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2015年4月30日 (木)

再び「村山談話」について

 「村山談話」に「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」と述べられている。つまり、昭和初期からの大東亜戦争に至るまでのわが国の歴史が侵略の歴史であったと言うのである。これは、米英など欧米列強のアジア侵略を正しきものとし、戦勝国の誤まれる主張、わが国政府が容認したのだ。そして誤れるその立場と考え方にわが国の外交が拘束され支配され続けているのである。

 

アメリカの歴史家・ベアードは、「日本はルーズベルト大統領の巧妙なる秘密工作により、戦争に追い込まれたのである。大統領は、開戦一年二ヵ月前の一九四〇年十月、既に日米開戦の不可避を知っていた」と多くの資料に基づいて論述しているという。

           

 ルーズベルト大統領は、わが国による真珠湾攻撃の五ヵ月前の昭和十六年七月十八日に、米爆撃機を使ってわが国の工業地帯を先制奇襲爆撃する計画にゴー・サインを出し、自ら署名していた。(米国立公文書館、極秘資料)

 

また、昭和十六年十一月二十六日、アメリカ政府は最後通牒『ハル・ノート』を突きつけた。その内容の要点は、①支那大陸とフランス領インドシナからの日本軍の即時全面撤退②蒋介石政権以外の政権を否認すること③日独伊三国同盟を死文化すること-など十項目である。

 

日清・日露両戦役、第一次世界大戦で得た支那大陸における日本の合法的権益(条約に基づく租借地や租界)を一切認めない、日本軍の仏印進駐はヴィシー政権との条約に基づくのだがそれを認めない、南京の汪兆銘政権を認めてはならないという、それに加えて三国同盟を破棄せよと迫ったのである。当時の国際常識から見れば無茶苦茶な無理難題と言うほかはない。それはパール判事が、「モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも米合衆国に戈をもって立ち上がったであろう」と評したほどの無理な要求であった。

 

 『ハルノート』は、ソ連工作員・パブロフから直接指示されたソ連のスパイ=ハリー・ホワイト米財務長官が六月に起草したものであったことが判明した。(米特殊機関「VENONA資料」)一方、そのホワイトに対日強硬策を工作したソ連側の当事者パブロフは、ソ連崩壊後に回顧録を執筆しその謀略の内容を明らかにした。

 

当時のアメリカにとって、日本はソ連や支那以上に警戒すべき国であった。日本が日露戦争に勝利をおさめた後、アメリカにとって仮想敵国は日本だった。

 

アメリカの歴史こそまさに帝国主義の歴史・侵略の歴史であった。十八世紀にイギリスから十三州で独立したアメリカ合衆国は、フロンティア精神を発揮して西部開拓を行い、インディアンを駆逐し、メキシコから領土を奪い取り、西海岸に到達し、ハワイを併合し、グアム、フィリッピンを植民地化したのはまさに侵略・帝国主義以外のなにものでもない。幕末のペリー来航は、支那大陸への中継港確保が主目的だったが、あわよくば日本の植民地化を狙ったものでもあった。

 

フィリッピン植民地化後、支那大陸への野望を募らせたアメリカの前に立ちはだかる国は日本しかなかった。日本を押さえ込むことがアメリカの目的だったのである。アメリカは、こうした日本を何とかして抑圧しようとしたのである。

 

このように、日米開戦は、まさに、アメリカ・ルーズベルト政権の挑発によるものなのである。それはルーズベルト政権がソ連に踊らされただけでなく、アメリカのアジア進攻支配という強い意志によるのである。その証拠は、大東亜戦争の日本降伏の調印式が行われた戦艦「ミズーリ」の艦橋にペリー来航時の米国国旗が翻っていたことを見れば火を見るよりも明らかだ。

 

 大東亜戦争において、東南アジアが戦場になったが、決してわが国が東南アジアをその地域を侵略し領土拡大を狙ったわけではない。東南アジアを植民地支配していた米英蘭という西欧列強と戦ったのである。米英蘭などの西欧列強は、それまでアジアの資源を独占していたが、わが国の大東亜戦争によって、アジア諸国はことごとく独立を獲得した。

 

 いわゆる「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行問題」も政治的作為であり、虚構であることは、歴史家の調査及び種々の文献によって明白である。

 

 そもそも、「侵略」とは、無法に独立主権国家の支配下にある領土等に軍事力で侵入して奪い取り、そのまま長期にわたってこれを占領して主権を侵害することを言う。国際法上の戦争行為・行動や戦争中における一時的占領行為を意味するものではない。

 

 大東亜戦争においてわが国が軍事進攻した地域は、清朝崩壊後、多数の地方政権・軍閥が並立して、統一された独立主権国家が存在していなかった支那大陸と、欧米列強の植民地だったアジア地域であった。支那事変におけるわが軍の支那大陸進攻、大東亜戦争におけるハワイ急襲、マレー上陸・シンガポール攻略、フィリッピン・香港・蘭印・ビルマへの進軍などは、すべて戦争手段たる一時的作戦・戦闘行為であって、断じて侵略ではない。

 「極東国際軍事裁判」(いわゆる東京裁判)を創設したマッカーサーですら、一九五一年五月、米上院の軍事外交合同委員会の公聴会で、「日本が第二次大戦に赴いた目的はその殆どが安全保障のためであった」と述べ、侵略ではなかったと証言した。

 

 極東国際軍事裁判の裁判長を勤めたウエップもバーガミニーという人の著書の序文で、「米国も英国も日本が一九四一年に置かれたような状況に置かれれば、戦争に訴えたかもしれない」と書いているという。

 

 大東亜戦争は、決してわが国による侵略戦争ではなく、わが国の自存・自衛のための戦いだったのであり、かつ、アジア解放戦争であったのである。欧米列強こそ、アジア侵略の張本人であったのだ。

 

 しかるに、わが国自身がいわゆる「東京裁判史観」に呪縛されたまま、国会で「謝罪決議」を行ったり、閣議決定の「謝罪総理談話」を発表したのである。「東京裁判史観」とは、極東国際軍事裁判の多数判決即ち六人の判事の西欧列強のアジア侵略を正当化するためにわが国の行為を一方的に処断した判決を正しいとする歴史観である。

 

 わが国政府は、支那共産政府そしてそれに追随する韓国の内政干渉に屈伏して、「謝罪外交」をくり返してはならない。さらに、外国の手先となって祖国の歴史を冒瀆している国内の反日勢力はまさに売国奴としてこれを糾弾しなければならない。

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千駄木庵日乗四月二十九日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。母と共に「津軽海峡冬景色」を歌う。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2015年4月29日 (水)

この頃詠みし歌

日々(にちにち)を恙なく過ごすを喜びて今日も朝日に柏手を打つ

 

ともすれば安易に流れる自らを叱咤し生きる昨日も今日も

 

唯心所現のこれの世なれば強く明るき心を持ちて生きてゆくべし

 

日本橋の町の風景は変れども高速道路は橋の上を蔽ふ

 

ただ一人夜を過ごすはさみしけれど我には書物といふ友のあり

 

甘えたる歌を詠むなと自らに言ひ聞かせつつ筆を執るなり

 

謹厳実直の言葉のままの生きざまを示しし父を切に思へり

 

抜苦与楽の仏の慈悲を祈るなり闘争憎悪の満つる世に生き

 

両陛下の尊き祈りはペリリューに眠る御霊をやすらはせたまふ

 

(みんなみ)の島に眠れる兵(つはもの)の御霊鎮めの御幸尊し

 

両陛下が祈り捧げ給ふ後姿テレビにて拝し手を合せをり

 

大君の尊き祈りはペリリューに斃れしつはものをなぐさめたまふ

 

美しき自然の島でかつての日凄惨なる戦ひがありし悲しさ

 

雨の日の郵便局は混み合ひて知り人との会話に時を過ごせり

 

春の夜に「天国と地獄」を聞きをれば自づから心浮き立ちて来る

 

吉井勇の歌を讀みつつ京都なる祇園の町を戀ほしみてをり

 

時々に京都の町を訪ふ事が心やすらふ事にしありけり

 

山科の四宮といふ町を訪ね来て蝉丸の歌を口ずさみ歩く

 

日の本に仇なす國を如何にせむ 戦ふほかにすべなかるべし

 

謝罪せよと繰り返し迫る二つの國 互恵関係など夢のまた夢

 

青々と若葉伸びゆく銀杏の木 見上げて命のさきはへを思ふ

 

新緑の樹々耀へる上野山 南洲像を仰ぎ見るかな

 

初夏の風さやかに吹き来る上野山天つ日の下の尊きみ祭り

 

上野山の南洲像は新緑の光と共にさやけくぞ立つ

 

初夏の光 上野の山に照り映えて木々の新緑眩かりけり

 

彰義隊の慰霊碑を拝し上野山に散りしますらをを偲びまつれり

 

食欲の旺盛なる母を喜びて今日も二人で菓子食しゐる

 

田端なる駅に降り立ち母のために菓子を買ふなり母喜べば

 

母上のすこやけくゐますを喜びて共に語らふ午後のひと時

 

初夏の日の下に新緑溌剌と

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千駄木庵日乗四月二十八日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理、原稿執筆など。

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2015年4月28日 (火)

「村山談話」の否定は国家緊急の課題である

 

平成七年八月十五日の「戦後五十周年記念式典」に際して、第八十一代内閣総理大臣の村山富市が、閣議決定に基づき発表した声明「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(一般に村山談話として知られる)は悔いを千載にのこす亡国談話である。

 

『村山総理談話』には、次のようなことが書かれている。「……私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。……わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し進めていかなければなりません。……」。

 

これは、大東亜戦争に至るまでのわが国の国策を“誤りであった”と断罪した文字通り売国的談話であった。この『村山談話』はわが国政府による「謝罪意志」の表明である。これがその後、わが国の歴史教育の内容に対する他国からの内政干渉を誘発することとなり、また、日本の招来を担う子供たちをはじめ多くの国民に、誤った歴史を教え、支那韓国などへのいわれなき罪悪感・贖罪意識・負い目を持たせ続けることになった。このことが、国民の多くが自国への誇りや正しい道義心を持つことができなくなっている原因となっている。

 

「遠くない過去の一時期」とは一体何時から何時までのことを指しているのか。東京国際軍事裁判という名称の勝者による敗者への復讐劇では、昭和三年から二十年までの十七年間のわが国について断罪されたが、「村山談話」の「一時期」とはこの時期を指すのか。そうだとすれば「村山談話」は、いわゆる東京裁判史観に支配されていることになる。

 

「東京国際軍事裁判」は、“法の真理”に照らして完全に間違ったものであった。「平和と人道に対する罪=侵略戦争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」を新たに作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した。しかし、そもそもそのような概念は、戦争が開始された時にも、終戦時にも、裁判後にも定着しなかった。

 

東京国際軍事裁判は、人類の貴重な法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反して被告を断罪した。つまり、裁判とは名ばかりの非常の野蛮で公平性を全く喪失した戦勝国による一方的な復讐劇=リンチが東京国際軍事裁判であったのである。

 

「村山談話」には「国策を誤り」などと書かれているが、昭和三年から二十年までの十七年間に、総理は十四人、内閣は十五も成立しては倒れという状況であるから、一貫した国策など立てられるわけがない。文民と軍、陸軍と海軍の相剋も激しかった。したがって、共同謀議などということもあり得なかった。

 

「植民地支配」とは、わが国の台湾及び朝鮮統治のことであるが、わが国の統治によって「多大の損害と苦痛」を与えたという事実はない。むしろその逆に、わが国の統治によって台湾及び朝鮮は近代化を遂げ発展したのである。

    

明治維新を断行したわが国は、まず李朝朝鮮を援けて清国の侵略を排除した。また朝鮮半島を保護下に置こうとしたロシアを撃破した。この二つの戦いが日清・日露両戦争である。

 

当時の韓国が独立国家として自立していればわが国は、日清・日露両戦争をする必要もなかったし、朝鮮を併合する必要はなかったのである。しかし、朝鮮が支那やロシアに対して事大主義(支那・ロシアという勢力の強い国に従って言いなりになること)に陥り、支那・ロシアの属国となってしまう危険があった。朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、次は日本てある。朝鮮併合はわが国の独立と自存のための止むを得ざる選択であったし、当時の国際世論の認めるところであった。

 

併合後は、わが国の指導と投資により、南北縦貫鉄道の施設、多角的港湾の設定、多種多様の殖産興業、教育の普及、保健衛生施設の拡充、水利灌漑施策の充実等々、近代化建設はめざましいものがたった。これは台湾も同様である。つまり、台湾及び朝鮮統治は西欧列強の植民地支配とは全く異なる性格のものである。 

 

また他のアジア各国・各民族も日本の進出による西欧列強の排除によって、独立を達成することができたのである。 

 

世界の中で、政府及び国会が自国の近代史を侵略の歴史であったと表明した国はわが国のみである。侵略というのなら、英・仏・露・オランダなどは何百年もの間、侵略をくり返してきた。彼らのしたことと比べれば、わが国の台湾及び朝鮮統治非常に短期間であった。そして東南アジアへの進出は植民地支配をしていた欧米列強を排除するための軍事進攻であった。政権・軍閥が並立していた支那大陸への軍事進攻は、独立主権国家の領土を侵した行為ではない。

 

「痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明」しなければならないような「多大の損害と苦痛を与え」た「戦争犯罪」をしでかした国は日本ではない。戦争犯罪の最たるものといえば、非戦闘員を大量に虐殺した広島、長崎の原爆投下であり、東京大空襲のである。しかし、アメリカが一度でもわが国に対して謝罪したことはない。

 

日本国民が敗戦以来七十年にわたって日本民族の名誉・祖国に対する誇りを喪失しているからこそ、今日のわが国の政治は混迷し、外交は自主性を失い、国防体制は整備されず、教育と道義は荒廃しているのである。

 

大東亜戦争侵略史観の払拭し、大東亜戦争は、自存自衛の戦いであり、アジア・アフリカ民族に民族としての自覚と名誉への回復の可能性を与え、ナショナリズム勃興の引き金となった聖なる戦いであった、という正しき歴史認識を確立しなければ、わが国の再生はあり得ない。いわゆる「村山談話」の否定は国家緊急の課題である。

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2015年4月27日 (月)

千駄木庵日乗四月二十七日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。

夕刻、西日暮里にて、遠来の友と懇談。山手線に乗る方向を間違えて一回りしてしまったとのこと。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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日本國の<立國の精神>について

 日本という國家には日本の長き歴史の中から生まれてきた日本独自の<立國の精神>というものがある。それは、日本列島の豊かな自然環境と共に生きる生活・風土の中から生成して来た。

 

 日本民族の生活の基本は稲作であり、日本人の主食は米である。古代から現代に至るまで、稲作を中心とした農事を営む人々が、五穀の豊饒を神に祈り、豊作を神に感謝する祭祀を行って来ている。

 

 祭祀を中核とする共同體の統率者(祭り主)は信仰的権威を担っている。古代にける祭祀の祭り主(共同體を代表して神に祈り、神の意志をうかがい知りそれを國民に告げる役目の人)を中心とする信仰的な血族関係即ち共通の祭祀と文化を持つ村落共同體が、民族共同體へと自然に発展し生成してきた國家が、日本國なのである。つまり、稲作文化が祭祀を生み、その祭祀の祭り主を中心とした共同體の生成が、日本という國家の成立である。 

