7 C0030 Y1000E
 定価 本體価格1000円+税。 168頁

〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル
 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 
四宮 正貴さんの写真

| | トラックバック (0)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で三島氏は、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提にして、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、三島氏の言った「新しい日本」はまだまだ建設されていない。それどころか三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっている。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。商人を「商士」とは言わない。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男子というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。三島氏は「文士」といふ言葉を使ったのには深い意味があったと考える。

 

 三島氏の作品と人生における「文化意志」は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、「文武両道」の実現であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 日本民族の文化意志において、「切腹」はまさに「美の実現」であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、「切腹」とは、日本人にとって『美』であった。それは武における美の実現の最高の形態と言っていい。

 

 詩歌などの『文』は、いうまでもなく『美』を求める。「切腹」や特攻隊の自爆などに見える散華の美とは、『文』が求めてやまない『美』の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

 愛する対象へ命を捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕に代えれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言う。  

             

 柿本人麿歌集の「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)という歌も、相聞の心を戀闕心に変えれば、まさに「七生報国」の「楠公精神」を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島氏の理想とした「美」を全く否定してきた。できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、「散華の美」とは全く対極にある。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方である。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を「源泉の感情」として生涯持ち続けたと思う。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは「檄文」冒頭に書かれている通りだ。

 

 戦後日本の救済のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは彼の少年時代の「源泉の感情」への回帰であった。それは祖國への献身、天皇への捨身である。         

                          

 三島氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会以前の源泉の感情が死を決意させたと言える。

 

 三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

 三島氏が理想とした美の極致としての自決は、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。三島氏は現代日本において自殺へ追い込まれている人々とは違って、「世俗的成功」と「文學的名声」を獲得していた人である。四十五歳からの人生は安穏であったに違いない。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪し、許せなかったのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの「散華の美」を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。三島氏の自決はもののふの崇高さと誇りと美を体現した自決であった。

 

 時代は一層混迷を深めている。今こそ、「三島精神」の復活が求められるのである。  

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月十五日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、書状執筆、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月15日 (金)

今こそ尊皇精神に立脚した大和魂を発揮して國難に当たるべき時

「しきしまの 大和心を 人問はば 蒙古のつかひ 斬りし時宗」

 

 

 

村田清風の歌である。

 

 

 

 村田清風は長州の人。文化五年(一八〇八)二十六歳にして藩主・毛利齋房の近習になる。藩の制度改革・財政確立・士風作興に功績があり、國學明倫館を建て、江戸藩邸に有備館を建て、學問を振興させた。安政二年(一八五五)に七十三歳で病没。

 

 

 

この歌は、本居宣長の「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」を本歌取りした歌。北條時宗が弘安二年わが國に朝貢(日本が貢ぎ物を差し出して元の属國になること)を求めて来た元の使者を博多で斬った。この時宗の行為を大和心の典型であるとして讃えた歌。

 

 

 

大和心・大和魂は日本民族の持つ包容力・美しさを愛する心である。和魂漢才・和魂洋才の和魂は日本民族の強靱なる包容力のことである。それとともに、大和心・大和魂は、勇武の心・桜の花に象徴される散華の心(潔く散る精神)である。

 

 

 

この二つは、別なものではなく、清明心(清らかで明るい心)・純粋な心・素直な心・そのままの心として一つである。それは日本民族の本来的持っている魂であり精神である。宣長の歌はこの二つの心を「朝日に匂ふ 山ざくら花」という「言の葉」に結び合わせて歌っていると思う。

 

 

 

日本は今日、中華帝國主義とアメリカ覇権主義の狭間にあって苦しむのみならず、北朝鮮にミサイルを飛ばされ國民を拉致され、韓國やロシアには領土を取られ、共産支那や韓國から外交上の侮りを受けている。今こそ日本國民全体がナショナリズム・愛國心・戦闘的大和魂を発揮して國難に当たるべき時である。

 

 

 

日本民族の真のナショナリズムは、日本民族の本来的な清明心・尊皇精神に立脚した大和魂でなければならない。

 

| | トラックバック (0)

2015年5月14日 (木)

千駄木庵日乗五月十四日

午前は、諸雑務。

午後二時半より、赤坂の日本財団ビルにて、『笹川平和財団主催・パネルディスカッションー原子力は持続可能か』開催。泉田裕彦新潟県知事、澤昭裕二一世紀政策研究所主幹、田中伸男笹川平和財団理事長が講演。質疑応答。

帰宅後は、『政治文化情報』原稿執筆・脱稿・送付。

| | トラックバック (0)

この頃詠みし歌

空晴れて千駄木の街もさはやかに初夏の光に充たされてをり

 

賑やかに子供らが登校する姿眺める初夏の朝かな

 

ゆゑ知らず涙流るる母上が「愛ちゃん太郎に」を歌ひたまへば

 

洗面所に小さき虫が動きゐて夏来たれるを証しする如し

 

楽しげに歌うたひゐるわが母よ その健やかさとことはなれよ

 

人の群れ行き交ふ銀座四丁目時計台の鐘が鳴り響くなり

 

母の笑顔を見ればなごめるわが心今日も静かに日が暮れてゆく

 

老先生の隣に坐して講話を聴く土曜の午後の充實の時

 

にこやかな笑顔で天婦羅を揚げてゐる主は我と同い年とぞ

 

菩提寺に来りて心鎮まりぬ先祖の墓に手を合はせつつ

 

北九州への旅にて

 

小雨降る博多の街に鳴り響く軍艦マーチの勇ましきしらべ

 

少年少女楽しげに街を行進す 博多どんたくの賑はひぞ良し

 

元寇の歴史を刻む町に来てはるかいにしへの國難を思ふ

 

不知火の筑紫の國の神やしろに国難打開を祈りまつれり

 

はるばると訪ね来たりし宗像のやしろ拝ろがむことのかしこさ

 

絶海の孤島にありし神宝(かみたから清く光りて永久に新し

 

白き船青き海青き空 さやかなるかも日本の初夏

 

防人が堡塁をつくり國の守りにつとめし島に今日立ちにけり

 

いにしへの防人たちの歌を思ふ筑紫の國の能古島にて

 

老いし人らの健脚ぶりに驚きつつともに楽しむ旅路なるかも

 

平家滅亡馬関戦争日清戦争激しき歴史を刻む海峡

 

夏が来し若松港は晴れわたりすがしき風の吹きてゐるなり

 

関門の海峡に初夏の風吹きて旅人われもさはやけき心

 

海峡の彼方に鎮まる赤間神宮 旅人遥かに拝がみまつる

 

源平の戦ひの歴史を偲びつつ彼方に見ゆるみやしろを拝む

 

彼方より敵國が攻め來し歴史をば偲びつつ玄海の風に吹かるる

 

新緑の山々が飛びて行く如き新幹線の窓外の眺め

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月十三日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時半より、南大塚地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究会」開催。小生が山部赤人などの歌を講義。質疑応答。

