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2014年10月28日 (火)

「中國」は「禮」を全く忘却し喪失した國となり日本國に「禮」は生きてゐる

「中國」は「禮文化の國」といはれる。「禮」とは、社会の秩序を保ち、人間相互の交際を全うするための礼儀作法・制度・儀式・文物などのことである。「禮儀」といふ言葉がある通り、「禮」とは抽象観念ではなく、實際の行動・動作である。

 

宇野精一先生は、「(『論語』顔淵篇に「克己復禮を仁となす」とある・註)克己とは己の私欲に打ち克つことであり、複禮とは禮――倫理規範の意味における行為の標準――に立ちかえってこれを實践するという意味である。仁は孔子の根本教義であるから、これを實践する方法たる克己復禮は、正しく孔子の實践道徳の根本方法と考えてよかろう。…要するに孔子において、倫理の原理としては仁、實践としては礼が最高の標準であった。」(『儒教思想』)と論じておられる。

 

ところが、今日の「中國」及び「中國人」ほど「禮を失する行為」を繰り返し、私欲を最優先させてゐる國及び國民はない。

 

貝塚茂樹氏は、「徳川時代、元禄の頃から『論語読みの論語知らず』という諺が出来た。書物の上で理論を理解しているが、實行が少しもともなわない偽学者をそしって、いかに『論語』の存在が一般町人の世界に身近かったかを示すことばである。」(『世界の名著3』所収・「孔子と孟子」)と論じ、林泰輔氏(註・漢学者。東京高等師範学校教授)の、「中國及び朝鮮・安南(ベトナム)においては『論語』を挙業(文官選抜)の試験に用いたるがゆえに、盛は則ち盛なりと雖も、名利のためにこれを読みこれを誦し、あるいはその粗を咀()いて、その精を棄つるの憾みあり。わが邦人のこれを読むは、然らず。その外皮を棄ててその神髄を取る、ゆえに國本培養の効を奏することを得たるなり」(『論語年譜』)といふ論説を引用してゐる。

 

和辻哲郎氏は、「儒教を生みまた儒教を奉じているはずのシナの歴史が、儒教の道理に反する事蹟を数限りなく含んでいる…賤しい身分のものが君を殺して、帝王になる。夷狄としていやしめている異國人に征服せられてその夷狄に服従する。そういう事蹟はいくらでもある。即ちシナの歴史は儒教の理が空理にすぎぬことを實証しているのである。」(『尊王思想とその傳統』)と論じてゐる。

「中國」は、『論語』の國・儒教の國であるが、権力者も民衆も、『論語』に書かれた道義精神とはかけ離れた生活を営んできた。

 

日本は、神道といふ傳統信仰を基本に置きながら、外来思想・宗教を自己のものとして来た。本家本元の「中國」で「儒教倫理」は實行されず、官僚・知識人の教養にすぎなくなり、さらには権力者の体制維持のイデオロギーと化した。わが國においては、國民全体が『論語』に示されてゐるやうな倫理精神を自然に實行してゐる。

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