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2015年4月 3日 (金)

永江太郎日本学協会常務理事による「明治維新を彩る幕末の志士・西郷隆盛」と題する講演の内容

一月二十五日に開催された『第十四回先哲に学ぶ会』における永江太郎日本学協会常務理事による「明治維新を彩る幕末の志士・西郷隆盛」と題する講演の内容は次の通り。

 

「当時の人々が大西郷についてどう語っていたか。松平慶永は『御一新の功は、大久保もとよりなれども、大久保一人の手にては中々成りかたし。衆人の協力とは申し乍ら、御一新の功勞に知仁勇あり。知勇は大久保、智仁は木戸、勇は西郷なり。此三人なくんば如何に三條公・岩倉公の精心あるとも、貫徹せざるべし。西郷の勇断は實に畏るべき事に候。世界中の豪傑の一人のよし。外人皆景慕せりといふ。兵隊の西郷に服するや実に驚くべき也。英雄なり。仁者なり。この西郷を見出せしは、我が朋友島津斉彬也』(『逸事史補』)と書いた。

 

勝海舟は『坂本龍馬は「西郷といふ男は、分からぬ男だ。少し叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。若しも、馬鹿なら大きな馬鹿で、利巧なら大きな利巧だろう」と言ったが、坂本も中中鑑識のある男だった。全く西郷に及ぶことの出来ない點は、その大鑑識と大誠意とであった。己の一言を信じて、唯一人で江戸の地に乗り込む。己だって事を処するに当って、多少の権謀を用ひぬ男でもないが、ただこの西郷の至誠は、己をして、自ら欺くに忍びざらしめた。この時に際して、 (なまじ)ひ、小籌(しょうじゅ)浅略を事とするのは、却って、この人のために膓(はらわた)を見透されるやうな気がしたでな』(『大西郷正傳』に収められた『勝海舟談』)と語った。

 

大久保利通は明治維新成った後の功績が大きく、西郷隆盛は維新成る以前の功績が大きい。兵庫開港延期の時、勝海舟自身が『幕府はもう駄目だ』と西郷に言う。天下の大事を担うのは西郷のような人物。

 

福井藩主の松平春嶽の近習として江戸に出てくる橋本左内に手紙を出す。安政四年開国か鎖国かで大混乱。鎖国独立致すべからざることは識者であれば分かっているはずだ。ペリーの要求を拒めないのも分かっている。しかし幕閣ではこの議論すらできない。橋本左内の見識に最も近いのが島津斉彬。

 

明治維新の参画し断行した人に、松下村塾出身が多い。松下村塾で人間としての生き方、学問の仕方を教わった。安政年間は松陰が活躍。慶應時代は西郷隆盛。西郷は郷中(薩摩藩の武士階級子弟の教育組織)のリーダーになった。大久保利通・村田新八・大山巌・有村次左衛門などがいた。明治維新で薩摩が大きな力を発揮したのは、島津斉彬の指導力とそれを継承した西郷隆盛による。

江戸時代は全てのことは幕閣で決めた。御三家・御三卿も幕政に直接関与できなかった。天皇も自由に動かれることは出来なかった。ペリー来航の時、阿部正弘正弘は島津斉彬に相談、挙国一致内閣を作ろうとした。

 

西郷は、島津久光の命令に反したとして沖永良部島に流された。島津久光は陪臣なので、江戸城内で軽く扱われた。従四位下少将だった。久光は時代の激変についていけなかった。久光は西郷を呼び戻した。第一次長州征伐の後、長州処分の一切を任される。

 

兵庫開港問題で列藩会議を開いた。幕府の統治形態が崩壊。王政復古の下工作をした。山内容堂が建白書を提出。徳川慶喜は、大政奉還しても自分が総理大臣になると思っていた。しかし、納地・納官、内大臣の地位返上を求められ、鳥羽伏見の戦いになった。江戸でも攪乱工作が行われた。薩摩藩邸が幕府側よって焼き打ちされた。

 

小御所会議で西郷は岩倉具視に『短刀一本あれば済む』と言った。差し違えろという意味である。それを聞いた後藤象二郎は藩主・山内容堂に報告。西郷の脅しで容堂は何も言えなくなった。

 

西郷は武士の鏡。武士道とは日本精神なり。一言で言えば『滅私奉公』生活は質素そのもの。西郷は二千石の賞典禄を貰ってもポケットに入れないで、私学校を作った。島津斉彬は物凄いケチ。しかし機械工場として集成館建設など大きなことに大きな金を使った」。

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千駄木庵主人曰く。この記録は小生のメモと記憶によるものですので、言うまでもなく文責は小生にあります。

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