帰途、出席者の方と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月13日 (水)

「日出づる國」への誇り・祖國へ愛を歌った山上憶良の歌

 山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(もろこし)に在りし時、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作れる歌

 

いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴(おほとも)の 御津(みつ)の濱松 待ち戀ひぬらむ

 

 山上憶良が、支那にゐた時、祖國を恋ひ慕って作った歌。山上憶良は、斉明六年(六六〇)~天平五(七三三)年。萬葉集代表歌人の一人。大宝元年(七〇一)に三十五年ぶりに遣唐使が復活し、憶良は遣唐少録に任命された。翌大宝二年、四十二歳の時に渡唐。慶雲四年(七〇七)帰國。晩年の歌が多い。

 

【大唐】支那のこと。【本郷】祖國日本のこと。【いざ】人を誘ひ自らも行動を起こそうとする時に発する言葉。【子ども】年下あるいは目下の親しい人々に対する呼び掛けの言葉。【日本】日本全体を指す。【大伴の御津】大阪市南部から堺市にかけての一帯(摂南といふ)の難波の津(港)のこと。この辺りは大伴氏及びその配下の久米氏が領有してゐた地であったから「大伴の」といふ。ここから遣唐使の船や九州などに行く船が出発した。大唐にある憶良にとって、この港は祖國の門戸であった。

 

遣唐使が支那へ行くルートは、①今日の大阪から瀬戸内海を通って行き、壱岐・対馬に寄りながら朝鮮半島の西側を通って、山東半島に上陸するルート、②能登半島から出発して沿海州に上陸するルート、③長崎や鹿児島などから出発して支那の楊州や越州に上陸するルートがあったといふ。

 

「濱松待ち戀ひぬらむ」は、松が擬人化されてゐる。懐かしい祖國日本の海岸の松の風景を目に浮かべて歌ってゐる。また、「御津の濱松」は下の「待ち戀ひぬらむ」を出すための序詞といふ説もある。                           

 

 通釈は、「さあ、皆の者よ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の濱松も、さぞ待ちわびてゐるであらうから」といふ意。                             

 

 「日本」という漢字に「やまと」といふ傍訓を付したところにこの歌の重要性がある。「日本」とは「日の昇る國」といふ意味である。

 

 聖徳太子は、推古天皇十五年(六〇七)、小野妹子を遣隋使として支那に遣はされ、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」といふ「國書」を隋の煬帝に呈した。日本國の誇りを高らかに宣揚し、アジアの大帝國・隋に対して、対等どころか大いなる自尊心をもって相対された。その御精神が山上憶良に引き継がれてゐるのである。

 

 聖徳太子は外来宗教たる仏教を深く信仰せられた方であるが、素晴らしい日本人としての御自覚をお持ちになられてゐた。憶良もまた、唐において色々なことを学びこれから帰國しようといふ時に、「早く日本へ」と歌ひあげたのである。

 

 「早く日本へ」といふ言葉に、「日没する國」にゐる憶良の「日出づる國」への恋慕の思ひがにこめられてゐる。憶良は、唐との対比において日本を自覚し、祖國への愛・日本人としての誇りを歌ったのである。それは、わが国は、太陽の昇る国であり、太陽神たる天照大神を祖神として仰ぎ、天照大神の生みの子たる天皇を君主として戴く国であるといふ大いなる自覚である。

 

この歌は望郷の歌であると共に、ナショナリズム謳歌の歌である。今日のわが國政治家などの支那に対する卑屈な態度と比較すると、やはり民族勃興期・國家建設期の日本は素晴らしい人がゐたと言ふべきである。

                  

 また、憶良には、自分たちが早く日本へ帰りたいといふ思ひと共に、自分たちが学んだ学問を早く祖国へ持ち帰って祖国の役に立てたいといふ思ひもあったと思はれる。

 

 

| | トラックバック (0)

2015年5月12日 (火)

千駄木庵日乗五月十二日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、『政治文化情報』の原稿執筆、明日行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備など。

| | トラックバック (0)

近代合理主義と科學技術文明の欠陥是正とわが國古代精神・萬葉の心への回帰

 宇宙は何時如何なるところにおいても同一の法則が支配しているという普遍法則の存在を要請するというのが合理主義である。とりわけ近代合理主義の特徴は、宇宙の体系的理解・人間社会の組織化・人間による自然の征服において、論理的首尾一貫性を押し通そうとするものである。「理性の限界」を容認せず、人間社会の「不合理」や、自然の人間に対する「不条理」は正されなければならないというのが、近代合理主義の姿勢である。こうした考え方は、自然と人間・物質と精神・<いのちあるもの>と<いのちなきもの>・有機物と無機物とは、決定的に対立する存在であるという思想を生む。そして自然は人間によって人間の生活のために征服され有効に利用されなければならないとする。そこから近代科學技術が生まれ発展した。

 

 しかし、今日の世界の現状を見れば明白なように、人間による自然の征服・有効利用により、人間の生命が蝕まれ、人類はその生存さえ危ぶまれる状況に立ち至っている。人間が自然を征服し支配することによって、人間生活がより強く、より大きく、より早くなければならないという強迫観念に支配されていきたのが近代社会である。

 

 科學技術・機械文明は機械による人間の支配・人間疎外を生み出した。機械的世界観がひたすら量的拡大のみを追い求め、征服のための征服をこととする傾向を生み出した。コンピュータ化された管理社会は機械的・非人間的合理性の支配を意味している。機械の効率と力が容易に破壊に転化し、近代合理主義が人間疎外の原理となっている。

 

 古代日本人は、超越した唯一神のみを拝むことをしなかった。自然は神の創造物ではなく、日本の神々は天地自然から生まれ、自然そのものが神と信じた。山野に樹木に精靈が宿っていると信じ、木の騒ぎ・風の音・小川のせせらぎにも神の声を聞いた。そして、自然に畏敬の念を抱き、人間の生活が自然の中に宿る精靈、自然そのものである神を冒・しないようにつとめた。

 

 真の人間性の回復・自然の保護、そして豊かな命の世界への回帰、闘争から調和への転換、物質の原理から神靈の原理への転換は、全て生きとし生けるものには「いのち」が宿っているという信仰によって達成できる。

 

 近代合理主義・科學技術・機械文明がいかに強固なもののように見えても、それが人間の所産である限り、人間はその欠陥を是正することができる。合理精神や科學技術(機械の文明)を一切否定し、過去に帰れと主張するのではない。近代合理主義と科學技術文明の欠陥を是正するものとして、わが國古代精神・萬葉の心を取り戻すことが必要であると考える。

 

 いのちへの信仰を今に蘇らせるものは、言葉である。歌である。「萬葉集」である。なぜなら、言葉は、人間の精神生活・文化生活そのものだからてある。

 