 

 稲作に欠かすことのできない自然の恵みが太陽であり大地である。その太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の霊が宿っているものとして尊んだ。そして、古代日本人は太陽を最も尊貴なる神として崇めた。それが天照大神である。

 

 天照大神をはじめとする天津神、そして大地の神である國津神、および稲穂の霊をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主は、天照大神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。これが即ち日本天皇であらせられる。天照大神は、太陽の神であるのみならず、天皇の御祖先でるあると信じられた。そして、祭り主たる天皇を稲作を営む古代日本人の共同體の連帯の中心として仰いだ。

 

 つまり、古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行われる太陽神・天照大神の祭祀を頂点とし、その神聖なる権威が他の多くの地方の神々と祭祀を次第に全國的に統一されることによって実現したのである。つまり、古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神の祭祀によって聖化された。

 天皇による日本の祭祀的統一という歴史を背景として成立した日本神話には、天皇の御祖先である邇邇藝命が高天原から地上に天降られた時に、天照大神からの御命令(御神勅)が下されたと記されている。

 

 それには、「豊葦原の千五百秋(ちいほあき) の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし) 皇孫(すめみま)、就() きて治() らせ。行矣(さきくませ) 。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」(豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の子孫が統治すべき地である。なんじ子孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の霊統を継ぐ者が栄えるであろうことは、天地と共に永遠で窮まりないであろう、というほどの意)と示されている。

 

 さらに、「吾が高天原に所御(きこしめす) 斎庭の穂(いなほ) を以ちて、また吾が兒(みこ)に御(まか)せまつるべし」(私の高天原に作っている神に捧げる稲を育てる田の稲穂を私の子に任せよう、というほどの意)という命令を下された。

 

 天孫降臨神話の意味するところは、穀物を実らせる根源の力である太陽神の霊力を受けた邇邇藝命が、地上に天降り稲穂を実らせるということである。それがわが日本の始まりなのである。そして、天照大神の神霊をそのまま受け継がれた生みの子たる邇邇藝命が永遠に統治される國が日本であるということを端的に表現しているのである。

 

 天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命(アメニギシ・クニニギシ・アマツヒコ・ヒコホノ・ニニギノミコト)という御名前は、「天地に賑々しく実っている太陽神の御子であり立派な男児である稲穂の霊の賑々しい命」というほどの意である。邇邇藝命とは、太陽神の御子であるとともに稲穂の神の神格化である。この國の人々の生命の糧である稲穂が毎年豊かに実るように、という古代日本人に共通する切なる願いが天孫降臨神話を生んだのである。

 

 その邇邇藝命の曾孫が神武天皇である。神武天皇の御名前は、神日本磐余彦火火出見尊(カムヤマトイハレヒコホホデミノミコト)という。磐余とは現在の奈良県桜井市の天の香具山の北東麓地域の古地名である。「火」は「ホ」と読み、「日」及び「稲穂」の意である。この御名前は、「神の國大和の磐余の首長である日の神の御子で稲穂がたくさん出て来る命」というほどの意である。

 

 つまり、神武天皇は、邇邇藝命と同じように太陽神たる天照大神の神霊と稲穂の霊の體現者なのである。そして神武天皇は、邇邇藝命が天照大神から受けた「日本國の統治」と「稲穂をたくさん地上に実らせる」という御命令を実現するために、九州より大和に来られて橿原の地に都をお開きになり、天皇に即位されたのである。これが日本國家の確立である。

 

 『教育勅語』に示されている「皇祖皇宗」の「皇祖」とは、天照大神及び邇邇藝命の御事であり、「皇宗」とは神武天皇をはじめとした御歴代の天皇の御事である。

 

 なお、『日本書紀』には、「辛酉年(かのとのとりのとし) の春正月(はるむつき) の庚辰(かのえたつ) の朔(ついたち)、天皇橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す」と記されている。『書紀』が神武天皇即位の日を正月朔日(むつきついたち)としているのは、むつき(正月)の始めにおいて、神も天地も人も新生するという上古以来の日本人の信仰の上に立っているのである。

 

 祭祀的統一によって成立した大和朝廷の最初の天皇が神武天皇である。神武天皇が実在したかどうかという議論があるが、悠遠の太古に行われた日本の祭祀的統一が、何年何月何日に行われたなどということが実証的にわかるはずがない。稲作日本の祭祀的・信仰的統一、そして祭り主・天皇を中心にした國民の精神的共同體の成立を體現する御方が神武天皇なのである。つまり、神武天皇の御東征の物語は稲作文化(弥生文化)が西(筑紫)から東(畿内)へと移って来たことを象徴しているのである。

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千駄木庵日乗四月二十六日

朝は、諸雑務。

午前十一時より、上野公園西郷隆盛立像前にて、『西郷南洲銅像清洗式』執行。始澤澄江五條天神社宮司が祭主となり、祭事執行。祝詞奏上・玉串奉奠などが行われた。この後、早瀬内海西郷南洲会会長が挨拶。三沢浩一氏そして小生が祝辞を述べた。多くの同志が参列した。

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西郷南洲像

午後二時より、赤坂の乃木神社尚武館にて、『第五十九回主権回復記念国民大会』開催。湯澤貞元靖国神社宮司が挨拶。三潴修学院総会が行われた。この後、高乗正臣平成国際大学名誉教授が「三潴憲法学の神髄」と題して講演。質疑応答。

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乃木神社

午後六時より、春日の文京シビックセンターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。瀬戸弘幸氏及び小生が講演。参加者による活発な討論か行われた。

帰宅後は、原稿執筆。

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2015年4月25日 (土)

米英支蘇こそアジアへの侵略者であり、その手先だったのである

安倍総理が、アメリカを訪問するのを前にホワイトハウスの高官は24日、過去の植民地支配と侵略を謝罪した「村山談話」などの談話と合致した立場で歴史問題に取り組むことが望ましいという認識を示した。

 

アメリカが、日本に対して歴史問題で、おかしなことを言って来ているのは、日本が敗戦国家であり続けることを望んでいるからである。言い換えるともアメリカは日本の対米自立を否定しているのである。

 

「日本は侵略戦争を行なった」という歴史観は、アメリカが押し付けた『憲法』の『前文』にも記され、且つ、閣議決定の『戦後五十周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話』にも記されている。即ち、「日本は侵略戦争を行なった悪い国だった」というのが『国是』になっているのである。

 

アメリカ民主党政権は、日本国政府及び日本国民が、大東亜戦争は決して日本の一方的な侵略ではなかったこと、アメリカによって追い込まれ、挑発されて開始せざるを得なかった戦いであったことを正しく認識することを食い止めようとしているのである。日米開戦当時のアメリカは、民主党政権であった。そして日本全国に絨毯爆撃を行い、二発の原爆を落とし、無辜の日本国民を殺戮したのも、民主党政権であった。

 

我々日本国民は、昭和十六年十二月八日に渙発された『開戦の大詔』に示された「帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為、蹶然(けつぜん)起ッテ一切ノ障礙ヲ破碎(はさい)スルノ外ナキナリ」との戦争目的を正しく認識すべきである。

 

アジアへの侵略者及びその手先は米英支蘇だったのである。大東亜戦争は、自存自衛の戦いであったのであり、且つ、結果としてアジア解放の戦いだったのである。

 

「戦後」という言葉は何時まで続くのだろうか。日本が米英支蘇四国に対しその『共同宣言』を受け入れてからすでに七十年も経過している。戦後とは敗戦後ということであり、屈辱的な時代という事だ。しかも、「戦後」という言葉はそういう意味で何となく陰鬱な響きを持っている。我々はもういい加減に「戦後何年」という言葉を使うのを止めるべきであると考える。

 

私たち日本人は、「終戦以来何年たった」という事を意識することはもう止めにして、「開戦以来何年たったか」を意識すべきではなかろうか。今年は、開戦以来七十四年である。その事に思いを致し、民族の誇りを取り戻すべきだと考える。

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千駄木庵日乗四月二十五日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

夕刻、谷中にて、知人と懇談。区議選最終日のため、町中大変にぎやかなり。

帰宅後は、明日のスピーチ及び講演の準備など。

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大西郷の尊皇精神と明治維新

古代日本の大変革たる大化改新は、支那・朝鮮(唐新羅連合軍)からの侵攻の危機下に行はれた。明治維新もまたしかりである。

 

明治維新の基本精神は「尊皇攘夷」である。天皇を君主と仰ぎ、國家的統合を一層強めて國家体制を変革し強化して外敵から自國の独立を守るといふ精神が明治維新の基本精神である。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。

 

天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。そしてそれは、吉田松陰先生と並んで明治維新最大の功労者である大西郷の精神でもある。

 

 西郷隆盛は、文久二年(1862年)、薩摩藩主の父・島津久光の逆鱗に触れ、沖永良部島に流された時に『獄中有感(獄中感有り)』と題する次の詩を詠んだ。

 

「朝蒙恩遇夕焚坑   朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる

人生浮沈似晦明   人生の浮沈晦明に似たり

縦不回光葵向日   たとひ光を回らさざるも葵は日に向ふ

若無開運意推誠   もし運開くなきも意は誠を推す

洛陽知己皆為鬼   洛陽の知己皆鬼となり

南嶼俘囚独竊生   南嶼の俘囚独り生を竊む

生死何疑天付与   生死何ぞ疑はん天の付与なるを

願留魂魄護皇城   願はくは魂魄を留めて皇城を護らん」

 

勝海舟ゆかりの洗足池(東京都大田区)に西郷隆盛の遺徳を顕彰する留魂碑が建立されてゐる。その碑には西郷自筆のこの「獄中有感」の詩が刻まれてゐる。

 

この詩は、「朝に主君の恩遇を受けたと思うと夕には生き埋めにされる。人生の浮き沈みは、昼と夜の交代に似ている。葵(ヒマワリ)は太陽が照らなくても、いつも太陽の方を向いている。もし自分の運が開けなくても、誠の心を抱き続けたい。京都の同志たちは皆、国難に殉じている南の島の囚人となった私ひとりが生き恥をさらしている。人間の生死は天から与えられたものであることは疑いない。願うことは死んでも魂は地にとどまって皇城(天皇の御所)を守護したい」といふほどの意である。

 

平泉澄氏はこの詩について「西郷の詩として傳へられるもの百数首、その中に於いて最も重要なるものとして、私は此の詩をあげたい。その一生の間、厄難多く、島流しにあふ事も前後三回に及んだが、運命の浮沈いかにあらうとも、皇城を仰ぐ忠誠の一念はかわるものでは無い」「末句『願はくは魂魄を留めて皇城を護らん』といふに至っては、皇国の道義、発揮せられて余蘊なく、日本男児の真面目、描出して明々白々なるを見る」(『首丘の人大西郷』)と論じてゐる。

影山正治氏はこの詩について、「寺田屋事件に於て有馬新七らを失ひ、月照を失ひ、齊彬公を失ひ、東湖を失ひ、その他多くの先輩盟友既に無く、一人南島の獄中に沈思回想して無言の慟哭をなして居るのだ。…『生死何ぞ疑はん天の付与なるを、願はくば魂魄を留めて皇城を護らん』南洲五十年の全生命、凝ってこの一句に結晶してゐる。かくて五十年の生命は悠久無限の大生命に飛躍したのだ」(『大西郷の精神』)と論じてゐる。

 

西郷隆盛は、安政二年四月、尊皇攘夷思想の先達・水戸藩の学者・藤田東湖を江戸小石川の水戸藩邸に訪ね、お互ひの信頼関係を築いた。「願くば魂魄を留めて皇城を護らん」こそ、「大西郷の精神」の根幹・尊皇攘夷精神である。

 

共産支那や南北朝鮮の「傲慢無礼」なわが国領土に対する侵略策謀・反日政策・対日侮蔑外交が繰り返されてゐる今日、わが國民は、「民族の正気」を回復し、屈辱と汚名を晴らす行動に出なければならない。

 

今日の危機的状況を打開するためには、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じやうに、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革即ち平成維新を断行しなければならないと信ずる。

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『政治文化情報』平成二十七年五月号のお知らせ

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
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購読料
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平成二十七年五月号(平成二十六年四月二十日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

 

「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新

 

 

 

 

『昭和二十一年元旦の詔書』渙発に示された昭和天皇の大御心

 

昭和天皇は如何なる困難があらうとも日本皇室の傳統を継承して来られた

 

『五箇条の御誓文』は、維新日本出発の基礎であり、近代日本の基本精神

 

「きこしめす」「しろしめす」が、天皇の國家統治の基本

 

「天地の公道」とはわが國古来より継承して来た一君萬民の理想政治の道

 

「旧来の陋習」とは何か

 

「一君萬民」の國體精神、天皇の御存在こそが維新変革の原基

 

臣下國民に敬神尊皇の思ひが希薄になったことが今日の政治の混乱の最大原因

 

千駄木庵日乗

 

山崎琢夫氏(経済産業省資源エネルギー庁電力・ガス事業部電力改革推進室企画官) 日本の市場はあまり競争力がない。三・一一以前から改革が必要とされていた。西から東へ送電することができないのが最大の問題」。

 

ボール・ミッドフォード氏(ノルウェー科学技術大学教授「日本は政策を変えるのは早い。三・一一以後六カ月で原子力政策は大きく変った。我々は日本を羨望の目で見ている。日本は早く意思決定できる」

 

ゲルハルト・ファーソル氏(ユーロテクノロジー・ジャパン代表取締役社長)「日本は発電と蓄電の特許を多く持っている。もっと大きな實験的再生エネルギー蓄電の工場をつくるべし」

 

渡辺利夫拓殖大学総長「傳統的に事大してきた中國が大きくなっている。韓國は安んじて反日気分を露呈できる。アメリカの力の低下によって、中韓は連携して反日になっている」

 

金田秀昭(岡崎研究所理事・元護衛艦隊司令官)「安全保障環境の変化・軍事環境の変化・中國北朝鮮の軍事動向・軍事バランスの変化=中國の抬頭がある。中國と韓國を除けば、日本の集団的自衛権行使を容認している」

 

この頃詠みし歌

 

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2015年4月24日 (金)

千駄木庵日乗四月二十四日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、明後日のスピーチ及び講演の準備など。

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萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

小生が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

日時 五月十三日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区南大塚地域文化創造館

東京都豊島区南大塚二-三六-一 ☎〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』。

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

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孝明天皇と石清水八幡宮

頻繁に外国船が来航するやうになった幕末期の外患の危機の際し、孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日、石清水臨時祭を挙行された。野宮定祥(ののみやさだなが)を勅使として派遣され、神前に「宣命」を捧げられた。

 

その「宣命」には「近時相模国御浦郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由を尋るに、交易を乞ふとなむ申す。それ交易は、昔より信を通ぜざる国に濫りに許したまふことは、國體にも関わりれば、たやすく許すべきことにもあらず。…肥前国にも来着なとなむ聞し食(め)す、利を貪る商旅が隙を伺ふの姦賊が情実の知り難きをイかには為(せ)むと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまふ時なし、掛けまくも畏こき大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛廉(ひれん・風の神の名)風を起こし、陽侯浪を揚げて速やかに吹き放ち、追い退け攘ひ除け給ひ、四海異なく、天下静謐に、宝祚長く久しく、黎民快楽に護り幸い給ひ、恤(あは)れみ給ふべし、恐れみ恐れみ申し給はくと申す」と示されてゐる。

