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2014年10月 1日 (水)

自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切

東日本大震災における大地震・大津波・原発事故、そして今回の木曽御嶽山噴火などを見て、和辻哲郎氏が、その著『風土』において次のように論じているのを思い出した。

 

「我々は自然の合理的な性格と非合理的な性格とのいずれが著しく目立っているかによって芸術に著しい相違が現われて来たのを見る。…ヨーロッパにおいては、温順にして秩序正しい自然はただ『征服さるべきもの』、そこにおいて法則の見いださるべきものとして取り扱われた。……自然が最も重んぜらるる時でも、たかだか神の造ったものとして、あるいは神もしくは理性がそこに現われたものとしてである。しかるに東洋においては、自然はその非合理性のゆえに、決して征服され能わざるもの、そこに無限の深みの存するものとして取り扱われた。人はそこに慰めを求め救いを求める。特に東洋的なる詩人芭蕉は、単に美的にのみならず倫理的に、さらに宗教的に自然に対したが、そこに知的興味は全然示さなかった。自然と共に生きることが彼の関心事であり、従って自然観照は宗教的な解脱を目ざした。かかることは東洋の自然の端倪すべからざる豊富さをまって初めてあり得たことであろう」。

 

ヨーロッパの自然は、比較的温順にして秩序正しいので、神が創造した自然は、神の創造物の中で最も高い地位にある人間によって支配され改造され利用されてよいという思想が生まれた。これがヨーロッパの自然観である。こうした自然観が、自然を改造し利用して科学技術を発達させたが、自然破壊につながった。

 

日本をはじめとした東洋の自然は比較的厳しいので、人間は自然と共生し、自然を畏怖すべきものとして接してきた。そして自然を「神」として拝み、信仰の対象にした。

 

東日本大地震と大津波、御岳山噴火は、まさに自然の非合理の極であり、人間が自然を征服するどころか、自然が人間を征服することを実感させた。

 

われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどという傲慢な考え方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。ただし、自然に宿る神々には、和やかな神もおられれば、荒ぶる神をおられるのである。

 

津田左右吉氏は「萬葉歌人の自然に対する態度についていふべきことは、自然を我が友として見、無情の生物を人と同じく有情のものとすることである。」(『文学に現はれたる我が国民思想の研究』)と論じている。

 

「有情非情同時成道、山川草木国土悉皆成仏」といふ「天台本覚思想」は、まさに古代日本の信仰精神を継承し、仏教的に展開した思想である。

 

古代日本人は、人生も自然であり、人の生活は自然の中にあるものであって、人間は自然の摂理と共に生きるべきと考えた。だから西洋のように「自然を征服する」とか「自然を改造する」などという考え方は本来なかった。

 

「山びこ」(山の谷などで起こる声や音の反響)のことをこだま即ち「木霊」「木魂」といふ。山野の樹木に霊が宿るという信仰から出た言葉である。まさに日本人は、山野に霊が宿っていると思い、深山幽谷は古代人の眼から見れば、精霊の世界だったのである。

 

こうした信仰精神を今日に蘇らせることが自然保護の最高の方策である。法令や罰則の強化は必要ないとは言わないが、それ以前に、自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切である。それには、古代日本人の自然観が表白されている日本神話の世界や『萬葉集』の自然詠の精神に回帰することが大切である。

 

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