 和歌は魂を鎮めるために歌われると言っても誤りではない。激しい恋愛の心を鎮めるための歌が恋歌であり、自然に宿る精靈を鎮め讃嘆する歌が叙景歌であり、死者の靈を鎮める歌が挽歌である。

 

 和歌は言葉の芸術であり、言靈の風雅を大切とする。『人麿歌集』に「しきしまの日本の國は言靈のさきはふ國ぞまさきくありこそ」という歌があり、山上憶良が『好去好來の歌』で「そらみつ倭の國は皇神の嚴かしき國言靈の幸はふ國」と歌っている通り、どんな言葉の断片にも言靈(言語精靈・言葉に内在する靈妙不可思議な靈力)が宿っているというのが古代日本人の信仰である。「言靈」が「さきはふ」とは、言葉を唱えると精靈が働き出すという考え方である。

 

 ゆえに萬葉歌には、作者の心だけでなく古代日本人の精神と信仰が表れている。言語傳承が神秘的で大切であった時代において言葉は重要である。萬葉歌は、死者への鎮魂歌・國土への讃歌が多い。國土を讃え死者の魂を鎮める和歌は神の言葉・聖なる言葉である。一句一句に宿る言靈によって死者の靈を鎮め、國土の靈を讃えているのである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月十一日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。

帰宅後も、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月11日 (月)

萬葉古代史研究會

四宮正貴が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 五月十三日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区南大塚地域文化創造館

東京都豊島区南大塚二-三六-一 ☎〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』。

 

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

| | トラックバック (0)

天地自然の神々の祭祀が現代の救済であり世界恒久平和の基である

天皇は大嘗祭をはじめとした宮中祭祀において、天照大御神をはじめとした天神地祇、瑞穂の霊、御歴代の皇霊を祭られる。日本人の自然を大切にする心と潤ひのある衣食住の基本には、全てを神として拝み、神として祭る心がある。その最高の実行者が、和歌を詠まれ、農事を行はれ、祭祀を行はれる日本天皇なのである。

 

天皇の祭祀は、五穀の豊穣・國民の平安を祈られるのである。また、わが国伝統信仰に基づく民族儀礼であって、日本国の成立と共に行はれてきた。それは「記紀」に記された神武天皇の御事績を拝すれば明らかである。

 

したがって、天皇の祭祀は私事ではないし、単なる先祖祭でもない。信仰共同体日本の根幹であり最も大切なる公事である。日本国家生成の根源である。ゆへに、「天皇の祭祀は天皇の先祖祭りだから私事である」といふ意見は誤りである。

 

戦後日本の「民主化」「非軍事化」「伝統否定」の中での天皇および皇室は、祭祀主・宗教的権威としての天皇の本質を軽視し隠蔽して来た。祭祀が私的行為とされている。現御神・祭祀主としての伝統的な天皇および日嗣の御子の真姿への回帰・天皇の御本質の復元が根本である。

 

橘曙覧(たちばなのあけみ。幕末の歌人。越前国の人)は、「利(くぶさ)のみむさぼる国に 正しかる日嗣のゆゑを しめしたらなむ」と詠んだ。

 

科学技術が生態系を破壊しつつある今日、自然と共に生き自然を大切なものとしてをろがむ精神、天皇を祭祀主とする信仰共同体日本の回復が必要である。科学技術文明・近代合理主義に依拠し、利益と進歩のみを求め欲望と便利さの充足を至上の価値とし、自然を造りかへ破壊して来た近代の傲慢さに対する歯止めとして、天皇を祭祀主と仰ぐ日本伝統信仰の祭祀が大きな価値を持つ。

 

日本伝統信仰の祭りは、天地自然及び祖霊に対する敬虔なる思ひの表現である。天地自然の神々の祭祀が現代の救済であり世界恒久平和の基である。

 

伊勢の神宮、皇居の森、明治神宮の森をはじめとして全国各地の「鎮守の森」は、現代社会において人々の魂を清め、精神を清浄化する場として、大きな価値を持ってゐる。日本の伝統信仰・祭祀こそが、今日の混迷を打開する。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月十日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月 9日 (土)

北九州旅行記 その二

五月四日昼、連絡船に乗り、約十分で能古島へ。能古島は福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいる。東西二㎞、南北三・五㎞の南北に長いナスビ形の島で、全体が台地状を呈し、最高所の標高は一九五m。これまでの調査で弥生時代の遺跡や古墳群が見つかっているという。

 

島に着くと、対岸に福岡市のビル群が眺められる。自然豊かな島から大都会の高層ビル群が眺められるというとても珍しい光景である。バスに乗り、アイランドパークへ。能古島北部に広がる約十五万平方メートルの自然公園ある。初夏の日の下、名前は分からないが数多くの花々が咲いている。家族連れで賑わっている。岸壁の上から眺められる青き海、そして青い空、時々飛びゆく白き飛行機が、実に美しいコントラストを見せている。

 

『筑前国続風土記』には、神宮皇后が朝鮮出兵から御帰還あそばされる時、この島に住吉大神の御神霊を「のこしとどめられ」て敵国降伏を祈られたので、「のこの島」と言うようになったと記されてゐると言ふ。『萬葉集』には遣新羅使や海人(漁業に従事する人)の歌として、能古島の名が登場する。

 

『萬葉集』巻十六に、

 

沖つ鳥 鴨とふ船の 還り來ば 也良(やら)の崎守(さきもり) 早く告げこそ 

                                (三八六六)                    

(沖つ鳥・鴨に掛かる枕詞)鴨という名の船が帰って来たなら、也良の防人よ、早く知らせておくれ」。

 

沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻()みてこぎ來と 聞え來ぬかも 

                                (三八六七)              

(沖つ鳥)鴨という名の船は也良の崎を回って漕いで来たと知らせて来ないものだろうか、知らせて来てほしい」。

 

という二首の歌が収められている。これらの歌は「筑前國志賀の白水郎の歌十首」のうちの二首である。「白水郎」とは海人のこと。「也良の崎」とは、能古島の北端の岬のことである。

 

 天平八年(七三六)、新羅を目指した遣新羅使一行は、筑紫館(後の鴻臚館)を出発し、韓亭(別称能古の亭、現在の唐泊。福岡市西区宮浦付近。「亭」は船が停泊する所)に至り風待ちをした。韓亭は遣新羅使が寄港地であった。ここから半島や大陸に船が出航したといふ。韓亭(唐泊)で出航を待つ心情を綴った歌が次の歌である。

 

韓亭(からとまり)能許(のこ)の浦波(うらなみ) 立たぬ日は あれども家に 恋ひぬ日はなし (三六七〇)

「韓亭の能許の浦の波が立たない日はあっても私が家を恋しく思わない日はない」。

 

「能許」は能古島のこと。韓亭のすぐ前に見える。


風吹けば 沖つ白波 かしこみと 能許(のこ)の亭(とまり)に あまた夜ぞ宿(ぬ  る                               (三六七三)    

「風が吹けば沖の白波が恐ろしいので、能許の船着き場に幾夜も寝ているなあ」。

 