 

孝明天皇は、「寝ても覚めても外患を忘れる事は出来ない、外国船が来たら風波を起こして撃退し、四海に異変なく、天下は平穏で、國體は安穏で、国民の幸福を護り給へ」との切なる祈りを八幡大神に捧げられた。

 

さらに、孝明天皇は、嘉永三年(一八五〇)には、「萬民安楽・宝祚長久」の御祷りを伊勢皇大神宮・石清水八幡宮など七社七寺に捧げられた。また、神佛に祈りをささげられると共に、幕府に対してしっかりとした対策を講じるやうにとの「勅書」も下された。

 

孝明天皇が、外患に際して日本国の祭祀主としてとご使命を果たされたことが、その後の明治維新の断行・日本国の独立の維持の基盤となったのである。

 

孝明天皇は文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。

 

国難にあたり、特に神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の有難き事実である。孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

 

天皇が御所の外に行幸あそばされるのは、江戸初期の寛永三年(一六二六)年に、第一〇八代・後水尾天皇が、徳川秀忠・家光に謁見されるために二条城に行幸あそばされて以来のことであった。まことに畏れ多い申し上げやうであるが、あへて申せば、徳川武家政権は、上御一人日本天皇を京都御所に幽閉同様のご状態に置き奉ったのである。

 

孝明天皇は、同年四月十一日、石清水八幡宮に行幸になり、神前において征夷大将軍・徳川家茂に攘夷の節刀(天皇が出征の将軍に下賜する刀)を賜らんとされた。これは神前で幕府に攘夷の戦争を決断させる目的であったと傳へられる。

 

これを長州の策謀と断じた将軍後見職・徳川慶喜は、将軍・徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。しかも、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もってしまふ。天皇は慶喜に社前まで来るよう召されたが、腹痛を理由にとうとう社前へは行かずに済ませてしまったといふ。病気(おそらく仮病であらう)を駆け引きに使って、神前での攘夷決行の誓ひを回避したので慶喜の奸智であり政略であったといはざるを得ない。

 

この石清水行幸には多くの民衆が集まった。中でも大阪から京都に「夥しく登り」、宿屋は一杯になり、祇園の茶屋が客を部屋に詰め混む有様であったといふ。民衆は天皇に強い仰慕の思ひを持って集まり、神聖なる祭祀主日本天皇こそが日本国の唯一の君主であることを自覚したのであった。

 

賀茂行幸・石清水行幸において、二百三十七年ぶりに民衆の前にお姿を現せられた天皇は、征夷大将軍・各藩主の上に立たれる日本国の統治者であらせられるといふ天皇のご本質を顕現せられたのであった。言ひ換へれば、賀茂行幸・石清水行幸は、天皇を中心とする日本國體が正しく開顕する第一歩となったのである。

 

孝明天皇は、安政五年(一八五八)五月十五日「石清水社法楽(神仏習合の祭典))に、「寄山神祇」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「八幡山かみもここにぞあとたれてわが國民をまもるかしこさ」

 

文久二年(一八六二)十月十六日の「石清水御法楽」には、「薄風」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「夕嵐吹くにつけても花薄あだなるかたになびくまじきぞ」

 

孝明天皇の國と民を思われる仁慈の大御心こそが、国難打開・維新断行の原動力だったのである。

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千駄木庵日乗四月二十三日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き、母に付き添う。

夕刻、湯島にて同志二氏と懇談。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。

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2015年4月23日 (木)

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展を参観して

本日参観した『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展は、「正徳6年(1716)は、尾形光琳(おがたこうりん)が亡くなり、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)と与謝蕪村(よさぶそん)というふたりの天才絵師が誕生した、江戸時代の画壇にとってひとつの画期となりました。…若冲は彩色鮮やかな花鳥図や動物を描いた水墨画を得意とし、蕪村は中国の文人画の技法による山水図や、簡単な筆遣いで俳句と絵が響き合う俳画を得意としていました。一見すると関連がないようですが、ふたりとも長崎から入ってきた中国・朝鮮絵画などを参考にしています。本展覧会は、伊藤若冲と与謝蕪村の生誕300年を記念して開催するもので、若冲と蕪村の代表作品はもちろん、新出作品を紹介するとともに、同時代の関連作品を加えて展示し、人物、山水、花鳥などの共通するモチーフによって対比させながら、彼らが生きた18世紀の京都の活気あふれる様相の最も輝かしい一断面をご覧いただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

与謝蕪村・円山応挙合筆「己が身の(自画賛)」、伊藤若冲「鳥禽図」、与謝蕪村「静御前図屏風」、伊藤若冲「藤娘図」、与謝蕪村「猛虎飛瀑図」、伊藤若冲「達磨図」、与謝蕪村「奥の細道図巻」、伊藤若冲「象と鯨図屏風」、与謝蕪村「富嶽列松図」などの諸作品を参観。

 

小生は、若冲の絵が好きである。宮内庁三の丸尚蔵館で「動植綵絵(どうしょくさいえ)」という動植物を極彩色で綿密に描いた作品を初めて鑑賞して時、大変に感動した。よくこれだけ細かくそして美しく描くできるものかと思った。今回の展覧会ではこの作品は展示されていなかった。若冲は、像も鯨も実際には見たことがないはずなのだが、「象と鯨図屏風」はスケールが大きく、且つ、迫力があった。若冲の極彩色と緻密な描写そして動植物に対する激しい思い入れは白と黒が基調の当時の日本画としては異質であると思う。

 

蕪村は、郷愁の詩人と言われ、その俳句は「春の海 終日[ひねもす]のたり のたりかな」が人口に膾炙している。うららかな春の日ざしのなか、波穏やかな海が広がっているのを眺めてうとうとと眠くなりつつ一日を過ごしていることを吟じたもの。丹後与謝の海浜での作。与謝の浜辺を愛したので「与謝」と名乗るようになったと言う。

「菜の花や月は東に日は西に」も良き俳句である。蕪村は松尾芭蕉をとても尊敬していた。また、画家であり俳人なのだから当然のことだが、日本の景色を非常に愛した人である。支那文化への憧れがとても強く、漢詩にちなんだ作品が多かった。父母への思いもとても強く、それが儒教の忠孝思想と結びついたようである。

 

私は美術に関しては全く門外漢であり、うっかりした事は書けないのだが、若冲と蕪村は、日本の芸術感覚・美感覚の大きな流れである「わびとさび」とは全く異なるものを描いているようにように思える。

 

若冲と蕪村は、二人とも京都四条高倉付近に同じ時期に住んでいたが、交流はなかったという。四条高倉は私にとって親しい町である。というのは昭和五十年代後半に、毎月機関誌に原稿を書かせてもらった団体の事務所があったからである。半年に一回くらい訪問した記憶がある。当時は京都に行くのが楽しみであった。今も京都の行くと心が落ち着く。四条高倉という江戸時代の地名が今もそのまま残っているのは京都ならではのことである。

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千駄木庵日乗四月二十二日

午前は、諸雑務。

午後は、サントリー美術館で開催中の『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展参観。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆など。

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2015年4月21日 (火)

後櫻町天皇御製に拝する『天津日嗣』の御精神

第百十七代・後櫻町天皇は、

「まもれなほ伊勢の内外(うちと)の宮ばしら天つ日つぎの末ながき世を」

(どうかお護り下さい。伊勢の内宮外宮の神よ。天津日嗣日本天皇が統治する永遠の日本國を)

 

と詠ませられてゐる。

 

後櫻町天皇は、第百十五代・桜町天皇の第二皇女。江戸時代の宝暦十三年(一七六三)にご即位。

 

「天津日嗣」とは、「天照大御神の靈統を継承する御方」といふ意である。天皇の神聖性はここより発する。「日」は「天照大御神の神靈」の御事である。

 

わが國悠久の歴史は、現御神としての御自覚で君臨あそばされた大君と、天皇を現御神として仰いだ國民とがつくってきたのである。天皇は地上においては天照大神の靈統の継承者・御代理としての御資格を有される。この御製はそのご自覚を高らかに歌ひあげられた御歌と拝する。

 

影山正治氏は、「(天津日嗣は)『もっもと大いなる〈ひ〉を継ぎつづける日本國の中心の御方』といふ意味である。『生命』─『いのち』の核心は『ひ』であり、『人』は『日子(彦)』と『ひ女(姫)』に分れる『ひ止』であって『ひのとどまったもの』であり、『ひを継ぎつづけること』によってこそ存在するものであるが、そのうちでも、最も中心的な、最も大いなる『ひ』を継ぎつづける日本の中心をなす『大生命』が『あまつひつぎ─天皇』の御存在である。」(『天皇の御本質』・「不二」昭和五十五年緑陰号)と論じてゐる。

 

『人』としての靈統は、男女の差別は全くなく継承されるのである。現御神即ち地上に現はれられた生きたまふ神であらせられる上御一人を、生物學上の男女としてのみ拝することはできない。天皇が現御神であらせられるといふことは、たとへ肉身においては女性であられても、生物學上の一般女性とは異なる使命を有される。現御神として肉体上の男性・女性原理を超越した神聖権威を體現せられるのである。

 

平野孝國氏は、「(天津日嗣の)ツギの思想は、元来個人の肉体を超えて継承される系譜と思ってよい。ヨツギという形で後代まで変化しつつ残ったが、宮廷のツギは日を修飾にして、ヒツギと言ふ。日のみ子、或は日神の系図の義である。」(『大嘗祭の構造』)と論じてゐる。

 

「個人の肉体を超えて継承される系譜」と言っても、皇統に属するといふことが絶対の前提である。「男系であれ女系であれ、大嘗祭で天皇靈が降りてくれば天皇であるといふ議論は乱暴であり、それを容認するならば無法者が皇位を簒奪して大嘗祭をすれば天皇と認められるのであらうか」といふ議論がある。

 

しかし、皇祖皇宗の血統を継がれる皇族が即位の礼と大嘗祭を執行されることが絶対の前提であって、「皇位の簒奪を目論む無法者」が即位式や大嘗祭を執行できるはずがない。天照大御神の血統を継承される方が即位式を挙げられ大嘗祭を執行され皇位を継承されるのである。

 

神武天皇以来男系の男子が皇位を継承されてきた傳統はきはめて重い。従ってその傳統はでき得る限り守られなければならない。しかし、「男系の男子皇族が皇位を継承しなければ皇統が断絶する」といふことはない。「人」は、「日子」であり「日女」であるといふのが神代以来のわが國の傳統信仰である。

 

天皇は、先帝の崩御によって御肉體は替はられるが御神靈は新帝に天降られ再生されるのである。ただし新帝は、皇祖皇宗から血統を繼承された先帝の「生みの御子」でなければならない。

 

天皇は武力で空間を制圧して國家を治められてゐるのではなく、天照大神(太陽の神)の御子としての神聖なる権威によって治められてゐる。そしてその根幹は天神地祇を祭られる<天皇の祭祀>である。日の神信仰はわが國だけに傳へられてゐる信仰ではないが、稲作生活を営む日本民族にとって太陽はなくてはならぬ存在であるので、わが國では、日の神信仰(太陽信仰)はきはめて強固なものであった。その日の神の御子が祭り主日本天皇であらせられる。

 

天皇は國民を統率して、國民を代表して、神様に祈り、神を祭り、神の御命令を民に傳へる役目を果たされる。ゆへに、民から仰ぎ拝すれば、天皇は地上における神の御代理即ち現御神であらせられるのである。   

 

日本傳統精神は、天皇の祭祀を中核として今もなほその生命が傳へられてゐる。のみならず、現實に、今上天皇の常に民の幸福を祈られ自然の命を慈しみたもうご精神とご行動が、人心の荒廃と自然破壊を食い止める大きな力となってゐる。

 

日本國の君主であらせられ、祭祀主であらせられる天皇のご存在があってこそ、日本國は安定と平和が保たれる。今日の日本は醜い政治闘争が繰り広げられてゐる。亡國の淵に立たされてゐるかの如き状況である。しかし、天皇皇后両陛下の清らかなお姿を拝すると、心洗はれ、無上の安らぎを覚える。両陛下は、まさに「やまと心」・「無私の精神」の体現者であらせられる。天皇・皇室がおはします限り日本國は安泰であると信ずる。

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千駄木庵日乗四月二十一日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。

帰宅後は、書状執筆、資料の整理、『伝統と革新』編集の仕事。

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一神教の対立の歴史は人類史に計り知れない惨禍と殺戮をもたらした

 倉前盛通氏著『艶の発想』によれば、わが国に対する原爆投下の際、アメリカのトルーマン大統領は「早く投下しなければ、原子爆弾が都市住民にどんな被害を与えるか、テストする機会を逸する」と言ったという。これは米軍部の考えでもあったという。

 

 日本が白人国家でありキリスト教国であったらアメリカは原爆を投下しなかったであろうというのが通説である。事実、ドイツには原爆は投下されなかった。ましてカソリックの総本山・バチカンのあるイタリアに原爆を投下するなどということはあり得ないことだったのだろう。

 

 欧米のキリスト教徒は「キリスト教徒と非キリスト教徒との距離は無限である」と言う時があるという。キリスト教徒は、原理的には、この世に生まれた後、洗礼を受け、教会の一員にならねば「人」となり得ないと見ている。つまり、非キリスト教徒は人間ではなく動物の一種であると考えているのである。動物は自然の一種であり、人間(この場合はキリスト教徒)によって征服され支配され改造され搾取され殺されても構わない存在なのである。

 

 これがキリスト教神学のドグマであり原理であった。アジア・アフリカ・南北アメリカなど非キリスト教地域侵略を行わしめ、アメリカはわが国に原爆を落としたのは、この原理によると考えられる。

                       

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という三大一神教の対立と闘争の歴史は、人類の歴史に計り知れない惨禍と殺戮をもたらした。

 

 欧米社会で行われ来たユダヤ人差別と迫害は、キリスト教のドグマによる。キリスト教国で反ユダヤ感情の無い国は無いと言っていい。それはキリストを神の一人子として受け入れないユダヤ人に対するイエス・キリストの「あなたがたは……悪魔から出てきた者であってその父の欲望どおりを行おうと思っている。彼らははじめから人殺しであって、真理に立つ者ではない。」(『聖書・ヨハネ伝』八章四四節)という宣告に基づくのである。『聖書』こそが反ユダヤ思想の基礎文献なのだ。

 

 イスラム教のユダヤ教及びキリスト教に対する排撃思想は、イスラム教の聖典『コーラン』(マホメットが唯一神アラーから受けた啓示を集録したもの)に次のように記されている。「信ずる人々よ、ユダヤ教徒やキリスト教徒を友としてはならない。彼らはお互い同士だけが友である。お前たちの中で彼らを友とする者がいれば、その者は彼らの同類である。神が無法の民を導きたもうことはない」。さらにコーランには、「命には命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、受けた傷は同じ仕返しを」と書かれている。

              

 ユダヤ教は、紀元前四世紀頃から発達し、ユダヤ(イスラエル)の砂漠で遊牧民の間に信じられたエホバ神(ヤーヴェ)が、多くの苦難を経て、モーゼという預言者によって「唯一最高絶対の神」とされた宗教であり、ユダヤ人を神に選ばれた選民と自覚する。

 

