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2014年11月 7日 (金)

平忠度における風雅・みやびの心と武の精神

 

平忠度

 

「ささ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山櫻かな」(ささ波やは、枕詞。志賀(琵琶湖西南海岸)の古き都の跡は荒れ果てたけれど、山櫻は昔のままに咲いてゐるなあ)

 

 

平忠度(たいらのただのり)は平安末期の武将。歌人。天養元年(一一四四)伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。清盛の弟。薩摩守。藤原俊成に師事して和歌をよくした。源頼朝討伐の富士川の戦ひ、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦ひ等に出陣。寿永三年二月七日、一ノ谷の戦ひで源氏方の岡部忠澄に討たれた。享年四十一歳。

 

「故郷花といへる心をよみ侍りける」と題された歌。この場合の「故郷」とは、古き都のこと。天智天皇が造営された大津の都は「壬申の乱」で滅亡し荒れてしまったが、日本の美の象徴である山櫻は滅びないで今も咲き盛ってゐるといふことを歌ってゐる。平家の滅亡と大津の都の滅亡とを連想させてゐる美しくも悲しい歌である。

 

『千載和歌集』(平安末期の勅撰和歌集。二十巻。藤原俊成撰)撰進を知った平忠度は、平家西走の途中、京都に引き返して歌道の師・藤原俊成に託した詠草の中の一首である。忠度は朝敵とされたため『千載集』には「詠み人知らず」としてこの一首が収められた。『平家物語』巻七「忠度都落」にもその間の事情が記されてゐる。

 

萬葉の大歌人・柿本人麻呂の「ささ波の 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ」、高市黒人の「ささ波の 國つ御神の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも」を継承してゐる歌。

 

和歌は先人の美感覚を継承しつつ新しき美を創造して人々の感動を呼ぶ。わが國においては傳統の継承と新しき創造は一体であった。忠度といふ武人がいかに和歌を愛し、日本の道統に対してすぐれた感覚を持ってゐたかを証しする歌である。

 

平家および忠度自身の滅亡の運命と眼前の山櫻の美を対照させてゐる。即ち、栄枯盛衰・盛者必滅の世の定めと変化せざる自然とを対照させてゐるのである。

 

日本人は、櫻の花を理屈なしに美しいと感じた。それは、櫻は未練がましく咲き続ける花でも醜く萎れていく花でもなく、見事に咲いて潔く散っていく花だからであらう。まさに武人の精神と行動の潔さと相似なのである。

 

朝敵とされた平家の武人も、勅撰和歌集に自分の歌が選ばれることを切に望んだ。わが國柄の素晴らしさは實にここにある。日本文藝史は皇室と共にあった。文藝に限らずわが國の文化は皇室を中心にして継承され創造されてきた。

 

また、我が國の美の道統である風雅・みやびの心は武と一体であった。我が國文化の素晴らしさもまたここにある。命懸けの行動を行なふ人こそ真の美の創造者たり得るのである。これを「剣魂歌心」といふ。

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