玄界灘が荒れているのでなかなか出航できないことを詠んでゐる。

 

このように、能古島のことが詠まれた歌が何首か『萬葉集』に収められてゐる。『日本書紀』に、天智天皇三年に、対馬・筑紫国などに、防人と烽火を置くと記されている。能古島北端の也良岬(やらみさき)に「防人」が配置され、敵の襲来や大陸から帰還した船が近づいたことを大宰府に知らせるために烽火台が設置されたという。

 

自然公園内の也良岬には、壹岐島の烽火台を参考にして烽火台が復元されている。そこから海の彼方を眺めると、約千三百年昔の萬葉時代のままの景色のように思えた。

150504_1237010001

能古島自然公園

150504_1400010001

烽火台(復元)

 

平安時代中期に編纂された『延喜式』(平安時代中期に編纂された格式。律令の施行細則)の「兵部式」には、島に馬牧があった旨の記述があるという。島の中心に残る古土手という土塁遺構は、馬牧の境界だったという。

 

五月五日午前、門司港見学。出光美術館、三井倶楽部などを巡る。時間がないため中に入ることが出来なかったのが残念。関門海峡を見るのは初めてのことで感激した。これほど幅が狭いとは思わなかった。

対岸に下関市が眺められる。第八十一代・安徳天皇を御祭神とする赤間神宮を遥拝。日清戦争後の講和会議が行われ『下関条約(日清講和条約)』が締結された「春帆楼」が眺められた。

 

新幹線で帰京。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月九日

午前は、諸雑務。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。澤英武氏が司会。黒田勝弘産経新聞ソウル駐在特別記者兼論説委員が「国交正常化五〇年ー日韓関係の過去・現在・未来」と題して講演。大変勉強になった。後日報告します。

帰宅後は、原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

日本人の言霊信仰が歌などの日本文藝を生んだ

日本では太古から、天地自然の奥に生きてをられる天地の神に、五穀の豊饒や民の幸福を祈る「まつりごと」が行はれた。その「まつりごと」において祭り主が神憑りの状態で「となへごと」が発した。神憑りの状態から発せられた「となへごと」が度々繰り返された結果、一定の形をとるやうになったのが祝詞である。それが「やまとうた」(和歌)の起源である。

 

祭祀における「となへごと」は「やまとうた」のみならずわが國の文藝全体の起源である。「やまとうた」はまつりごとから発生したのである。日本人の言霊信仰が歌などの日本文藝を生んだといへる。

 

「敷島の日本(やまと)の國は言霊のさきはふ國ぞまさきくありこそ」 

(敷島の大和の國は言霊の力によって、幸福がもたらされてゐる国です。どうか栄えて下さい、といふほどの意)

 

これは、『萬葉集』柿本人麻呂歌集に収められてゐる歌である。この歌は言霊の霊力が発揮されて、人の幸福が実現することを祈り予祝した歌である。

 

山上憶良の「好去好来(かうこかうらい)歌」(遣唐使の出発に当たってその無事を祈り祝福した歌)には、

 

「神代より 言ひ傳(つ)て来らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言霊の 幸はふ國と 語り繼ぎ 言ひ繼がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり…」

(神代以来言い伝えられて来たことですが、そらみつ大和の國は皇神の威徳が厳然としてゐる國であり、言霊が幸をもたらす国であると、語り継ぎ、言ひ継いでき来ました。それは今の世の人もことごとく目の当たりに見て知っゐます…、といふほどの意)

 

と歌はれてゐる。

この憶良の歌について保田與重郎氏は、「憶良は、實は専ら儒佛の思想を喜んだ人で、その方では當時の代表的な文人であるが、その人が歌った歌の中に、言霊の幸ふ國を云ひこれを今の目のまへに見たと歌ひ、聞いたと云うてゐるのは、却って、かういふ傾向の人の言葉だけに、尊い道のありさまを云ふものである。…萬葉集のありがたさは、かういふ道のありさまを示してゐるところにある。」(『言霊私観』)と論じてゐる。 

 

古代日本人は、言葉の大切さ、偉大さを本然的に強く自覚し信じ、言葉の霊力によって、幸福がもたらされてゐる国が大和の国であると信じてゐたことが、この二首の歌によって理解されるのである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月八日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理、原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

2015年5月 8日 (金)

日本國體について

 古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神の祭祀によって聖化された。日本神話には、神武天皇が御即位あそばされる前に、大和地方の國魂がこもっていると信じられた天香具山の埴土(はにつち)を以て天平瓮(あめのひらか)・厳瓮(いつへ)を作り、大和地方の神を祀って大和地方を平定されたと書かれている。

 

 大和朝廷の祭祀は、当時の各部族・氏族そして首長の率いる共同體の祭祀を統一したのである。各部族の持っていた信仰(地方神への信仰や神話伝承)は、大和朝廷の信仰に包摂された。

 

 崇神天皇の御代には、天神地祇をお祀りする社(やしろ)を定め、その神領や奉仕する神戸(かんべ)を定められて、各地の産土神および各氏神を篤く祭られた。大和朝廷は、祭祀的統一とは、各氏族・部族の尊崇していた神々を抹殺して大和朝廷の尊崇する神のみを祭ることを強制したのではない。各氏族・部族が尊崇する神々をそのままお祭りすることによって、精神的信仰的統一を実現したのである。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體なのである。

 

 天皇による日本の祭祀的統一という歴史を背景として成立した日本神話には、天皇の御祖先である邇邇藝命が高天原から地上に天降られた時に、天照大神からの御命令(御神勅)が下されたと記されている。

 

 それには、「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」(豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の子孫が統治すべき地である。なんじ子孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の霊統を継ぐ者が栄えるであろうことは、天地と共に永遠で窮まりないであろう、というほどの意)と示されている。この神勅は、天照大神の神霊をそのまま受け継がれた生みの子たる天皇が永遠に統治される國が日本であるということを端的に表現しているのである。

 

 わが國古代においては、祭祀と政治は一體であった。だから祭祀も政治も「まつりごと」という。祭祀とは、五穀の豊饒と國民の幸福を神に祈る行事である。政治とは、規則と制度と行政によって國民の幸福を実現することである。祭祀と政治は本来その目的は一つである。これを「祭政一致」というのである。「祭祀」が「政治」と一體であるのは古代からの伝統である。祭祀によって國家國民の平和と繁栄を祈ることと具體的な施策や制度(すなわち政治)によって國家國民の平和と繁栄を実現することとは分かちがたいものであった。

 

 日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神のまつろい奉る御方であり、神のみ心を伺い、それを民に示される御方である。また民の願いを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。だから民から天皇を仰ぐときにはこの世に生きたもう神すなわち現御神(あきつみかみ)あるいは現人神(あらひとがみ)と申し上げるのである。天皇が「無私」であられるからこそ、神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方となられるのである。

 