 キリスト教は、ユダヤ教の「唯一最高絶対の神」を信じ、さらにイエス・キリストを「神の一人子」=救世主と仰ぎ、エホバ神をユダヤの民族神から世界的な普遍神にまで高め、さらにギリシャを経てローマに入り、ゲルマンの狩猟民に信じられ、今日の天地の創造主・世界人類の唯一絶対神たるゴッドの地位を確立した。

 

 イスラム教もまた、「唯一最高絶対の神たるアラー」を信じる一神教である。西暦六一〇年にマホメットによって創唱された。マホメットこそが唯一絶対神のもっとも偉大に使徒であり預言者と仰ぎ、ユダヤ教の教師を否定し、イエス・キリストを「神の一人子」とは認めない。

 

 つまり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、砂漠の遊牧民に信じられた「唯一絶対神」を信じるということでは全く共通している。しかし、お互いに異端・異教徒として排撃し反目して来たのがこれまでの長い歴史であった。

 

 砂漠の宗教たる一神教は、「血」による贖い(罪滅ぼし)を求める。「血を流すこと無しには罪の許しはあり得ない」とする。ユダヤ教もイスラム教も神の祭壇に羊を供える。ユダヤ教の祭司たちは動物を裂き、その血を流して身の罪をあがなってきた。

 

 イエス・キリストも自分の血を流すことによって人類の罪の許しを神に乞うた。だからイエスキリストは「神の子羊」といわれるのだ。キリスト教徒が神に捧げるパンと葡萄酒はイエスキリストの肉と血の象徴である。

 

 キリスト教国であるアメリカでは十七世紀に、マサチューセッツ州で清教徒による専制政治が行われ、「異端者」(非キリスト教)を絞首刑にし、「魔女」(民間信仰のシャーマン)を火炙り(焚刑・ふんけい)にした。

 

中川剛氏は、「近代アメリカは最も基本的に民主主義の制度は正にこの清教徒の専制政治の歴史的派生物であることをもし認識できないとすれば、それは歴史をひどく歪めることになるであろう」(『憲法を読む』)と論じている。キリスト教に限らず、一神教とはこのように排他独善的にして残虐な側面をもつ宗教なのである。

 

一神教の神は、その意志に反する者を、全能の力を以て処罰し抑圧し征服する。そして、その神を信じ救いを求める者のみを救済する。この排他性によってお互いに攻撃し合っている。

 

 この三つの宗教の中で、キリスト教を信じた欧米社会が、高度な文明を築き上げ、地球上の他民族を征服して、植民地として隷属させた。その歴史の過程において様々な侵略や戦争が繰り広げられた。

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千駄木庵日乗四月二十日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理、原稿執筆など。

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2015年4月20日 (月)

「國見」は、天皇統治において重大意味を持つ祭祀である

 「國見」とはただ単に天皇が景色を眺められる行事ではなく、國をご覧になって、五穀の豊饒と民の幸福をお祈りされ祝福される行事である。

 

 「目は口ほどにものを言ひ」といふ言葉もあるごとく「見る」といふのは、対象物を認識する上で大切な行為である。天皇統治の事を「みそなはす」(「御覧になる」・「見る」の尊敬語)といふ。

 

荒木博之氏は、「上代人にとって<見る>とは『対象物の神性に感応し、その対象物を飽かず見ることによって、その神性をその清浄さをおのれが本性にとりこむこと」(日本人の心情論理)と解した。この論を引用して大原康男氏は「<見る>は…単に空間とかかわる視覚に尽きるものではなく、そこには鎮魂儀礼の要素が含まれている…」と論じられてゐる。(現御神考試論)

 

天皇が神聖なる天香具山に登られて「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀である。新しい年の始まりを知らせる「春のことぶれ」(春が来たことを広く知らせること)・天地一新の行事である。祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。國が始まった時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。天皇が「國見」をされることによって國土の新生と五穀豊饒が實現する。

 

つまり、「國見」は大嘗祭と同一の意義があり、天の神の地上における御代理即ち現御神(あきつみかみ)たる天皇が、國土に稲穂を豊かに實らせるといふ天の神から命じられた最大の御使命を實現するといふ天皇の統治にとって重大意味を持つ祭祀なのである。    

       

 昭和五十四年十二月四日、先帝昭和天皇は奈良県に御行幸あらせられた。翌四日、萬葉學者・犬養孝氏の御案内で、高市郡明日香村の甘橿丘にお登りになり、大和盆地を双眼鏡で一望された。この時、犬養氏は、この舒明天皇の御製など五首を朗詠した。犬養氏の「昭和の國見ですね」とふ言葉に、先帝陛下は声を立ててお笑ひになったと承る。そして、次のやうな御製を詠ませられた。

 

 「丘に立ち歌をききつつ遠つおやのしろしめしたる世をししのびぬ」

 

 昭和五十九年十二月、再び奈良県に御行幸になり、翌昭和六十年の新年歌會始に「旅」といふ御題で賜った御歌が、

 

 「遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく」

 

である。

 

農業國家・稲作國家であった古代日本は、國民生活は旱魃や洪水などの自然環境によって大きく支配される。したがって、各地の集団の統率者は常に祭りを行って、自然の恵みを願ひ感謝しそして自然災害が起こらないやうに神に祈る祭祀を行ふことが大きな使命であった。

 

祭祀は、日本国の君主であらせられる天皇の重要な御使命であった。日本においては宗教と政治、祭祀と政治は一体であるべきである。これを<祭政一致>と言ふ。

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千駄木庵日乗四月十九日

午前は、諸雑務。

午後は、書状執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理など。

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2015年4月19日 (日)

三潴信吾氏の「現行憲法無効論」

本日の『憲法懇話会』において学んだ三潴信吾氏執筆の「憲法問題に対する基本的態度」(昭和三十七年発表)と題する論文に極めて重大なことが論じられているので紹介する。

 

「およそ一国の憲法典が憲法典として成立するための要件を二点に要約することが出来る。即ち、一、自主的に制定されること。二、国家傳統(立国法、國體法又は不文法)に立脚すること。…日本国憲法制定の当時は、国家としての占領下にあり、国民は重大な飢餓と住居難に直面し、おびただしい未帰還者、追放者、処刑者があり、物心両面にわたり未曾有の恐怖、不安、混乱状態にあったのであるから、国家の自主、自由の志向や行動などは到底思ひもよらなかったのである。…我々は、日本国憲法を、…断じて憲法として認め難い。人々は或は云ふ。天皇の裁可を得て、天皇の詔書によって公布された正式の憲法であり、又帝国議会の議決を経て、憲法上の改正手続を正式にとったものであると。しかし、吾人は、その底に、『ポツダム宣言の受諾』と『占領』との重大事実のあったことを見逃してはならない。『総司令官の下に従属せしめられた』天皇や議会、それは、畏れながら『管理天皇』であり、『管理議会』であったのであり、占領中の詔書は『管理詔書』であったのであって、『萬世一系の天皇』のそれではあり得なかったのである。マ司令官と仮に一体たらせ給ふた天皇のそれに他ならない。従って、最高司令官も、占領も、すべてが消滅したる今日に於ても尚且これを憲法として、詔書として有効ならしむべき何等の筋合も無いものである。即ち、日本国憲法は今日に於て、全く憲法典としての資格自要件を欠如して居るから、看板だけを以てこれを憲法なりと云ふわけに行かない。…ただ、日本の主権回復後に於てもこれを、他の法律や命令等の諸々の国法に対し、より高次の国法(その意味での最高法規)として、自主制定の憲法の確立するまでの過渡期を担ってゐる『臨時基本法』として黙認されてゐるに過ぎない。その意味での最高法規ではあるが、憲法では絶対にあり得ない。…主権の回復後既に十二年。一日も速やかにわが国家伝統に立脚した憲法を回復しなければならない」。

 

三潴信吾氏は、『現行占領憲法』は「憲法」ではないとされ、「有効ならしむべき何等の筋合も無い」と断じているのである。そして、「一日も速やかにわが国家伝統に立脚した憲法を回復しなければならない」と論じてゐる。即ちこの文章は、『現行占領憲法』無効、『大日本帝国憲法』回復を論じているのである。

 

『現行占領憲法』を改正するということは、無効であるところの『現行憲法』が有効であることを承認することになり、日本の歴史伝統の継承、國體精神の継承について、大きな禍根を将来に残してしまう。また、改憲は煩雑にして時間のかかる作業である。

 

『現行占領憲法』が無効である事実を確認し、速やかに『大日本帝国憲法』を回復・復元するべきである。それこそが「現行憲法改正」とは比較にならない正道であると信ずる。

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千駄木庵日乗四月十八日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送作業、発送完了。購読者の皆様には週明けにはお届けできると思います。

午後六時より、神田学士会館にて、『憲法懇話会』開催。高乗正臣平成国際大学名誉教授が座長。高乗智之氏高岡法科大学法学部教授.、村松伸治日本文化大学教授が発表。活発な討論・質疑が行われた。

帰宅後は、原稿執筆。

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2015年4月18日 (土)

水戸藩の「尊皇攘夷思想」が端的に書かれた文章

幕末における水戸藩の「尊皇攘夷思想」が端的に書かれた文章を紹介します。

 

天保十四年に、福井藩主松平春嶽公に対して、水戸藩主徳川齊昭公が示した「治国」についての文章に「一、国守身持心得方之事、天朝公辺への忠節を心懸、内は士民撫育之世話、外は夷狄奸賊防禦之手当為肝要候」。

 

国守即ち藩主として、朝廷へ忠節を尽くすこと、藩士と領民の面倒をよく見ること、そして外敵の侵略に対して国土を守る備えをすべきことを論じている。明治維新における水戸烈公と松平春嶽公の貢献は非常に大きかった。しかも水戸藩は御三家の一つ、福井藩は徳川家康の長男・松平秀康を藩祖とする親藩筆頭である。

 

水戸学の泰斗・藤田東湖が、主君・徳川齊昭に奉った文章で次のように論じている。

「先づは関東の弊風にて、日光等さへ御立派に候へば、山陵はいか様にても嘆き候者も少なき姿に御座候、…日光御門主〈輪王寺宮〉を平日御手に御附け遊ばされ、万一の節は、忽ち南北朝の勢をなし候意味、叡山へ対し東叡山御建立、其の外禁中諸法度等の意味、実に言語を絶し嘆かはしき次第、右等を以て相考へ候へば、京所司代などは、以心伝心の心得ぶり、密かに相傳り仕り候かも計りがたく、実意を考へつめて候へば、一日も寝席を安んじかね候次第」。

 

徳川幕府の朝廷への不敬を厳しく糾弾した文章である。こうした正統なる尊皇精神が徳川御三家の一つ水戸徳川家に存したということは実に以て驚くべき事である。明治維新、尊皇討幕運動は水戸藩の「尊皇攘夷思想」から発したのである。

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千駄木庵日乗四月十七日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き、母に付き添う。元気なので安心する。

夕刻、千駄木にて、地元の後輩と懇談。

帰宅後は、書状及び原稿執筆など。

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「日本の心を学ぶ会」のお知らせ

先日掲載いたしました「日本の心を学ぶ会」のご案内文に訂正と追加がありますので、再度ご案内申し上げます。なおこの告知文は主催者が作成したものでございます。

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第五十回「日本の心を学ぶ会」

 

「愛国維新運動の使命と課題を考える」

 

日本の心を学ぶ会も今回で50回を迎えます。

第一回以来、五年間、国体観、尊皇精神、神道、維新の道統など様々な分野から日本の伝統精神を学んできました。

「二回参加したら正会員、五回の参加で幹部」と言うぐらい緩やかな集まりの勉強会ですが、学んだことを参加者がそれぞれの実践の場で活かす「実践のための勉強会」を目指してきました。

 

「実践の場」が政治運動であれ、仕事や家庭であれ良き日本人として「日本の心」を知ることは必須の教養と言えるでしょう。

そもそも「日本の心」とは日本を日本たらしめている根本的な精神であります。

我が国は過去何度も、国家的危機に遭遇しながらも常にその危機を乗り越え国家の命を再生してきました。

こうした国家を革新し、国難を打開する原動力となったものこそが、現御神日本天皇を君主と仰ぐ共同体精神=日本国体精神即ち「日本の

心」であります。

「日本の心」をもとにした国家の革新は大化の改新、建武の中興、明治維新など歴史の中に繰り返し立ち現われております。

占領下においてGHQがおこなった神道指令や「憲法の押しつけ」などはこのような国体精神=「日本の心」を隠蔽し、日本を弱体化させるこ

とを目的としたものであります。

このような日本破壊工作は占領が解除された後も日本の破壊を目指す勢力によって継続して行われており、日本破壊の工作はついに実を結

び始めていると言えます。

私どもはこのような現状認識のもと真の国体精神を回復し真の日本を取り戻すため「日本の心」を学んで参りました。

今回は節目と成る第五十回の勉強会となるため、「実践のための勉強会」に立ち戻り「維新愛国運動の使命と課題」について議論したいと

思います。

みなさんお誘い合わせの上ご参加ください。

 

【日 時】平 成27年4月26日(日)午後600分より

 

【場 所】文京シビックセンター 三階 会議室C

東京都文京区春日1-16-21 

東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1

都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1

JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

「現代日本の危機打開と『尊皇攘夷』の精神」 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所

 

「反共産主義運動に賭けた半生を振り返って、<愛国運動の原点>を語る。」せと弘幸氏 BLOG「日本よ何処へ」

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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2015年4月17日 (金)

明治維新の基本原理『尊皇攘夷』について

内憂外患交々来たるという状況の今日は、明治維新前夜とよく似ている。今の日本もまさに国難の時期である。しかし、わが国の歴史は国家革新を断行して国難を打開し、さらに発展してきた歴史である。

 

国難打開、国家革新の基本には、天皇を祭祀主と仰ぐ日本國體を明らかにして、旧弊を一掃し、新たなる歩みを遂げるという精神があった。大化の改新も建武中興もそして明治維新もそういう変革であった。

 

明治維新においては、「尊皇攘夷」という言葉でそれを表現した。

 

「尊皇攘夷」とは如何なることかについて、中村武彦氏は次のように論じている。

 

「『尊皇攘夷』とは、言葉をかえれば、国家の中心、文化の原点を守り、これに危険をもたらすものを排除する高度の文化意識に外ならない。この精神なくして国の独立も自由もあり得ない」(『現代維新断行の原理』「現代維新の原点」」所収)。「攘夷運動はどこに国にもある。しかしも同じ『攘夷』運動であっても、日本の攘夷運動は国民的統一と近代化への推進力になったのに反して、支那の朝鮮の攘夷は単なる排外主義に終わって、国家の統一にも進歩にも役立たず、却って外国勢力の干渉、侵入を誘導するだけの結果を招いている。それは『攘夷』の根柢に『尊皇』の原理を持つ国民と持たぬ国民との相違である。その相違は決定的である。『尊皇』あるがゆえに分裂割拠から統一団結へ、封建制から近代国家への発展が意図も円滑に急速に出来た。攘夷がそのまま外国文化輸入の動力となることが出来た。また『尊皇』の原理の下においてのみ『敬天愛人』も具体的に実行出来たし、討つ者討たれる者の対立を超える同胞一体感を実感し得た」(『尊皇攘夷』)

 

「『尊皇攘夷』とは単なる排外意識ではない、高度の文化意識である」という中村氏の主張論はまことに卓見である。明治維新に対して、「德川幕府と薩長との権力闘争であった」とか、畏れ多いが「天皇は『玉』として利用された」とかの全く誤まれる論議がいまだに横行している。

