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2015年4月 4日 (土)

徳川齊昭について

徳川齊昭は、徳川光圀の『大日本史』編纂を中心とする「水戸学」の道統を継承し、『弘道館記』(水戸藩藩校の使命と目的を記した文章)によって『後期水戸学』を大成した。『弘道館記』には「宝祚(皇位)之を以って窮まり無く、国体之を以って尊厳、蒼生(人民)之を以って安寧、蛮夷戎狄(外国の蔑称)之以って率服す」と記されてゐる。これぞまさに「尊皇攘夷」の精神である。

 

齊昭は、天保十四年に福井藩主・松平春嶽に対して「治国」についての心構へを記した手紙を送ってゐる。それには「国主(各藩藩主のこと)身持心得方之事、天朝公辺へ忠節を心懸、内は士民撫育之世話、外は夷狄奸賊防禦之手当肝要と為すべく候」と記されてゐる。明治維新の基本精神が語られてゐる。徳川御三家の一つである水戸藩、そして御家門筆頭である福井藩が、明治維新で大きな役割を果たした。

 

さらに徳川齊昭は、嘉永六年七月に幕府に提出した『十条五事建議書』において、「今日彌(いよいよ)打払の方に御決着に相成候得ば、天下の士気十倍いたし、武備は令せずして相整ひ候儀、影響よりも早く之有るべし。左候てこそ、憚りながら征夷の御大任にも叶はせられ、諸国一統武家の名目にも相当致すべく候」と論じた。

 

征夷大将軍とは文字通り、夷狄を征伐する大将軍のことである。外患に毅然として対峙し、祖国を防衛することが第一の使命である。しかるに、井伊直弼の主導する幕閣は、アメリカを怖れ、孝明天皇の「攘夷」の大御心を無視し、勅許を得ずして開国した。征夷大将軍たるの資格を喪失したのである。倒幕運動が活発化したのは当然である。

 

井伊直弼の開国は、德川幕府専制体制維持のためのなりふり構はぬ開国であった。そしてそれに意義を唱へた徳川齊昭などの有力大名をはじめ、草莽の志士までも弾圧し、血の粛清を行った。これに憤激した水戸藩からの脱藩浪士十七名と薩摩藩士一名によって、万延元年三月、井伊直弼に天誅が加へられたのである。これにより徳川幕府はその支配能力が弱体化し、徳川幕藩体制瓦解・明治維新断行の第一歩となった。

 

歴史家の中には、徳川斉昭は、頑迷固陋な攘夷論者と断ずる人があるが、決してさうではない。国を守るためには進んで、外国の文明の利器をとり入れる努力を惜しまなかった。ペリーが二度目に来航した時、徳川将軍に当時最新型だった拳銃を数丁贈った。この拳銃を手に入れた齊昭は、複製を作り家臣に渡した。そして桜田門外の変の際に井伊直弼暗殺に用いられたと言はれる。

 

齊昭が主張し実践した「攘夷」とは、単純な排外ではなく、外国からの侵略を阻止するため祖国防衛意識を高め、軍備を強化するといふことであった。即ち「夷を以て夷を制す」である。

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