 「無私」が祭祀の本質であるから、神のみ心のままの政治、私を無くした政治、これが祭政一致であり、天皇の日本國家統治の本質である。だから、日本國はその長い歴史において、多くの競争が行われ戦いがあったが、「無私」の御存在であられる天皇は、唯一神聖不可侵な御存在として絶対的な御位におられ続けた。

 

 武力によるいかなる覇者も、天皇の「親任」を得ることによってその地位の正当性を得ることができた。天皇を廃して自らが日本國の最高君主になることはなかった。徳川幕藩體制下では、行政権・司法権ともに幕府が掌握していたが、祭祀を根本にした日本國の君主すなわち最高の統治者としての権威は天皇にあった。

 

 これは現代においても同じである。今日の日本の政治制度も、國会において多数を制した勢力の長が与党として内閣を組織するが、彼らは天皇の「親任」を得ることによってはじめて「内閣総理大臣」以下大臣としての地位につき國務を執行することができるのである。

 

 日本においては、日本神話の「神聖な歴史の物語」は、今日ただ今も<天皇の祭祀>に生きている。神話の世界で、天照大神が行われたと同じ祭祀(新嘗祭)を、今上陛下は今日も行われている。よその國では滅びてしまった「神話の世界」が、日本においては、仏教やキリスト教といった世界宗教が日本に入ってきた後もそして、近代科学技術文明が入ってきた後も、<天皇の祭祀>として今も現実に生きている。日本の國の素晴らしさはここにある。つまり<天皇の祭祀>は日本における「生きた神話」なのである。

 

 神話と祭祀とは、日本民族の固有の精神の在り方を示すものであり、日本という國の根底にある精神的道統・価値観・國家観・人間観を・文化観・宗教観を體現している。であるがゆえに、日本國家の統合・安定・継承・発展の基礎である。

 

 これまでの日本は日本天皇の中核として統合・安定・継承・発展を遂げてきた。特に、今世紀の日本は、世界の中でめざましい変化と発展を遂げた國である。しかし、日本は進歩し発展はしたけれども、祖先から受け継いだ伝統を決して捨て去ることはなかった。むしろ伝統を堅固の保守し続けてきた。現実面の変化の奥にある不動の核があった。それが日本天皇であることはいうまでもない。

 

 天皇は、権力政治面・経済面・軍事面ではいかに非力であっても、常に日本國の統一と調和と安定の核であり続けてきた。源平の戦い、南北朝の戦い、応仁の乱、戦國時代、戊辰戦争、そして大東亜戦争の敗北と、日本國の長い歴史において、國が内戦によって分裂し疲弊し、國土が爆弾や原爆で破壊された時期があった。しかし、天皇および皇室が日本民族の精神的核となってその危機から立ち直り、國を再生せしめてきた。そして日本民族は常に國家的・民族的統一を失うことはなかったし、國が滅びることもなかった。これは、世界の何処の國にもなかったところの日本の誇るべき歴史である。日本がどのような危機にあっても、再生のエネルギーを発揮したのは、日本という國家が権力國家ではなく、天皇を中心とする信仰共同體であるがゆえである。

 

 混迷する現代日本は、崩壊の危機にあるといわれている。よほどの変革が行われなければならない。しかし、上に天皇がいますかぎりは、この危機を見事に乗り切るための変革を断行することができる。古来日本の変革思想は、祭政一致の理想國家への回帰がその根本にあったのである。

 

 今日の日本の危機を打開し救済するためには、「現代に生きる神話」すなわち<天皇の祭祀>への回帰しかないのである。具體的に言えば、政治権力を掌握した人のみならず我々國民一人一人が、天皇が神をお祭りになるみ心を、道義的倫理的規範としてならい奉るということである。それが理想的な國家実現の基礎である。 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月七日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

谷中にて、友人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2015年5月 7日 (木)

北九州旅行記 その一

五月三日朝、新幹線で一路博多へ。「博多どんたく」パレード出発地点で見物。「博多どんたく」とは、室町時代に始まった領主への年賀行事「博多松囃子(はかたまつばやし)」を原型とする祭りという。「どんたく」の語源は、明治時代に一時禁止されていた「松囃子」を復活させる際に、オランダ語で休日を意味する「ゾンターク」から名付けられたと言われている。

 

「太宰府市まほろばの里どんたく隊」のパレードは、大伴旅人の扮装をした人が先頭になっていた。「海上自衛隊佐世保地方隊&福岡県海上自衛隊協力会」は、「軍艦マーチ」を演奏しながらパレードをしていた。

 

小雨降る博多の街に鳴り響く軍艦マーチの勇ましきしらべ

少年少女楽しげに街を行進す 博多どんたくの賑はひぞ良し

150503_1429020001_2


150503_142901

 

博多どんたく見物を終えて、博多区奈良屋町の蔵本町交差点にさしかかる。この地は、「息(おき)の浜」と言われた地で、約七百年前の蒙古襲来で西国武士たちが、蒙古軍団を二度までも撃ち破った地である。「文永の役」「弘安の役」における「元寇防塁」がここにある博多小学校の地下に保存されているという。残念ながら見学することは出来なかった。

 

文永十一年(一二七四年)の「文永の役」で、日本軍の総大将・少弐景資(しょうにかげすけ)は、この交差点の真ん中で博多湾に侵入した高麗軍の主力の軍船を睨み付け、侵略軍の副将・劉復亨(りゅうふくこう)を射止めたという。

 

またこの地は、戦国時代から江戸初期にかけて活躍した豪商・神屋宗湛(かみやそうたん)の邸があったところという。神屋宗湛は、当時世界の銀生産量の三分の一を占めた石見銀山の利権を持つ世界的大富豪だったという。豊臣秀吉に信頼され、博多商人の第一人者として栄華を極めた。「太閤町割」と呼ばれる博多復興事業でも大きな役割を果たし、また秀吉の九州征伐においても資金面で援助した。さらに文禄元年(一五九二年)から始まった朝鮮出兵においても後方兵站の補給役を務めた。晩年の秀吉の側近として活躍した。博多小学校の道路に面した所には、朝鮮出兵に参加した大名たちの氏名が書かれていた。

 

五月四日午前は、宗像大社に参拝。御祭神は、天照大神の三柱の御子神・田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の三女神。田心姫神は沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神は 中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神は辺津宮(へつぐう)におまつりされており、この三宮を総称して「宗像大社」と申し上げる。

 

宗像の地は、大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や外来文化を受け入れる地として、重要な位置にあった。

 

『日本書紀』には、天照大御神の「汝三神(いましみはしらのかみ)、宜しく道中(みちのなか)に降りまして、天孫(あめみま)を助け奉りて、天孫に祭(いつ)かれよ」との「御神勅」により、三女神がこの宗像の地に降りられ、おまつりされるようになったことが記されている。

 

