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2014年12月11日 (木)

日本人の他界観

 まだ見たこともなく、また行ったこともない世界を憧れるのは人間の自然な心である。日本人は古くから、この世とは別の世界即ち「他界」への憧れ・ロマンを強く持っていた。日本人の他界へのロマン精神は、神話の世界からのものであり、外来思想の影響を受けながら発達し、日本人の生活と宗教の根本にあるものなのである。さらに、世の中の変革を求める心もまだ見ぬ世界即ち他界への憧れと言っていい。       

 

 死後の世界は、まだ行ったこともなく見たこともないが、やがては必ず行くことになる「他界」である。従って人が死んだことを「他界した」というのである。それは平安時代の歌人・在原業平が

 

「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(最後には行かなくてはならない死出の旅路だとは思っていたが、それが昨日今日と差し迫っているとは思わなかった、というほどの意)

 

と詠んでいる通りである。そして死んだ人は草葉の蔭から生きている人を見守ったり祟ったりするのである。ということは、死後の世界と現世は遮断していないで交流し連動しているということである。それは『古事記』に記されている伊耶那岐命と伊耶那美命の黄泉国(よみのくに) の神話を拝すれば明らかである。

日本人は基本的に、人間は肉体は死んでも魂はあの世で生き続けるという信仰を持っている。死後の世界は、次第に理想化・光明化されていき、神々の住みたもう世界と信じられるようになった。なぜなら、自分の親や愛する人などが、あの世に行って苦しんでいるなどと考えることに耐えられないからである。

 

 古代日本人は生活全般が信仰心を基本としていた。天地万物に神や霊が宿っており、森羅万象は神や霊の為せるわざであると信じていた。だから「他界」にももちろん神や霊が生きていると信じた。しかし、反面、穢れた他界も想定された。そこには鬼や妖怪や魑魅魍魎が住んでいると信じられた。

 

 すばらしい聖なる世界・清らかな他界は高天原と呼ばれ、穢れた他界・恐ろしき他界は夜見の国・根の国と呼ばれた。これが後に仏教の輪廻転生の倫理観と結合し、西方極楽浄土及び地獄の思想が多くの日本人に信じられるようになったのである。

 

 春秋二回のお彼岸は今日仏教行事のように思われているが、本来的には日本人の他界信仰・祖霊信仰から生まれた日本固有行事なのである。春と秋の昼と夜の長さが同じ日に「あの世」から「この世」へ祖先の霊が訪ねてくると信じてきたのである。「彼岸」とは向こう岸という意味であり、日本人の他界(よその世界・まだ行くことのできぬ世界)観念とつながる。

  

 「他界」の事を、古代日本人は、「常世」(とこよ)・「妣(はは)の国」・「ひなの国」・「夜見(よみ)の国」などと呼んだ。

 

 「常世」とは、明るい永遠の生命を保つことのできる理想世界のことである。「とこ」とは永遠とか絶対とか不変とかいう意味であり、「よ」は世であり齢でもある。不変にして老いず死なない世ということである。逆に暗い世界を「常夜」(とこよ)と言った。これは今で言う地獄ということであろう。

 

 「妣の国」とは、母のいる故郷のことである。故郷を遠く離れたものにとって、そこは憧れの対象であり、やがては帰って行きたいところである。望郷の念を持つ人は故郷のことを「母国」という。なぜか「父国」とは言わない。母を慕う気持ちがそうされたのであろう。母が「産み」の本源であるからであろうか。

 

 「ひな国」の「ひな」とは、山や海の彼方の遠い異郷・聖なる世界のことである。「ひなびた」というと都から遠い世界即ち田舎らしい感じがするという意味である。お雛(ひな)様とは、遠い国から訪れた男女一対の高貴な霊というのがそのもともとの意味である。庶民にとって皇室は遠くて高貴な憧れの対象だったのである。

 

 「夜見の国」とは、死んだ人が行く世界であり、黄泉国とも書く。穢れた死の世界とされている。夜見の国から帰ることを「甦り(よみがえり)」という。

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