 

明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。日本傳統信仰即ち天神地祇への祭祀を根本とし、神武創業の精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行うのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」である。

 

「復古即革新」という明治維新の精神は、公卿や武士や學者という当時の指導層のみが志向したのではない。全國民的な傳統回帰精神の勃興でありうねりであった。

 

伊勢参宮運動が、明和八年には、四月八日から八月九日までの間に、二百七萬七千四百五十名。文政十三年には三月から五月までの三ヶ月間に四百萬人を超えたという。

 

明治維新は勤皇の志士達を中心とする尊皇攘夷運動の根底に實はこのような一般庶民の圧倒的な伊勢参宮運動が、德川幕府という覇道政権への抵抗として全國にその土台をすでに充分成熟せしめていたのである。

 

さらに、慶応三年(一八六七)七、八月頃、には「ええじゃないか」といふ民衆運動が起こった。これは、伊勢神宮の神符等が降下したことを発端として乱舞を伴う民衆信仰的な民衆運動である。名称は、民衆が踊りながら唱へた文句が「ええじゃないか」「よいじゃないか」「いいじゃないか」等があったことに由来するという。発生地は、畿内、東海道を中心とした全國約三十カ國である。囃し言葉は、「日本國の世直りはええじゃないか」「今年は世直りええじゃないか」というような世直しを期待する文句であった。

 

伊勢参宮運動=お蔭参りの傳統を継承した世直しを希求する民衆運動である。このような民衆の復古的・信仰的な世直し運動が明治維新の原動力の一つだったのである。まさに明治維新は全國民的な「復古即革新」「尊皇攘夷」運動だったのである。

 

中村武彦氏が、「日本の攘夷と支那朝鮮の攘夷との根本的相違は、「『攘夷』の根柢に『尊皇』の原理を持つ国民と持たぬ国民との相違である」と論じておられるのはまことに正しい明治維新観である。

 

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千駄木庵日乗四月十六日

午前は、諸雑務。

 

午後は、原稿執筆の準備。

 

午後四時より、西荻にて、季刊誌『傳統と革新』編集会議。次号の特集などについて討議。

 

午後六時より、西荻にて、『土屋健氏を偲ぶ会』開催。司会の小山哲雄氏が挨拶。小生の音頭で献杯の後、全員が追悼の言葉を述べ、思い出を語り合った。そして最後に未亡人及びご子息が挨拶され、終了した。土屋健氏は、たちばな出版の編集担当者をつとめられ、昨年の春、逝去された。『伝統と革新』創刊当初より、色々ご苦労をいただいた方である。一周忌を迎え、本日『偲ぶ会』が開催された。雑誌の編集は素人の私を助けて頂いた方である。心よりご冥福をお祈りします。

 

帰宅後は、原稿執筆。

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2015年4月16日 (木)

水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

 水戸藩校弘道館は、藩政改革に燃えた第九代藩主・徳川斉昭(烈公)が、天保十二年(一八四一)に創立した。

 

 徳川斉昭(寛政十二<一八00>~萬延元年<一八六0>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与えた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終えるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

 

 弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来るといった情勢にあった幕末当時のわが國の危機を救うための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

 

 幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩などでもこうした教育振興策が講じられた。しかし、水戸藩内保守派は弘道館建設に反対した。水戸藩には七代藩主・治紀(はるとし)の頃から深刻な内部対立があった。幕末期にも、その延長として改革派(尊皇攘夷派)と保守派(徳川宗家への忠誠を第一とする佐幕派=門閥派)との対立が続いた。尊攘派には家格の低い藩士、門閥には家格の高い藩士が多かったという。しかも尊攘派も激派と鎮派とに二分するという複雑さだった。

 

 弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

 

 藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、当藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されている。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬い、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されている文である。水戸學は尊皇ではあるが、徳川家康そして幕府を否定する考えはなかった。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

 

 明治維新の基本思想たる『尊皇攘夷』は『弘道館記』の一節「わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」より発したのである。藤田東湖はこれを解釈して「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり」(『弘道館記述義』)がその起源である。

 

 徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したという事実は驚嘆に値する。

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千駄木庵日乗四月十五日

午前は、諸雑務。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、『政治文化情報』の発送準備・原稿執筆など。

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2015年4月15日 (水)

水戸學の特質とその影響

勤皇が徳川光圀以来の水戸藩の伝統である。光圀は、常々近臣に対して、「わが主君は天子なり、今将軍はわが宗室なり。あしく了簡仕り、取り違へ申すまじき」と戒め、毎年元旦には、直垂(ひたたれ)を着して早朝京都を遥拝したという。

 

 徳川光圀の學問・尊皇思想は、各方面に多大な影響を及ぼした。それは徳川御三家にまで及んだ。御三家筆頭の尾張藩四代藩主・徳川吉通は、子孫に対する訓誡として「天下の武士は、みな公方(徳川将軍の尊称)家を主君の如く崇めかしづけども、実は左にあらず…三家(尾張、紀伊、水戸)の者は全く公方の家来にて無し、今日の位官は朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣(天武天皇十三年に定めた八階級の姓(かばね) の第二位。後には、三位の人の姓(せい)の下、四位の人の名の下につける敬称)と称するからは、これ朝廷の臣なり。されば水戸の西山殿(徳川光圀のこと)は、我らが主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりとのたまひし由、然ればいかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘のごとき事出来て、官兵を催される事ある時は、いつとても官軍に属すべし。一門の好みに思ふて、かりにも朝廷にむかふて弓を引くことあるべからず」と述べた。

 

 「水戸學」は、天皇國日本の悠遠な真姿を示し、徳川幕藩體制のみならず鎌倉幕府以来の武家政権の転変を超えて持続する皇位の伝統を明らかにした。それは、『大日本史』の綱条の序文に、「人皇基を肇めて二千余年、神裔相承け、列聖統を纉(つ)ぎ、姦賊未だ嘗て覬覦(身分不相応なことをうかがいねらうこと)の心を生ぜず。神器の在る所、日月と並び照らす。猗歟(ああ)盛なる哉。其原(もと)づく所を究むるに、寔(まこと)に祖宗の仁沢、民心を固結し、州基を盤石の如くならしむるに由る也」とある通りである。

 

 「水戸學」は支那思想を重んじたが、無批判に支那思想を受け入れたのではない。藤田東湖は『弘道館記述義』で、「然れば則ち唐虞(唐は七世紀初めから十世紀初めまで、古代支那王朝として最も文明の発展をとげた國。虞は支那古代、舜(しゆん) が尭(ぎよう) からゆずられて帝位にあった王朝の名)の道、悉く神州に用ふべきか。曰く、否。…決して用ふべからざるもの二つあり。曰く禅譲(帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること)なり。曰く放伐(徳を失った君主を討伐して追い払うこと。「禅譲」と共に、支那の易姓(えきせい)革命思想による考え方)なり。…赫赫たる神州は、天祖の天孫に命ぜしにより、皇統綿々、緒(物事のはじまり)を無窮に伝へ、天位の尊きこと、猶ほ日月の踰ゆべからざるがごとし…万一禅譲の説を唱ふる者あらば、凡そ大八洲の臣民、鼓を鳴して之を攻めて可なり。…若し彼の長ずるところを資り、併せて其の短に及べば、遂に我が萬國に冠絶する所以のものを失はん」と論じている。

 

 支那の有徳王君主思想・革命思想を否定し、皇統の無窮を説いている。さらに、支那思想の悪しきところを取り入れたならば、わが國の國體が破壊されるとしているのである。ここに「水戸學」とりわけ藤田東湖の尊皇思想の真骨頂があるのである。

 

 今わが祖國日本は確実に内部崩壊を始めた。小手先の弥縫策ではこの危機を乗り切ることはできない。我々のなすべきことは、こうした荒廃を生んだ根本的原因を剔抉することである。

 

 戦後日本の精神荒廃の根源を探っていくと、七十年前から、占領下のわが國に奔流のように流れ込んだアメリカ及びソ連製の人権至上主義、平和主義、悪平等主義、経済優先主義に突き当たる。物と金さえあれば皆が幸せになるという考え方が戦後日本の満ち満ちてきた。その結果が、今日のわが國の教育荒廃であり、政・官・財界の末期的な不祥事の続発である。

 

 わが國の歴史、伝統、文化、道義精神を断ち切って、アメリカ及びソ連が構築した戦後體制に、大多数の日本人は文字通りマインドコントロールされてしまっている。

 

 わが祖國日本は、今こそ、この日本弱體化のマインドコントロール・精神的呪縛から脱しなければならない。日本人としての魂・誇り・道義精神・文化伝統を取り戻さねばならない。それが教育の荒廃のみならず、祖國日本の内部崩壊を食い止める唯一の方策である。

 

 その意味において、我々は幕末の危機を打開した基本精神である「水戸學」の尊皇攘夷思想を今こそ學び直さなければならない。 

 

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千駄木庵日乗四月十四日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、明日のスピーチの準備、資料の整理など。

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2015年4月13日 (月)

フリージャーナリスト・福島香織さんの「香港と台湾 そして東アジアの行方」と題する講演の内容

二月七日午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて『アジア問題懇話会』開催もむフリージャーナリストの福島香織さんが「香港と台湾 そして東アジアの行方」と題して講演し、次のように語った。

 

「台湾のひまわり学生運動は成功。香港の雨傘運動が起きた。この二つは連動している如し。習近平政権になって香港の高度な自治権への危機感が起った。メディアが中国化した。『サウスチャイナモーニングポスト』などのメディアに『人民日報』の社説引用記事が増えた。二〇一〇年から香港メディアを使って香港をコントロールし始めた。二〇一一年、『愛国教育カリキュラム』の推進、中国人としての誇りと帰属意識を養う教育が行われるようになった。これにティーンエイジャーが反発。

 

二〇一二年、ティーンエイジャーが激しいデモを行い、教育カリキュラムをあきらめさせた。しかし現実には香港の学校で愛国教育が始まっている。去年六月一〇日、国務院は、『香港は中国の地方政府に過ぎない』という見解を表明。今の香港政府は、中国の傀儡政権になっている。中国に逆らえないようにする条例をつくろうとしている。市民は報道・言論の自由が奪われることに恐怖を感じている。香港人は中国に不信感を持っている。胡錦濤政権の時は、香港に強引なことができなかった。

 

七十九日に及ぶ雨傘運動は九百人の逮捕者を出しながら、失敗に終わった。しかし参加学生は、『ノンポリが多かった香港市民と若者との間で現状に対する危機感の共有が出来た。これは終わりではなく始まりだ。敗北ではない』と語っていた。劉夢隈元政協委員は、『胡錦濤政権までは、香港の政治的立場は尊重されていた。だが習近平政権は尊重しなくなった。それが雨傘運動の背景。運動はまた起こる。香港人の民主希求は強まった。この運動に勝者はいない。中国政府は勝者となっていない。香港の反中国感情はむしろ高まった。中国政府は香港の普通選挙を認めるべきだった』と語った。

 

台湾は政治の潮目が変わったという気がする。民進党の蔡英文氏は好ましい人。国民党は中国べったり政策を取れなくなった。統一地方選挙での国民党の敗因は、①既存政治への有権者の幻滅。②ひまわり学生運動による台湾アイデンティティの広がり。③若者の投票率の高まり。若者には金権投票が効かない。④馬英九路線、親中国経済政策への危機感。台湾は民主が正常に機能した。

 

香港には民主がない。香港市民には、香港がどうなるか分からないという危機感があり、カナダ・英国のパスポートを欲しがっている。中国の留学生が香港の学生運動に参加しないようにするために中国の特務が香港に入っている。今後、アメリカの関与がないとは言えない。香港は親日的な人が多い。中華意識を持っている人は、大陸から来た人と国民党寄りの人。社会現象的に親日映画はヒットするが、反日映画はヒットしない。香港人は日本人が好き。『ヤクルト』と『紙おむつ』が好き。

 

台湾と香港に共通しているのは、中国への嫌悪感。両国政府とも、中国経済によってGDPが上昇していると言う。しかし、若者の暮らしは悪くなっている。中国の金持ちが不動産を投機的に買うため、家賃・不動産が高騰している。中国資本のチェーン店が席捲して安価な食堂などの個人商店が消えゆく運命にある。中国人観光客が喜ぶように見慣れた街並みが変化。両国政府が推進する愛国教育によってこれまで馴染んできた価値観が変化。習近平政権の文化ソフトパワー戦略の一環で中華文化が浸透。この結果、香港、台湾でアイデンティティの見直しが起こり、それが民主化運動に発展した。中国式グローバリズムへの抵抗運動ではないのか」。

 

 

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千駄木庵日乗四月十三日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

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日本の心を学ぶ会のお知らせ

テーマ「愛国維新運動の使命と課題を考える」

 

日本の心を学ぶ会も今回で50回を迎えます。

第一回以来、五年間、国体観、尊皇精神、神道、維新の道統など様々な分野から日本の伝統精神を学んできました。

「三回参加したら正会員、五回の参加で幹部」と言うぐらい緩やかな集まりの勉強会ですが、学んだことを参加者がそれぞれの実践の場で活かす「実践のための勉強会」を目指してきました。

 

「実践の場」が政治運動であれ、仕事や家庭であれ良き日本人として「日本の心」を知ることは必須の教養と言えるでしょう。

そもそも「日本の心」とは日本を日本たらしめている根本的な精神であります。

我が国は過去何度も、国家的危機に遭遇しながらも常にその危機を乗り越え国家の命を再生してきました。

こうした国家を革新し、国難を打開する原動力となったものこそが、現御神日本天皇を君主と仰ぐ共同体精神=日本国体精神即ち「日本の

心」であります。

「日本の心」をもとに国家の革新は大化の改新、建武の中興、明治維新など歴史の中に繰り返し立ち現われております。

占領下においてGHQがおこなった神道指令や「憲法の押しつけ」などはこのような国体精神=「日本の心」を隠蔽し、日本を弱体化させるこ

とを目的としたものであります。

このような日本破壊工作は占領が解除された後も日本の破壊を目指す勢力によって継続して行われており、日本破壊の工作はついに実を結

び始めていると言えます。

私どもはこのような現状認識のもと真の国体精神を回復し真の日本を取り戻すため「日本の心」を学んで参りました。

今回は節目と成る第五十回の勉強会となるため、「実践のための勉強会」に立ち戻り「維新愛国運動の使命と課題」について議論したいと

思います。

みなさんお誘い合わせの上ご参加ください。

 

【日 時】平 成27年4月26日(日)午後600分より

 

【場 所】文京シビックセンター 三階 会議室C

東京都文京区春日1-16-21 

東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1

都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1

JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

「現代日本の危機打開と『尊皇攘夷』の精神」 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

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この告知文は、主催者が作成したものです。

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日本人の言霊信仰について

わが国には、「言事不二」といふ言葉がある。「言葉と事実と一致する、言葉と事実は二つではない一つである」「存在は言葉である」「言葉に出したことは実現する」といふ意味である。

 

豊田國夫氏は、「古代日本人は、言葉に内在する言語精霊が、その霊妙な力によって人の幸不幸をも左右すると考えていた。…彼ら古代人にとって、言葉は、現代のある種の人々が主張するような、単なる媒介、符号物ではなく、もっと人間や事物と切実な関係をもった、生きたものとして感じていたのではなかったか。つまり彼らにとって、言葉は事物と一体をなすものであった」と論じ、柿本人麻呂の歌の表記で、「事」が「言」を意味する歌、「言」が「事」を意味する歌を数多くあげ、混用例が半数であることを指摘した。さらに豊田氏は、「人麻呂の『事表記』の背景的地盤が推測されよう。すなわち混用例半数であるということは、言葉と事柄・事物の融即観において、その密着性が強いということの一つの現象ではなかろうか」(『日本人の言霊思想』)と論じてゐる。

 

萬象・萬物は言葉=神によって成ってゐる即ち言葉が事物の本質であるといふことを古代日本人は直覚してゐた。言霊の力は、天地をも動かすのであるから、「言霊の幸はふ」とは、言葉を唱へると言葉が持ってゐる霊力が動き出し、言葉通りの結果が表れてくるといふことである。日本民族は、理論・理屈としてではなく、言葉の力を大いさ、言葉が事物の本質であるといふことを生活の実感として知ってゐたのである。

 

日本の「言葉」で最も大切な言葉は、天皇の「みことのり」(詔勅)である。「詔を承りては、必ず謹む」精神即ち「承詔必謹」が日本国民の最高絶対の道義精神であり、国家永遠の隆昌の基本である。

 

『御託宣』『神示』は神霊が籠り神威が表白された言葉である。『祝詞』は人間が神への訴へかけた言葉であり、『歌』も人間の魂の他者への訴へである。祝詞にも歌にも霊が込められてゐる。祝詞を唱へ歌を歌ふと、そこに宿る言霊が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言霊の幸はふ」といふことである。日本文藝の起源はここにある。

 

「言霊のさきはふ國」といはれるわが國においては、『祝詞』や『歌』は何よりも大切な神への捧げものとされた。日本文藝の起源は、神への訴へかけである。『やまとうた・和歌』は神聖な文藝であると考へられてゐた。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源である。

 

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。「うた」の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。日本人の言霊信仰が歌を生んだともいへる。

 

折口信夫氏は、「(言霊信仰とは)古くから傳っている言葉の持ってゐる霊力・魂というものを考へてゐるのであり、それが言霊、つまり言語の精霊である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・霊魂があると考へた。それが言霊である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の霊魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる霊魂が働きかけると信じてゐたのである。」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

日本では太古から、天地自然の奥に生きてをられる天地の神に、五穀の豊饒や民の幸福を祈るまつりごとが行はれてゐた。そのまつりごとにおいて祭り主が神憑りの状態で「となへごと」が発した。神憑りの状態から発せられた「となへごと」が度々繰り返された結果、一定の形をとるやうになったのが祝詞である。それが「やまとうた」(和歌)の起源である。

 

祭祀における「となへごと」は「やまとうた」のみならずわが國の文藝全体の起源である。「やまとうた」はまつりごとから発生したのである。日本人の言霊信仰が歌などの日本文藝を生んだといへる。

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千駄木庵日乗四月十二日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理など。

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2015年4月12日 (日)

『ボストン美術館/東京藝術大学 ダブル・インパクト 明治ニッポンの美』展参観記

『ボストン美術館/東京藝術大学 ダブル・インパクト 明治ニッポンの美』展は、

 

「アメリカ、ボストン美術館と東京藝術大学のふたつのコレクションを合わせる“ダブル・インパクト”によって、19世紀後半からはじまる日本と西洋との双方向的な影響関係を再検討しようとする展覧会です。

 

言うまでもなく、開国以来、日本は常に西洋からの衝撃(ウェスタン・インパクト)を受けつつ近代化をはかりました。一方、来日した西洋人たちはニッポンの文化、芸術に驚き、インパクトを受けていました。

 

これまで日本人がいかに西洋から衝撃を受けたかについては多く語られてきたものの、西洋人が日本からどのような衝撃を受けたかについては、いわゆるジャポニスムという範囲でしか語られてきていませんでした。しかもそれは、ほとんどフランスを中心としたヨーロッパ美術に限られた関係にとどまるものでした。もちろん、西洋人一般が日本の浮世絵を賞賛したことは「ジャパニーズ・インパクト(日本からの衝撃)」の象徴的出来事でした。

 

しかし、実際に幕末明治期に日本に訪れた西洋人たちは、驚きのまなざしをもってそこに暮らす日本人と同時代の日本美術とを発見し、紹介していたのです。本展で紹介する東京藝術大学のコレクションはウェスタン・インパクトの象徴、ボストン美術館の近代コレクションはジャパニーズ・インパクトの象徴とみることができるでしょう。

 

本展では、このふたつのコレクションを合わせることによってあらわれる、

「明治ニッポンの美」の歩みを紹介してまいります』(案内書)との趣旨で開催された。

 

ボストン美術館には、明治10年代に相次いで来日したアーネスト・フェノロサやウィリアム・ビゲロー、ボストンに渡った岡倉天心らによって収集された作品を中心に、現在10万点を超える日本美術作品が収蔵されている。東京藝術大学は、明治20年に設置されて以来収集された美術品及び、開校後、歴代の教官たちや卒業生たちが残していった作品が収蔵されている。その中から、今回に展覧会の趣旨に合った作品が展示されていた。

 

高橋由一「花魁(美人)」、橋本雅邦「雪景山水図」、鈴木長吉「水晶置物」、旭玉山「人体骨格」、井上安治「東京名所従吾妻橋水雷火遠望之図」、ヴィンチェンツォ・ラグーザ(イタリア)「日本婦人」、小林永濯「菅原道真天拝山祈祷図」、狩野芳崖「悲母観音」、横山大観「村童観猿翁」、竹内久一「神武天皇立像」、小林清親「冒営口厳寒我軍張露営之図」、山本芳翠「西洋婦人像」、鈴木長吉「水晶置物」、豊原国周「皇后宮御製唱歌」、ヴィンチェンツォ・ラグーザ「日本の大工」などを観る。

 

鈴木長吉「水晶置物」は、台座の力強く緻密な彫刻が素晴らしい。ヴィンチェンツォ・ラグーザ「日本の大工」は、まるで生きているようで、今にも話しかけてくるように思えた。狩野芳崖「悲母観音」は、この美術館で何回も鑑賞したが何時見て感動する。母親の子供への愛が見事に描かれている。横山大観「村童観猿翁」は、初期の作品〈東京美術学校卒業制作〉であるが、子供たちの表情が巧みにかわいらしく描かれている。

 

竹内久一「神武天皇立像」はまことにおおきな御尊像で、明治二十二年の制作。この年に創刊された美術雑誌『国華』第一号で岡倉天心は、「絵画の将来を思ふに…歴史画は國體思想の発達に随いて益々振興すべきものなり」と論じた。この時期の「大元帥陛下御真影」(作者未詳)、小林永濯「天瓊を以て滄海を探るの図」、高橋由一「日本武尊」などが展示されていた。

 

 

明治日本は、近代世界において力強い歩みを遂げたのであるが、美術の世界においても然りであった。欧米諸国において、日本の美術は高く評価された。西洋の影響を受けながら、わが国の美的伝統と融合し、高い美的世界を生み出したと思う。

 

東京藝術大学においてもボストン美術館においても、岡倉天心の大きな貢献をした事がよく分かる。日本近代美術史において岡倉天心はまことに大きな位置を占めていると思う。

 

歴史の勉強にもなり、大変見ごたえのある展覧会であった明治時代は「脱亜入欧」文明開化』の時代であったなどといわれるが決してそうではない。日本の伝統文化文明と西欧の文明文化とを融合させ、さらに高度にした時代であったのである。

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千駄木庵日乗四月十一日

午前は、諸雑務。

午後は、上野公園の東京藝術大学美術館にて開催中の『ボストン美術館/東京藝術大学 ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」展参観。

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帰宅後は、資料の整理。

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2015年4月10日 (金)

「清明心」即ち「あかき心」「清き心」について

 わが國においては、私心をなくして天皇にお仕えすることが日本人の理想の姿として傳えられてきた。天皇に私心なくお仕え申し上げる心を汚れのない「きよらけき心」、暗いところのない「あきらけき心」、別の言葉で言えば、「心の清さ・いさぎよさ」が尊ばれた。それを「清明心」という。

 

 日本人は「あいつは悪人だ」といわれるよりも、「あいつは汚い奴だ」と言われることを嫌がる。

 

 「清明心」は『記紀』の「神代の巻」の天照大神と須佐之男命の「誓約」(うけひ)の条に記されている。

 

 天照大神は須佐之男命にその心の正しく清らかなことを知りたいとおぼし召されて、「然(し)からば汝(みまし)の心の清明(あか)きことは何以(いか)にして知らまし」と仰せになられた。

 

 日本人の倫理・道徳の根本は、「清明心」「正直」「誠」にある。「私」を去り「我」を没することを大切にしている。

 

 「清明心」即ち「あかき心」「清き心」は仏教や儒教が輸入される以前からわが民族のあるべき心とされてきた。その無私の精神・清明心を体現されるお方が天皇であらせられる。それは長い歴史の流れの中で自然につちかわれてきた傳統なのである。天皇が地上における神の御代理即ち現御神であらせられるということは、天皇が無私・無我となって神を祭られる祭祀主であらせられるということである。

 

 この日本民族の傳統的倫理観念の精髄たる「清明心」は、古代においては『宣命』(宣命体で書かれた詔勅)における「明き浄き直き心」、中古においては「もののあはれ」、中世においては「正直」、近世においては「やまとたましひ」として受け継がれてきた。これは別の言葉で言えば、「捨心無我」であり、岡潔氏の言った「日本的情緒」である。忠孝精神とは、天皇と親に真心を尽くしてお仕え申し上げること

 

大君の命(みこと)かしこみ磯に觸(ふ)り海原を渡る父母を置きて

 

 これは『萬葉集』の防人・助丁丈部造人麻呂(すけのよぼろせつかべのみやつこひとまろ)の歌である。

 

 「大君の御命令を謹み体しまして、任務を果たすために、危険な荒磯の間をぬって海原を渡っていきます」といふほどの意である。

 

 天皇への忠義の心と親を思う心を深く切に歌っている。この忠孝精神即ち「君に忠・親に孝」の精神こそが日本人の倫理観の基本である。忠孝精神とは、天皇と親に対し真心を尽くしてお仕え申し上げるということである。

 

 神話時代・萬葉時代からの道統である忠孝精神は、幕末において強く発現し開花した。そして明治維新の原動力になった。

 

 水戸藩士にして幕末勤皇論に大きな影響を与えた會澤正志斎は、その著『新論』において、「君臣之義、父子之親」という二つの徳目を重大視し、あらゆる人間の道はこの二つの徳目の上に立つと論じた。そして肇國以来の皇國の道は忠孝の道にほかない、天祖の神勅も、祭政一致の傳統も、忠孝の道を説いていると述べ、「忠孝ヲ以テ國ヲ建ツ」と論じた。會澤正志斎は「忠孝」を國體の精神の根本としたのである。

 

 江戸後期の尊皇思想の根本は神代以来のわが國の傳統を継承したものであった。わが國の傳統精神は外来の仏教思想や儒教思想を包容摂取してわが國の國體精神・傳統信仰と融合せしめたのである。     

 

 さらに明治の御代になると、明治天皇は、欧化の風、知育偏重の教育を憂いたまい、日本の教育精神・倫理の根本は「忠孝精神にある」との大御心によって『教育勅語』を渙発あそばされた。 『教育勅語』には、「…我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世世厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」と示されている。

 

 親の恩愛を感ずる者が、天皇をお慕いする勤皇のまごころを持つ。親は、子に生命を与えてくださった方である。そしてその生命は溯っては祖先、くだっては子孫へと続いている。生命の連続とは単に肉体と血液の連続ということではない。慈愛の継承であり、心のつながりである。

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千駄木庵日乗四月十日

午前は、諸雑務。

『政治文化情報』脱稿。印刷所に送付。

この後、施設に赴き母に付き添う。

夕刻、湯島にて、長年の同志と懇談。

帰宅後は、書状執筆・資料の整理。

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2015年4月 9日 (木)

この頃詠みし歌

春爛漫桜の花の咲き盛る古き寺院のみ佛の像

 

桜花咲き満ちる庭のみ佛の姿麗しき谷中天王寺

 

巨大なる澁澤榮一の墓仰ぐ春の盛りの谷中霊園

 

屋根に輝く葵の御紋を見上げたり春の盛りの東叡山寛永寺

 

将軍綱吉天璋院篤姫眠りゐる墓所(はかどころ)に春の光うららか

 

花は咲き若者は今を楽しみて宴するなり東京の春

 

春たけなは飛鳥山公園に人満ちて花の下にて宴するなり

 

贈られしお米尊び日の本の國に生まれし幸を思へり

 

老人ホームの食堂に座る人々の七八割は女性なりけり

 

散り敷ける桜の花びら踏みて行く来年もまた咲くを信じて

 

我もまた来年の春は生きてをらむ桜の花は散りそめにけり

 

母と共に『ダンチョネ節』を歌ひたりさみしき歌詞とメロディに哭く

 

ふるさとは千駄木の町今日もまたそこに住みつつ生きてゐるなり

 

懐かしき停留所の名を聞きにつつ都電に揺られる春の夕暮

 

老いてなほ壮(さか)んなる人 戦ひに生きて来たりし力と心

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千駄木庵日乗四月九日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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日本民族の道徳的規範は「尊皇」「敬神」「忠孝」

 人間が共同生活をしていくには倫理・道義がなくてはならない。人間生活には倫理が常に働いている。人間は洋の東西、時の今昔を問わず、人間が道徳的規範にしたがって理想を設定し、それに向かって一歩か一歩進んでいくことが正しき生き方であり生活であると信じている。今日及び将来においてもそのことに変わりはないし変わってはならない。

 

 その道徳的規範とは一体何か。それはわが民族においては古代から今日に至るので綿々と継承されてきた「尊皇」「敬神」「忠孝」という倫理観念である。

 倫理・道徳は世界的に共通する普遍的なものであるが、しかし道徳的規範の現れ方はグローバリゼーションに時代と言われる今日においても、各民族・各文化によって異なる。

 

 わが國の傳統的倫理精神は、日本民族の暮らしの中から自然に生まれてきたものである。日本民族の暮らしとは、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体の農耕生活である。生活の中から生まれた自然な道徳観が尊皇敬神の心なのである。

 

 天皇及び皇室は日本の傳統文化・傳統的倫理精神の体現者・継承者であらせられる。そして御歴代の天皇は常に民を思い、民の幸福を祈られてきた。

 

 ゆえに、日本の傳統的倫理精神・傳統文化の鏡であらせられる。そして、建國以来日本國の祭祀主として君臨してきた天皇及び御皇室を尊崇する心即ち尊皇の精神が、わが國倫理精神の基本である。

 

 それは、特定の聖人や預言者という個人が説いた教義としての倫理ではないのである。これが日本の傳統信仰と儒教やイスラム教やユダヤ教や仏教との決定的な違いである。

 

神人合一が日本人の理想であり祭祀は神人合一の行事 神に真心を込めてお仕え申し上げることが「祭りの心」である。神と人間が心と行動において一体となること即ち神人合一が日本人の理想である。祭りとは神人合一の行事である。

 

 『神社本庁敬神生活綱領』には、「世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと」とある。神と天皇に仕える心即ち自分たちの生活そのものを神の心天皇陛下の大御心を実現していくという生活が、わが國の理想的な倫理観念である。

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千駄木庵日乗四月八日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時半より、南大塚地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が柿本人麻呂などの歌を講義。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年4月 8日 (水)

深谷隆司氏の正論

深谷隆司氏の正論をご紹介します。

 

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深谷隆司の言いたい放題第602

 

 「やっと日本の教科書らしくなった」


 文科省は来年度から中学校で使う教科書の検定結果を公表した。この中で社会科の教科書で初めて竹島、尖閣諸島が日本の領土だと全社が記述した。これが各マスコミで取り上げられ大きな話題になっている。

 私に言わせれば、今まで度々主張してきたことだから、なにをいまさらといった歯がゆさが残る。

 そもそも竹島は古くから魚介類の宝庫として島根県や鳥取県の漁民たちの貴重な漁場であった。1905年には閣議決定で島根県に編入されている。1951年のサンフランシスコ平和条約で日本が放棄する領土の範囲にも入っていない。

 ところが無謀にもこの条約批准、発効直後の1952年、突如、李承晩韓国初代大統領は竹島を含む公海上に海洋主権を宣言し、いわゆる李承晩ラインを設定してしまうのだ。日本人漁民4000人、漁船328隻を拿捕、死者44人も出した。更に武力占拠、灯台設置、警備員を常駐させるなど実効支配を図ってきた。断じて許せない暴挙で、これは明らかな侵略行為なのである。

 日本は当然国際司法裁判所に提訴しようとしたが、審理させるためには両国の同意が必要で、韓国が応じようとしないために何も進展しない。韓国は公式な裁判では勝てないと思っているから応じないのだ。

 尖閣諸島についても同様で、1895年の閣議決定で沖縄県に編入された日本固有の領土だ。周辺海域に石油資源などが埋蔵されている可能性が指摘された1970年代、中国が領有権を主張するようになった。日本が有効支配しているし、歴史的に見て両国の間には領土問題は存在しないのである。

 竹島について韓国民は自国領土と誰もが主張する。それはかの国の教科書で早くから徹底してそう教えて来たからだ。中国も同様だ。

 ようやく遅まきながら中学教科書の全てが「日本の領土」と明記した。これを機会に徹底的の子供たちに日本の領土であること教え、領土を守ることの大切さを教えていかなければならない。             

 早速、韓国は日本大使を呼びつけて、「挑発」として抗議したが、「受け入れられない」と一蹴した。当然のことだ。中国政府からは具体的な抗議は目下のところない。内政干渉には無視が一番だ。

 村山富市氏は「尖閣諸島を日中で共同開発を」と間の抜けたことを言っている。「領土問題は存在しない」が日本の立場、中国の「抗日戦争勝利70周年」に出席したくて媚を売っているのだ。鳩山、菅等、馬鹿な元総理が多いが、皆国民が選んだ連中、情けないでは済まされない。

 近現代史の出来事で自虐的記述が多かったが、これを機会に、公正でバランスのとれた歴史認識を子供たちにしっかり教えたいものである。            

 

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天皇の國家統治の意義

 天皇の國家統治のことを「しらしめす」「きこしめす」と申し上げるのは、天皇が天の下の全てをお知りになる、お聞きになる事、即ち天の下のことをすべて認識され、全てに関係されることである。それは、天皇が鏡の如く「無私」の御存在であるから可能になるのである。天皇が鏡の如く全てを映し出す「無私の御存在」であればこそ、全てを了知され認識され司られることができるのである。天皇國家統治の「みしるし」である三種の神器の一つが「鏡」であるのはそのことをあらはしてゐるのである。天皇は自己を鏡となして一切のものごとを映し出される御存在である。

 

 近代日本の哲學者・西田幾太郎は、「知と愛とは同じである」と言った。知ることと愛することは一体である。愛とは捨身無我である。自分を相手のために捧げるのが愛の極致である。自分を無にしなければ本当に相手を知ることは出来ないし、愛することもできないのである。天皇陛下の國家統治もご自分を無にされて天下萬民を愛されることなのである。それは無私になって神を祭る心と一体である。学問も自分を無にして学ぶ心がなければならない。

 

 天皇が日本国を統治されるということは、決して権力によって支配されるということではない。三潴信吾氏は「帝国憲法第一条の『統治ス』は、政治に限らず、国家・国民の活動の一切にわたっての根源者、総親たらせ給ふの意で、ここでいふ「統治」は権力作用たる『統治権』のことではない。日本古来の伝統的『やまとことば』で云ふ『しろしめす』のことである。」(日本憲法要論)と論じておられる。

 

 それでは「やまとことば」の「しろしめす」(「しらしめす」ともいう)とは一体いかなる意義なのであろうか。「しろしめす」は「知る」の尊敬語である「知らす」にさらに「めす」という敬意を添える語を付けた言葉である。『續日本紀』に収められている文武天皇の宣命には「現御神と大八島國知ろしめす天皇」とある。また『萬葉集』では「御宇天皇代』と書いて「あめのしたしらしめししすめらみことのみよ」と読んでいる。この場合の「知る」とは単に知識を持っているという意ではない。もっと深い精神的意義を持つ。天下の一切のことを認識し把握するというほどの意であろう。

 

 文武天皇の「宣命」には「天津神の御子ながらも、天に坐す神の依さし奉りし随(まにま)に、聞こし看し(め)し来る此の天津日嗣高御座の業と現御神と大八島國知ろしめす倭根子天皇命の授け賜ひ負せ賜ふ…」と示されている。

 

また『萬葉集巻』十八所収の大伴家持の長歌に「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代…」とある。

 

 「しらしめす」即ち<天皇の統治>とは、天津神の御命令で日本に天降って来られて、天津神の御委任で天津神の日の神の霊統を継承される現御神として、天津神の命令のままに天の下の全てを認識され把握されるという信仰的な意義があるのである。天皇の統治は決して権力行為ではない。

 

 天下の一切の物事を「お知りになる」「お聞きになる」ということは、<無私>の境地であられるということであり、天下の一切の物事に対して深い<慈愛の心>を持たれているということである。<無私>と<慈愛>の心が無くては対象を深く認識し把握する事はできない。

 

 先帝昭和天皇陛下が、よく「あっそう」というお言葉をお発しになられたのは、まさに無私と慈愛の心で相手の言う事をお聞きになられお知りになったということである。有難き限りである。

 

 『大日本帝国憲法』におい て「しらしめす」「きこしめす」の漢語表現として「統治」という言葉を用いたのである。そしてこの「統」という言葉は統べる(統一する)という意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)という意である。

 

明治天皇が明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになっている。このお言葉こそまさしく「治める」の本質なのである。無私と慈愛というまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

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千駄木庵日乗四月七日

午前は、諸雑務。

午後二時より、永田町の村上正邦士事務所にて、『日本の司法を正す会い』開催。村上正邦氏がスピーチ。青木理氏(ジャーナリスト)の進行で、足立昌勝関東学院大学名誉教授が取調べの可視化・通信傍受について講演。質疑応答。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2015年4月 7日 (火)

政治家官僚に敬神尊皇の思ひが希薄になったことが今日の政治の混乱の最大原因である

今日のわが国の議会政治は、とてもまともに機能してゐるとは言へない。政党間・政治家同士の醜い権力闘争が繰り返されてゐる。この原因は、わが国の道統である「尊皇精神」「天皇へのかしこみの心」が、政治家にも国民にも官僚にも希薄になってゐるからにほからない。即ち肝心要の「一君萬民の國體」が隠蔽されてゐるのである。これは、『現行占領憲法』にその大きな原因がある。

 

議会政治は、多数決を基本とする。権力闘争や利害の対立を抑制し、道義、理性がその根底になければならない。人間は政治的動物だなどと言って、道義道徳・理性を忘却してはならない。

 

江戸時代中期の不世出の国学者・思想家・詩人賀茂真淵は、「…さて臣たちも神を崇めば、心の内に、きたなき事を隱す事を得ず、すめらぎを恐るれば、みのうえに、あしきふるまひをなしがたし、よりて、此の二つの崇みかしこみを、常わするまじきてふ外に、世の治り、身のとゝのはんことはなきをや」(『賀茂翁遺草』)と説いてゐる。

 

後藤田正晴氏は、「国務大臣などの政治家は天皇の臣下ではない」といふ意識の持ち主であった。後藤田氏は平成十二年十二月五日号の『日本経済新聞』で、中央省庁の再編に関するインタビューに答へて、「まず大臣といふ名前を変へたらどうか。誰の臣下ですか?。行政の長なんだから『長官』でいい」と述べた。

 

これは、天皇を君主と仰ぐ建国以来のわが国國體を否定し、『現行占領憲法』体制下においてもわが国は立憲君主制であるといふ自明の理を否定する許し難い発言である。社民党・共産党・極左分子がこのやうな発言をするのならまだしも、警察庁長官・内閣官房長官・自治大臣・内閣副総理を歴任し、官僚・政治家の頂点、即ち政治権力の頂点に立ったと言っていい人物が、このやうな発言をしたのである。

 

臣下国民とりわけ政治家官僚に敬神尊皇の思ひが希薄になったことが今日の政治の混乱の最大原因であると考へる。

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千駄木庵日乗四月六日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。一緒に歌を歌う。涙が出る。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年4月 6日 (月)

萬葉古代史研究會

四宮正貴が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

日時 四月八日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区南大塚地域文化創造館

東京都豊島区南大塚二-三六-一 ☎〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』。

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

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わが國はアメリカ・東南アジア諸国との同盟を強化すべきである

 

共産支那は建国以来、外敵を作り出すことによって、国家の統一を図り、民衆の不満を押さえ込んできた。冷戦時代は、アメリカ帝国主義・ソ連修正主義であった。今日は、日本である。

 

「反日」が今日の共産支那の国是である。というよりも、「反日」を高揚することによってしか、国家の安定と統一を図ることができないのである。

 

共産支那における八〇年代の改革・開放路線は、わが国からの経済援助や投資によって推進された。その頃は、「過去の歴史問題」を持ち出してわが国を非難攻撃しなかった。しかるに「天安門事件」によって共産主義に対する幻想が崩壊し、共産党政権の虚像が崩れ、共産党一党独裁体制が危機に瀕するようになると、共産党の威信を保つために支那共産政権は国民の不満を外に向けさせるようになり、日本をその標的にしたのである。

 

「外交は華麗に礼装した軍事である」という言葉がある。共産支那もアメリカもこれを着実に実行している。しかし、わが国は戦争直後日本を弱体化する目的で押し付けられた「現行占領憲法」に束縛され、戦うことを禁止され集団的自衛権の行使もできない。つまり「軍事力」を外交面で有効に活用できないのである。そして共産支那や南北朝鮮から侮りを受け、主権と領土を侵害されている。今日の日本の外交とは、譲歩・へつらい・阿り・謝罪・自虐であり、それに裏打ちされた金配りである。

 

共産支那という國は、明確な國家目標・國家戦略を持ち、そのために國力のすべてを投入することができる國である。つまり、今日のわが國とは正反対の國なのである。

 

共産支那は、一九九〇年代以降、「中華民族の偉大な復興」を旗印に「富國強兵」策を通じて、アジアでの覇権確立を狙って蠢いてきた。核開発は五十年前から行っている。海洋進出は三十年前から始まっている。共産支那は、沖縄トラフ(海溝)まで自國の排他的経済水域と主張し、台湾併合を通じて東シナ海を内海化しようとしている。

 

共産支那のアジアにおける覇権確立とわが國の属國化を目論む共産支那を封じ込めるために、わが國はアメリカ・東南アジア諸国との同盟を強化すべきである。共産支那の侵略策謀と外交的恫喝に打ち勝つには、先ず以って過去の歴史問題に対する正しい認識を日本国民一人一人が確立することである。つまり、わが国近代史は決してアジア侵略の歴史ではなかったという歴史の真実を、国民一人一人が共有することである。さらに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、自国の安全と生存を保持しようと決意した」という夢物語危険極まりない幻想に貫かれている「現行占領憲法」を否定しなければならない。

 

支那の國家目標達成のために一番邪魔存在がわが日本なのである。日本は、支那の属國になるか、共産支那の侵略策謀を押さえこむか、二つの道しかない。しかし、共産支那侵略策謀・中華帝國主義を押さえこむ力が日本にあるのか。甚だ心許無い。まずもって、わが國は國防体制をより一層強化しなければならない。

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千駄木庵日乗四月五日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2015年4月 5日 (日)

日本の文化と支那の文化の違ひ

司馬遼太郎氏は「いま台北にいる。…歩道に段差が多く、あやうく転びそうになった。歩道は公道なのだが、どの商店も、自分の店の前だけは適当に高くしている。高さに高低がある。『〝私〟がのさばっていますな』と、冗談をいった。中國文明は偉大だが、古来、〝私〟の文化でありつづけてきた。皇帝も〝私〟であれば大官も〝私〟だったし、庶民もむろんそうだった。〝私〟を壮大な倫理体系にしたのが、儒教であった。孝を最高の倫理とするのはみごとだが、孝は身の安全と家族の平穏ということのみの願望になりやすい。近代中國の父といわれる孫文は、このことをなげいた。色紙をたのまれると、『天下為公』(天下をもって公となす)と書いた。また、その著『三民主義』の冒頭にも、〝中國人は砂だ、にぎってもかたまらない〟といった。〝公〟という粘土質に欠けていることをなげいたのである。」(「風塵抄ー台湾で考えたこと(1)公と私」全集六六)と論じてゐる。

 

支那の権力者は國家さへ私物化した。だから「天下爲公」といふ「標語」を掲げざるを得なかったのである。それは國民党だけではない。今日の「中國共産党」も同じである。毛沢東・朱徳が率いた中共軍の軍規が厳正だったといはれたのは権力掌握以前だけであった。中共の権力掌握後、毛沢東は支那といふ國を私物化し多くの同志・國民を虐殺した。

 

『古事記』の「序文」には、天武天皇の御即位を称へて「清原の大宮にして、昇りて天位に即(つ)きたまひ、道は軒后に軼(す)ぎたまひ、徳(うつくしび)は周王に跨(こ)えたへり」(飛鳥の清原の大宮において、天皇の御位におつきになり、その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさっていました、といふ意)と記されてゐる。日本民族は、天武天皇の御代に支那古代の帝王よりも日本天皇が「道義」においてすぐれてゐるとの自覚を持ってゐたのである。

 

日本人は「無私」を尊ぶ。「公」の体現者であられる天皇に自己を無にして仕へることが日本の道義精神の根本である。「無私」の心をもっとも体現しておられるお方が、祭り主・日本天皇であらせられる。なぜなら「まつり」とは、神に対して私を無くしてまつろひたてまつる行事であるからである。

 

支那などの外國と比較して、日本くらい政治家・官僚の権力の私物化・権力を利用した私益の追求を嫌ふ國はないのではなからうか。「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で實現されるお方であり「道義精神の鏡」であらせられる。

 

支那及び支那人を蔑視してはならない。しかし、支那及び支那文化に対してみっともない劣等感を抱く必要はさらさらないのである。わが國は、支那や朝鮮から多くの文化・文物を輸入した。しかし、その属國となることはなかった。今後の日本もさうであらねばならない。

 

「祭りの精神」が、アジアそして世界に広がれば世界の真の平和が實現する

心配なのは、共産支那の内部崩壊である。それは共産党一党支配といふ政治体制の崩壊であると共に、否、それ以上に、支那人が唯物主義・営利至上主義に侵され、利益の追求のみに狂奔し続けて、自然が破壊され、人々の心が荒廃し、國土は荒廃し、それが大動乱大破壊へと突き進むのではないかといふことである。

 

橘曙覧(幕末の歌人・國学者。越前國(福井県)の人。王政復古を希求。萬葉調の気品ある歌を詠んだ)は次のやうに歌った。

 

利(くぼさ)のみむさぼる國に正しかる日嗣(ひつぎ)のゆゑをしめしたらなむ

 

この歌について折口信夫氏は、「彼の夷狄らは利を貪り、利を營むことにのみ汲々としてゐるが、其故にこそ、王者の興亡が常ならぬのである。正しい皇統の連綿としておはす故を、彼らにしらしめてやるがよいと言ふ…夷狄の、利に敏いことを聞いて、又人に諭したのだ。さう言ふ外國人などとの通交に、わが國が不利益な立場にばかり立ってゐた事を知ってゐたのである。」(『橘曙覧評傳』)と論じてゐる。

 

支那は今や曙覧が言ふ「利のみ貪る國」になり果ててしまった。鄧小平以後の共産支那の基本路線である「社会主義市場經濟」「改革開放」とは、「利を貪る路線」である。環境破壊や貧富の格差を顧みず外資に依存したこの路線はやがて破綻すると見る人が多い。自然の荒廃は人心の荒廃につながるし貧富の差の拡大もまた民衆の心を荒廃せしめる。   

 

祭祀とは、自己を無にして神に合一する行事である。自然と祖靈を神として崇める古代祭祀國家の信仰を祭祀といふ生きた行事で今日においても継承してゐるわが國こそ、荒廃した支那を救済する原理を有してゐるのである。決して中國に対して卑屈になったり自虐的になってはならないのである。「祭りの精神」が、アジアそして世界に広がれば世界の真の平和が實現すると信ずる。

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千駄木庵日乗四月四日

午前は、諸雑務。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。潮匡人氏が「集団的自衛権再考」と題して講演。質疑応答。

この後も施設に赴き、母に付き添う。夕食の介助。

帰宅後は、原稿執筆。

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2015年4月 4日 (土)

徳川齊昭について

徳川齊昭は、徳川光圀の『大日本史』編纂を中心とする「水戸学」の道統を継承し、『弘道館記』(水戸藩藩校の使命と目的を記した文章)によって『後期水戸学』を大成した。『弘道館記』には「宝祚(皇位)之を以って窮まり無く、国体之を以って尊厳、蒼生(人民)之を以って安寧、蛮夷戎狄(外国の蔑称)之以って率服す」と記されてゐる。これぞまさに「尊皇攘夷」の精神である。

 

齊昭は、天保十四年に福井藩主・松平春嶽に対して「治国」についての心構へを記した手紙を送ってゐる。それには「国主(各藩藩主のこと)身持心得方之事、天朝公辺へ忠節を心懸、内は士民撫育之世話、外は夷狄奸賊防禦之手当肝要と為すべく候」と記されてゐる。明治維新の基本精神が語られてゐる。徳川御三家の一つである水戸藩、そして御家門筆頭である福井藩が、明治維新で大きな役割を果たした。

 

さらに徳川齊昭は、嘉永六年七月に幕府に提出した『十条五事建議書』において、「今日彌(いよいよ)打払の方に御決着に相成候得ば、天下の士気十倍いたし、武備は令せずして相整ひ候儀、影響よりも早く之有るべし。左候てこそ、憚りながら征夷の御大任にも叶はせられ、諸国一統武家の名目にも相当致すべく候」と論じた。

 

征夷大将軍とは文字通り、夷狄を征伐する大将軍のことである。外患に毅然として対峙し、祖国を防衛することが第一の使命である。しかるに、井伊直弼の主導する幕閣は、アメリカを怖れ、孝明天皇の「攘夷」の大御心を無視し、勅許を得ずして開国した。征夷大将軍たるの資格を喪失したのである。倒幕運動が活発化したのは当然である。

 

井伊直弼の開国は、德川幕府専制体制維持のためのなりふり構はぬ開国であった。そしてそれに意義を唱へた徳川齊昭などの有力大名をはじめ、草莽の志士までも弾圧し、血の粛清を行った。これに憤激した水戸藩からの脱藩浪士十七名と薩摩藩士一名によって、万延元年三月、井伊直弼に天誅が加へられたのである。これにより徳川幕府はその支配能力が弱体化し、徳川幕藩体制瓦解・明治維新断行の第一歩となった。

 

歴史家の中には、徳川斉昭は、頑迷固陋な攘夷論者と断ずる人があるが、決してさうではない。国を守るためには進んで、外国の文明の利器をとり入れる努力を惜しまなかった。ペリーが二度目に来航した時、徳川将軍に当時最新型だった拳銃を数丁贈った。この拳銃を手に入れた齊昭は、複製を作り家臣に渡した。そして桜田門外の変の際に井伊直弼暗殺に用いられたと言はれる。

 

齊昭が主張し実践した「攘夷」とは、単純な排外ではなく、外国からの侵略を阻止するため祖国防衛意識を高め、軍備を強化するといふことであった。即ち「夷を以て夷を制す」である。

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千駄木庵日乗四月三日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、室内の整理、原稿校正・執筆など。

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2015年4月 3日 (金)

永江太郎日本学協会常務理事による「明治維新を彩る幕末の志士・西郷隆盛」と題する講演の内容

一月二十五日に開催された『第十四回先哲に学ぶ会』における永江太郎日本学協会常務理事による「明治維新を彩る幕末の志士・西郷隆盛」と題する講演の内容は次の通り。

 

「当時の人々が大西郷についてどう語っていたか。松平慶永は『御一新の功は、大久保もとよりなれども、大久保一人の手にては中々成りかたし。衆人の協力とは申し乍ら、御一新の功勞に知仁勇あり。知勇は大久保、智仁は木戸、勇は西郷なり。此三人なくんば如何に三條公・岩倉公の精心あるとも、貫徹せざるべし。西郷の勇断は實に畏るべき事に候。世界中の豪傑の一人のよし。外人皆景慕せりといふ。兵隊の西郷に服するや実に驚くべき也。英雄なり。仁者なり。この西郷を見出せしは、我が朋友島津斉彬也』(『逸事史補』)と書いた。

 

勝海舟は『坂本龍馬は「西郷といふ男は、分からぬ男だ。少し叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。若しも、馬鹿なら大きな馬鹿で、利巧なら大きな利巧だろう」と言ったが、坂本も中中鑑識のある男だった。全く西郷に及ぶことの出来ない點は、その大鑑識と大誠意とであった。己の一言を信じて、唯一人で江戸の地に乗り込む。己だって事を処するに当って、多少の権謀を用ひぬ男でもないが、ただこの西郷の至誠は、己をして、自ら欺くに忍びざらしめた。この時に際して、 (なまじ)ひ、小籌(しょうじゅ)浅略を事とするのは、却って、この人のために膓(はらわた)を見透されるやうな気がしたでな』(『大西郷正傳』に収められた『勝海舟談』)と語った。

 

大久保利通は明治維新成った後の功績が大きく、西郷隆盛は維新成る以前の功績が大きい。兵庫開港延期の時、勝海舟自身が『幕府はもう駄目だ』と西郷に言う。天下の大事を担うのは西郷のような人物。

 

福井藩主の松平春嶽の近習として江戸に出てくる橋本左内に手紙を出す。安政四年開国か鎖国かで大混乱。鎖国独立致すべからざることは識者であれば分かっているはずだ。ペリーの要求を拒めないのも分かっている。しかし幕閣ではこの議論すらできない。橋本左内の見識に最も近いのが島津斉彬。

 

明治維新の参画し断行した人に、松下村塾出身が多い。松下村塾で人間としての生き方、学問の仕方を教わった。安政年間は松陰が活躍。慶應時代は西郷隆盛。西郷は郷中(薩摩藩の武士階級子弟の教育組織)のリーダーになった。大久保利通・村田新八・大山巌・有村次左衛門などがいた。明治維新で薩摩が大きな力を発揮したのは、島津斉彬の指導力とそれを継承した西郷隆盛による。

江戸時代は全てのことは幕閣で決めた。御三家・御三卿も幕政に直接関与できなかった。天皇も自由に動かれることは出来なかった。ペリー来航の時、阿部正弘正弘は島津斉彬に相談、挙国一致内閣を作ろうとした。

 

西郷は、島津久光の命令に反したとして沖永良部島に流された。島津久光は陪臣なので、江戸城内で軽く扱われた。従四位下少将だった。久光は時代の激変についていけなかった。久光は西郷を呼び戻した。第一次長州征伐の後、長州処分の一切を任される。

 

兵庫開港問題で列藩会議を開いた。幕府の統治形態が崩壊。王政復古の下工作をした。山内容堂が建白書を提出。徳川慶喜は、大政奉還しても自分が総理大臣になると思っていた。しかし、納地・納官、内大臣の地位返上を求められ、鳥羽伏見の戦いになった。江戸でも攪乱工作が行われた。薩摩藩邸が幕府側よって焼き打ちされた。

 

小御所会議で西郷は岩倉具視に『短刀一本あれば済む』と言った。差し違えろという意味である。それを聞いた後藤象二郎は藩主・山内容堂に報告。西郷の脅しで容堂は何も言えなくなった。

 

西郷は武士の鏡。武士道とは日本精神なり。一言で言えば『滅私奉公』生活は質素そのもの。西郷は二千石の賞典禄を貰ってもポケットに入れないで、私学校を作った。島津斉彬は物凄いケチ。しかし機械工場として集成館建設など大きなことに大きな金を使った」。

             〇

千駄木庵主人曰く。この記録は小生のメモと記憶によるものですので、言うまでもなく文責は小生にあります。

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千駄木庵日乗四月二日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2015年4月 2日 (木)

『米國及び英國に對する宣戦の詔書』渙発と國民の感激

 『米國及び英國に對する宣戦の詔書』渙発が、いかに國民に感激を與へたかを示す文章及び歌を記させていただく。

 

保田與重郎氏「對米宣戦の大詔を拝し、皇國の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した。…神命は常に國際謀略を霧消せしめ、萬民草莽の苦衷は必ず大御心のしらしめすところ、まことに神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである」(『日記』)

 

河上徹太郎氏「遂に光栄ある秋が来た。…これまでの政府の抜かりない方策と手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて國民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。いまや一億國民の生まれ更る日である。…私は今本当に心からカラットした気持ちでゐられるのが嬉しくて仕様がないのだ。…混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『光栄ある日』)

 

青野季吉氏「米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚へる。何といふ巨きな構想、構図であらう。」(『経堂襍記』)

 

折口信夫氏「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺えた。けれども、その日直に、十首近く口にのって作物が出來、その後も、日を隔てゝ幾首づゝ、何だか撞きあげるものゝやうに、出來たのである。」(『「天地に宣る」追ひ書き』)

そして折口氏などの歌人は次のやうな歌を詠んだ。

 

折口信夫氏

暁の霜にひゞきて 大みこゑ 聞えしことを 世語りにせむ

天地に響きとほりて 甚大(おぎろ)なる 神の御言(みこと)を くだし給へり

 

尾上柴舟氏

大勅(おほみこと)捧げまつればおのづから心のふるへ手に及ぶかも

 

佐々木信綱氏

あなさやけ今日のさやけさ國つ敵(あだ)うてとし宣(の)らす大詔(おほみこと)くだる

 

土岐善麿氏

撃てと宣す大詔(おほのことのり)遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸に空に

 

影山正治氏

いざ行きて今こそ撃てと待ち待ちし神のみことは天降りたり

そ根芽つなぎ撃ちてし止まむ皇軍(みいくさ)の起ちのきほひはさやかなるかも

 

中河幹子氏

戦へば勝つ皇軍やいにしへゆしか思へども涙あふるる

 

中村武彦氏は、戦争直後獄中で「今こそ撃てと詔(みことのり)/承けて起ちたる暁の/あの一億の感激を/敗けたからとて忘られよか/そうだ敗けても國護る/大和魂われにあり」と歌った。

 

まさに昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできないと思ふ。況や「間違ってゐた」などと言ふのはあまりにも僭越であり、靖國の英霊も、そして銃後でアメリカ軍の爆撃などによって斃れた無辜の國民も、ソ連に抑留され彼の地で非業の最期を遂げた多くの同胞も、さらに大東亜戦争に協力して戦ひ戦死された多くの東亜同胞も、犬死だったといふことになる。

 

そのやうな歴史観では日本民族の誇り・自尊心を取り戻すことは出来ない。そればかりではなく、上御一人の『開戦の詔書』『終戦の詔書』を否定することとなる。

 

大東亜戦争を侵略戦争として断罪し、他國に謝罪することによって國際協力を果たさうとするのか、あるいは大東亜戦争の果たした役割と意味に誇りを持ち、歴史の継承から世界に貢献しやうとするかは、同じ世界への寄與でも全く違ってくる。

 

欧米列強からの独立・解放が日本の努力とアジア諸民族の奮闘によって實現した今日、アジアにおいて大東亜共栄圏に近いものが生み出されてつつある。『大東亜共同宣言』に謳はれた理想は今こそ完全に實現されなければならない。問題は、日本國民の多くがいまだに敗戦後遺症から脱却できないがゆゑに亡國の危機にさらされてゐることである。これを正す事が今日最も大切であると信ずる。

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千駄木庵日乗四月一日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆。

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2015年4月 1日 (水)

「戦後」はいったい何時まで続くのでせうか

「戦後」はいったい何時まで続くのでせうか。敗戦以来すでに七十年も経過してゐます。戦後とは敗戦後といふことであり、屈辱的な時代といふ事です。しかも、日本は侵略戦争を行なったといふ歴史観が『憲法』の『前文』にも記され、且つ、閣議決定の『戦後五十周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話』にも記されてゐます。即ち、「日本は侵略戦争を行なった悪い国だった」といふのが七十年間にわたってわが国の『国是』になってゐるのです。

 

「戦後」といふ言葉はさういう意味で何となく陰鬱な響きを持ってゐます。戦争のことを忘却しろとか反省するなと言ってゐるのではありません。近代日本の歩みには多くの反省すべき点があったことは事実です。しかし、大東亜戦争は決して日本の一方的な侵略ではなかったこと、ソ連の謀略にはめられ、アメリカによって追ひ込まれ、挑発されて開始せざるを得なかったことを正しく認識すべきです。

 

今日わが國は、「人命尊重」「平和」といふ言葉が声高に叫ばれてゐます。しかし現実には「戦前」の日本にはあり得なかったような残虐なる殺人など凶悪事件が日常茶飯事になってゐます。道義の頽廃の根本原因は日本が「戦後」から抜け出せないところにあると思ひます。

 

私たち日本人は、「敗戦以来何年たった」といふ事を意識することはもう止めにして、大東亜戦争の歴史を正しく回顧し、民族の誇りを取り戻すべきだと考へます。

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千駄木庵日乗三月三十一日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き母に付き添う。文京区役所から母の介護度認定確認調査のために職員が来る。

帰宅後は、『月刊日本』連載中の「萬葉集」解釈原稿執筆・脱稿・送付。資料の整理など。

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