九州と朝鮮半島とを結ぶ玄界灘のほぼ中央にあり沖津宮がおまつりされている沖ノ島からは、鏡、勾玉、金製の指輪など、約十万点にのぼる貴重な宝物が発見され、そのうち八万点が国宝に指定された。その内容や遺跡の規模の大きさなどからも、沖ノ島は「海の正倉院」ともいわれている。沖ノ島がわが国と大陸・朝鮮半島との交通の要衝であったため、国家鎮護・航海安全の祭祀が太古より行われていたのであろう。

 

神宝館参観。神体島・沖ノ島で行われた大和朝廷による祭祀で奉献された約八万点におよぶ国宝の神宝類などが宝物館に収蔵されている。比較的小規模の収蔵館にこれだけ数多くの国宝が収蔵され展示されてゐることはまことに驚くべき事である。

 

「金製指輪」「三角縁神獣鏡」(複製)「金銅製高機(たかはた)」「滑石製小持勾玉」「阿弥陀経石」「木造狛犬」「軍艦三笠羅針儀」など国宝・重要文化財が本当に数多く展示されていた。さらに、東郷平八郎元帥の「神光照海」と書かれた扁額、頭山満翁が奉納した「硯石」(支那辛亥革命で活躍した黄興の旧蔵品)なども展示されていた。

 

境内に建立されている「三笠宮崇仁殿下応制歌歌碑」を仰ぐ。「応制」とは、天皇陛下の勅を受けて詩歌を詠み、奉ることである。

 

「沖ノ島 森のしげみの 岩かげに 千歳ふりにし 神祭りのあと」

 

と刻まれていた。昭和五十年の御題「まつり」の「宮中歌会始」の儀にて詠進された御歌である。この御歌碑は、三笠宮崇仁殿下御自ら御筆をとられたもので、同年十月、百合子妃殿下と共に、宗像大社辺津宮御参拝の砌、建立された。

 

三笠宮崇仁親王殿下におかせられては、昭和四十四年、宗像三宮を御参拝され、当時沖ノ島で行われていた第三次沖ノ島学術調査を御視察された折のご感懐をお詠みになった御歌である。

 

150504_101401_2
宗像大社

150504_101501
宗像大社

150504_1010010001

「三笠宮崇仁親王殿下応制歌歌碑」

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月六日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き母に付き添う。三日ぶりであったが、元気なので安心する。

帰宅後は、原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

2015年5月 5日 (火)

伊勢皇大神宮神殿と「わび」の精神

今読んでゐる鈴木大拙氏著『禅と日本文化』に次のように書かれてゐる。

 

「禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、然は究極実在の直覚的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。茶は原始的単純性の洗煉美化である」「茶人は書いている『天下の侘(注・わび)の根元は、天照御神にて、日()国の大主にて、金銀珠玉をちりばめ、殿作り候へばとて、誰あって叱るもの無之候に、茅葺・黒米の御供、其外何から何までも、つゝしみふかく、おこたり給はぬ御事、世に勝れたる茶人にて御入候』(石川流「秘事五カ条」)この筆者が天照大神をわび住居をする代表的な茶人と見なしているのは面白い。しかし、これは茶の湯が原始的単純性の美的鑑賞であること、換言すれは、茶は人間の生存が許しうるところまで自然に還って、自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現であることを示している」。

 

伊勢の皇大神宮の簡素さ、清浄さ、神聖さが、「原始的単純性の洗煉美化」「自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現」であると論じているのである。

 

世に宗教の殿堂は数多くあるが、伊勢の皇大神宮くらい簡素にして清らかで神々しい神殿は存在しない。宗教の殿堂には金銀珠玉をちりばめた豪華絢爛たる建物がある。覇者を神として祀った日光東照宮などはその典型ではないだらうか。

 

伊勢の神宮御正殿の建築様式を「唯一神明造」と申し上げる。「唯一神明造」とは、弥生時代の高床式の穀倉形式である。檜の素木造(しらきづくり)の掘立式(柱の素を直接地中の埋めて作る方法)で造営されてをり、屋根は茅葺である。素朴であり、何の豪華さもない。しかし、言ふに言はれぬ清浄さと威厳がある。日本文化の簡素さと清浄さを体現する建物である。日本人の信仰精神の結晶である。それはまさに鈴木大拙氏が言はれる「人間の生存が許しうるところまで自然に還って、自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現」であらう。

 

神を祀る社殿のことを祠(ほこら)と言ふのは、穂倉(ほくら)に由来するといはれる。人々の生命の根源である稲などの穀物の収蔵庫は神聖視されたので、神のまします建物が穂倉の形になったのであらう。

 

原初、わが国の伝統信仰には神殿は無かったとされてゐる。日本の神々は、祭祀が行はれる時に、神が居られるところから降臨されて、樹木や石などに依りつき、祭祀が終了すると元の所に戻られるとされる。今日の祭祀においても、降神の儀・昇神の儀が行はれてゐる。大神神社は今日においても、三輪山そのものが御神体であり、神殿はない。

 

しかし、時代の推移と共に、自然に神殿が造営されるやうになった。何故神殿が造られるやうになったのか。榎村寛之氏は「自然神から人格神に発展する過程で発生した」(『古代・律令体制の造替の開始』)と説いてゐる。これも一つの考へ方である。

 

「唯一神明造」の神殿は、日本人が生きてゆくために食する穀物を納める蔵の形に神殿が造られてゐる。まさに日本の神々は命の本源の神が鎮まられる祠である。

 

太陽神・皇祖神たる天照大神そして稲穂の神霊をお祀りする神殿が穂倉・穀倉の形をしてゐるといふことは、必ずしも日本の神が自然神から人格神に発展したから神殿が建てられるやうになったとは言へないのではなからうか。

 

稲作文化の国である日本の最高神をお祀りする神殿は、稲穂を収蔵しておく穂倉の形になったのであらう。それは自然のことであった。

 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月五日

夜、北九州の旅より帰京。

| | トラックバック (0)

2015年5月 2日 (土)

維新変革とは國家の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿を回復することである

 

混迷する現代日本は、麗しき自然は破壊されつつあり、人間の命すら科學技術文明・機械文明によって蝕まれつつある。物質偏重・経済至上・科學技術万能の世界を訂正することが現代おいて求められてゐる。

 

 かうした状況を打開するには、日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るといふ信仰精神を回復しなければならない。日本及び日本國民の頽廃を救ふには、日本の伝統精神・宇宙観・神観・國家観・人間観を回復する以外に道はない。

 

 わが國の麗しい山河、かけがへのない道統を重んじ、日本の伝統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識を回復しなければならない。

 

 我が國は神話時代(神代)以来の伝統精神=日本國民の歩むべき道がある。それに回帰することによって現代の混迷を打開すべきである。「神話の精神」への回帰によってこそ今を新たならしめることができる。

 

 日本伝統精神の本質は、自然を大切にし自然の中に神の命を拝む心である。そして祖先を尊ぶ心である。つまりきはめて自然で自由で大らかな精神なのである。

 

