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2014年11月10日 (月)

日本國體は『現行占領憲法』の國家観とは基本的に相容れない

現在施行されてゐる『日本國憲法』といふ名称の『占領憲法』は、十七世紀、十八世紀の欧米の市民革命の基礎理論であった「社会契約論」に立脚してゐる。國の生成・成り立ちが欧米とは全く異なり、市民革命も経験してゐないわが日本国が、西洋国家思想である「社会契約論」を基礎にした憲法を持ってゐるのである。

 

日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、日本國は多数の個人が契約を結んで作った國ではない。さらに、征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。日本國は古代において自然に「生まれた」国である。

 

ところが日本に憲法を押し付けたアメリカは、一七七六年七月四日に独立を宣言して人為的に作られた國である。「生まれる」と「作られる」とでは絶対的な違ひがある。「生む」は日本伝統信仰の観念であり、「作る」はキリスト教の観念である。伊耶那岐命伊耶那美命は日本國土をお生みになったのであり、キリスト教の神(ゴッド)は人間を作ったのである。キリスト教の神はなぜか國家は作らなかった。

 

國家は神によって造られた人間が集まって文字通り人為的に作られたと言ふのが西洋の國家観である。日本の国家観と西洋国家観の違いは実にここから発する。

 

日本国は、数多くの「個としての人間」が寄り集まって人為的に契約を締結して作った権力機構・政治形態としての契約国家(これを「国家法人説」と言ひ換へてもいいと思ふ)とはその本質が全く異なるのである。

 

「国家法人説」とは、国家を法的な主体としての法人と考へる理論で、いはゆる「天皇機関説」の基礎をなす理論とされてゐる。また「法人」とは「自然人以外で法律上の権利義務の主体となることができるもの。一定の目的の下に結合した人の集団あるいは財産についてその資格が認められている集団」といはれてゐる。国家とは、社団法人や財団法人のやうに多くの人々が一定の目的のために契約を結び人為的に造られたものだといふのが「契約国家論」「国家法人説」なのである。天皇中心の信仰共同体としての日本は断じてそのやうな存在ではない。「国家法人説」を日本国に当て嵌めることはできない。

 

日本天皇の國家統治の本質は、権力・武力による國家・國民支配ではない。天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが國の建國以来の國體であり歴史である。

 

日本國は信仰共同體であり國民が契約を結んで人工的に作った國ではない。そして祭祀主である天皇は國民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。精神的一體関係にある。これを「君民一體の國柄」といふ。これが日本肇國以来の國柄であり國體である。

 

つまり、日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした国民主権論や西洋近代の成文法、そしてその申し子であるところの『現行占領憲法』の国家観とは基本的に相容れないのである。

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