 我々日本民族の祖先が有した人生や國家や世界や宇宙に対する思想精神は、誰かが説いた知識として、人間の頭の中で勝手につくりあげてしまった観念ではなかった。

 

 神とか罪悪に関する日本人の考へ方が、全て「祭祀」といふ實際の信仰行事と不可分的に生まれてきたやうに、抽象的な論理や教義として我が國伝統信仰の精神即ち神道を理解することはできない。我が國伝統信仰は、「神話」と日本人の生活そのものの中に生きてゐるのである。

 

 わが國の伝統精神における最も大切な行事は「祭祀」である。「祭祀」は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神=神話の精神の實践なのである。「祭祀」が自然を破壊し、人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となる。

 

 天皇は日本國の祭り主であらせられる。天皇はわが國建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来てゐる。稲作生活から生まれた「神話の精神」を、「祭祀」といふ現實に生きた行事によって今日ただ今も継承し続けてきてをられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。天皇の「祭祀」によって、わが國の伝統精神が現代において生きた形で継承され、踏み行はれてゐるのである。

 

 「祭祀」とは神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。日本最高の祭り主であらせられる天皇の無私の御精神を仰ぎ奉ることが、我が國の道義の中心である。天皇を中心とする信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。天皇中心の道義國家の本姿を回復する以外にない。

 

 人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。禊によって罪穢を祓ひ清め、祭りと直會(神と共に供へ物を食する行事)によって神との一體観を回復する。これが神道行事の基本である。

 

 なべての「本来の姿」を回復する行事が「祭祀」である。つまり『古事記』に示されてゐる「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が「祭祀」である。

 

 今日、混迷の度を深めている我が國も、「天地の初発の時」を回復することによって、危機的状況を打開することができるといふのが、我が國の伝統的変革精神即ち維新の精神である。實際、日本民族は、全國各地で毎日のやうに祭りを行ってゐる。それは信仰共同體日本の本来の姿を回復する祈りが込められてゐる行事である。 

 

 維新変革とは、罪穢を祓ひ清め國家の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿を回復することである。「今を神代へ」であり「高天原を地上へ」である。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月二日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。共に歌を歌う。

帰宅後は、原稿執筆など。゛

| | トラックバック (0)

2015年5月 1日 (金)

『笹川平和財団 笹川中東イスラム基金主催講演会・中東政治変動の展望 「アラブの春」の終焉とその後』における登壇者の発言

二月九日に開催された『笹川平和財団 笹川中東イスラム基金主催講演会・中東政治変動の展望 「アラブの春」の終焉とその後』における登壇者の発言は次の通り。

 

ロリー・ミラー氏(ジョージタウン大学ドーハ校国際関係学科長)「非常に数多くの問題が中東にはある。ISIL(アイシル)だけではない。カリフ(預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号)制国家樹立が重要なのか。イスラム国家が実際に機能するのか。カリフ制というユートピア的観念がアイシルによって取り上げられた。カリフ制がすぐにできるわけではない。抽象的観念。急激に領土を拡大し、石油に関する違法な取引で稼ぎ、暴力によってコントロールしている。フランスは断固たる態度を取った。革命の後のイランは、政治的・軍事的にプラグマチックな行動をとった。アイシルが生物兵器をパリ・ロンドンで使用するか。それは悪夢。アイシルには道徳的自制力は無い。アイシルは通常兵器しか持っていない。アイシルの脅威を受けているすべての国がアイシルを追放しようということになった。冷静な計算でやらねばならない。日本も冷静で現実的な視点を持つべし。シリアの三十%の国土がアイシルに占領されている。アイシルが成功した原因は住民の不満を生かすことが出来たから。クルドの急進派がサウジの王室にマイナスの影響を及ぼしている。サウジがアイシルの資金源を取り締まらなければ、効果は上がらない。ヨルダンはアイシルのシンパを刑務所に入れた。ヨルダンのパイロットがあれだけ残虐に殺された。アイシルはシナイ半島のプランテーションを破壊しようとしている。先制攻撃は自衛という事では肯定される。アメリカは地上軍を投入しない。空爆はいくらでもしていい。アイシルの危機はアメリカのイラクへの先制攻撃の結果。先制攻撃は道義的には肯定できない。アイシルの資金源を断つのは本当に難しい。石油売買を追跡できるのか」。

 

サイモン・ワルドマン氏(キングスカレッジ講師)「アイシルはトルコの安保上の重大な脅威。一五〇万のシリア難民がトルコにいる。テロの脅威もある。シリアの過激派がトルコに入って攻撃する危険あり。トルコの国際的位置づけは今が最悪の状況。友好国が少ない。湾岸諸国との対立が深まっている。欧州諸国もトルコに背を向けている。トルコの国境を経て外に出る。シリアとの国境を警備するのは非常に難しい。過去一〇年のトルコの外交政策は現在のトルコ首相のアフメト・ダウトオールの影響下にあった。トルコの戦略的位置づけをダウトオールは考えていた。それは、トルコはユーラシアの中心的大国ということ。トルコは文化的歴史的つながりをヨーロッパと中東とに持っている。これを利用することによって大国になるという戦略。イランとの関係も近くなった。戦略的論理で説明。それがトルコの外交戦略。トルコのクルド人組織はイスラム世界観を持っている。外交官の安全確保をトルコはしている。トルコは反アイシル有志連合との間に陰りがある。トルコが国境警備のために何をしているかをアッピールすることが必要。トルコにおけるクルド問題が一番重要。トルコの国民はトルコが出来るだけシリアのことに関与しないことを望んでいる。難民キャンプだけに難民がいるのではない。レバノンも課題が多い。危険な状況。トルコは北米とNATOの延長線上に自らを置くべし」。

 

長澤榮治氏(東京大学東洋文化研究所教授)「中東には二つの大きな歴史的遺産がある。①欧米の介入により国境が決まった。②イスラム秩序を作るという動き。それがアイシルを生み出した背景。二〇〇三年のイラク戦争とその後の統治の失敗があった。アイシルのイデオロギーはカリフ国家の再興。中東の周辺部で起きているが、もともと辺境ではなく、周辺化されてきた地域。ネットワークもありお金がグローバルに動いている。アイシルは部族的構造と結びついている。かつてのバース党と関係の深かった部族と共闘。欧米の価値観で現状を解釈してはならない。近代的イスラム国家と大国が同盟を結ぶことが今日の中東を作って来た」。

 

渡邊啓貴氏(東京外国語大学大学院総合国際研究院教授)「パリのテロで十七人の犠牲者を出した。一月九日のフランスの世論調査で、シリアへの空爆を強めることに賛成が六〇%。フランスにはフランス革命の頃からテロがある。長くテロと付き合ってきた国。テロリズムの脅威は政治的文脈から出て来るだけではない。フランス的価値観への脅威には断じて戦うという世論が九〇%。反ユダヤは完全にご法度。ヨーロッパ近代文明が揺らいでいる。冷戦が終わり国際社会で異なった文化の交流が重要になっている。多文化共生を掲げている國はあるがうまくいていない。同化政策をとった国もきっちりとした制度が出来ていない」。

            〇

以上は小生のメモと記憶によって書いた記事です。文責は小生にあります。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗五月一日

午前は、諸雑務。

午後二時より、平河町にて、佐藤和夫氏から憲法問題に関するインタビューを受ける。録画。

この後、施設に赴き母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

「国民主権論」は日本國體と相容れない思想である

 西洋の国家観によれば、君主主権と国民主権とは相対立するもので両立し得ない観念である。君主と人民との闘争に終始した西洋の歴史からすれば、これは当然のことと言えよう。西洋の国法学説は、この観点に立って展開されてきたのである。

 

 西洋の国法学説でいう主権とは、近代中央集権国家がフランスに初めて成立する過程において国王の権力の伸長を国内外に主張し、絶対王政を正当化するための理論的武器となったものである。それは「朕は国家なり」という言葉でも明らかな如く、国王は何ら制約を受けない最高絶対の権力者とされ、国民は国王に信者の如く絶対服従するものとされ、国王と国民とは二極の対立概念として理解されているのである。

 

 西洋の国民主権論は、もっとも徹底した「反君主制」の理論として確立されたのである。そしてかかる反君主制の思想が、敗戦後戦勝国によって憲法の中に盛り込まれたのである。

 

 こういう史的・思想的背景を持つ西洋の主権概念は、日本国体とは相容れない。なぜなら日本では、古来西洋のような闘争の歴史は無かったからである。日本の歴史と伝統は、天皇を中心として君民一体となって民族共同体・信仰共同体を形成し発展させてきた。天皇と国民、国家と国民の関係は、相対立するものではなくして、不可分一体の関係にある。天皇と国民を、氷炭相容れない対立関係と見るのは、西洋流の考え方に立っており、日本の伝統とは絶対に相容れない。

 

 我々がここで確認しておきたいことは、国民主権は決して「人類普遍の原理」ではないということである。前述したように、国民主権という考え方は国王・皇帝と国民が対立し抗争した歴史を持つ西洋諸国の考え方である。十七世紀のヨーロッパにおける国王と人民との争いの中で、ルソーが理論化した考え方が国民主権であるといわれている。国王の権力の淵源は国民の委託にあるのだから国民に主権があり、国民の意向に反する君主は何時でも打倒できるという考えである。

 

 主権という言葉は西洋の国法学の影響により、国家における最高の政治権力と一般に解せられており、権力至上主義の臭みが濃厚である。これは、わが国の歴史と伝統に即応しない。

 

 明治以来の日本の国法学者は、大なり小なり西洋の学説の影響を受けているが、主権とか統治権という言葉が古来無かった日本としては、学者が西洋の学理をそのまま取り入れてしまったことが、今日の憲法論議において混乱を招いてる原因である。

 

 日本天皇の統治の伝統は、公平無私、仁であり愛であり徳であった。権力ではなかった。日本国体の特質は次の二点に要約されよう。

 

 (一)、日本は建国以来天皇を中心として全国民が統合され、同じ運命、同じ使命を担う民族共同体・信仰共同体として生成発展してきたこと。

 (二)、天皇と国民との関係は、天皇の権力支配によって成り立っているのではなくて、君民一体、君民一如の歴史的、精神的、倫理的つながりを不可欠の内容としていること。

 

 従って日本においては天皇統治は、精神的道統であった。そして古来日本には西洋的意味における国民主権の考え方は無かった。「現行憲法」における国民主権は西洋的意味で用いられており、日本国体の道統と相反するものである。

 

日本においては天皇と国民は、権力的・政治的に対立する存在ではなく、信仰的・精神的に一体の存在だったのである。それを敢えて相対立する存在ととらえて、国民主権をわざわざ第一章に置くというのは、国体破壊・伝統無視につながる。

 

 「国民」とは国の伝統をその感性と理性の双面において継承する人々の集合体のことであり、この集合体のうちに蓄積されていると考えられる伝統の知恵が法の根本規範を与えると理解することもできる。こういう理解だと、国民のうちには、過去の死者、現在の生者、未来の子孫のすべてを、その伝統精神の継承者としての次元においてではあるが、包含されることになる。

 

 しかし、「現行憲法」における「国民」とはそういう意味ではなく、今日ただ今実際に生存する人々のみのことである。そういう意味の「国民」は伝統精神に同調することもあれば、それから逸脱することもあり得る存在である。そのような国民は民主主義にあっては「多数参加に基づく多数決」という形で、政治的決定を行う。しかしそれは誤りを犯すこともあり得るのである。

 

 また「主権」につていも、「なにものにも制限されることのない最高権力」であり、歴史のうちに蓄積されていく根本規範そのものにあるという考え方がある。知性においても徳性においても不完全たるを免れ得ないこと必定の国民が主権を持つというのはすでにして衆愚政治への危険が伴う。

 

 伝統を貫き根本規範を完全に具現している人々という意味における「国民」ではなく、今日ただ今実際に生存している人々という意味における「国民」に主権が存するとする「現行憲法」は、「多数参加に基づく多数決」として民主主義方式が「多数者の専制」という名の衆愚政治へ堕ちていく危険がある。事実今日のわが国の状況はそうなっている。

 

 天皇の地位が、「国民の総意に基づく」とすると、天皇の地位は現在における多数派の国民の意志に基づき、国民の代表者からなる国会で議決すれば、天皇の地位はいかようにでも左右できるという見解が成り立つ。現在の憲法学者の八割はそういう解釈であると言う。

 

 憲法上の「国民」とは、「過去の死者、現在の生者、未来の子孫のすべて、そして日本の伝統精神の継承者としての国民」、「日本の伝統を貫いて存在し日本国家における根本規範を完全に具現しているものとしての国民」と定義し、現在生きている国民の多数派が日本の天皇中心の国体及び伝統精神を軽々しく踏みにじることないようにすべきである。

 

 一国の憲法はそれを構成する民族の伝統的規範意識を踏まえたものであることが不可欠の条件であるとされている。欧米の古い憲法が生きた憲法として欧米においては効力を持っているのに対し、欧米の憲法を真似て制定した新興国の憲法が画餅化しているのはこのためである。

 「現行占領憲法」は、戦勝国たるアメリカに強制され、制定された。そして「憲法三原理」なるものとりわけ「国民主権」の考え方は、欧米においてのみ通用するものであり、天皇国日本には通用しない。

 

 日本民族の国家の基本に関する法観念は、天皇を君主と仰ぐ国家である。欧米の歴史的所産である主権在民・国民主権という国家体制を押しつけることは、日本の国体を破壊することである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗四月三十日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

夕刻、千駄木にて、永年の同志と懇談。

夜は、資料の整理など。

| | トラックバック (0)

« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »