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2014年9月 3日 (水)

古代日本人の霊魂観・死生観

「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隱りなむ」

 

 大津皇子が、持統天皇より死を賜った時の辞世の御歌である。     

 

 「雲隱りなむ」は、死んでしまふことだなあといふ意。雲は人の霊魂を運ぶといふ信仰があった。「雲に隠れる」とは死ぬこと。人間の霊魂は死んだら雲になると信じた。

 

 日本武尊は亡くなる時、「はしけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も」(懐かしいわが家の方から雲が立ち上って来るよ)と歌はれた。すでに自分の魂は自分の家の方には帰ってゐると歌ったのである。

 

 柿本人麻呂が、溺れ死にした出雲娘子が火葬されたときの挽歌に、「山のまゆ 出雲の兒らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく」といふのがある。火葬のときの煙を見て、出雲娘子は霧になって天に昇っていったと歌ったのである。萬葉集初期の頃に、火葬が始まった。

 

 雲に隠れるといふのは、自分の生命は死んだら雲の中に隠れて永遠の生命を保つといふ信仰なのである。一種のアニミズムであり、自然の中に霊魂・精霊が宿るといふ信仰である。この世からいなくなるのは幽(かく)り世に行くことなのである。

 

 大津皇子の御歌の通釈は、「(ももづたふ)磐余の池に鳴いてゐる鴨を今日を限りの見納めとして死んで行くのであるなあ」といふ意。

 

 『懐風藻』には、大津皇子の辞世の漢詩として「金烏臨西舎、鼓声催短命、泉路無賓主、今夕誰家向」(金烏西舎に臨(のぞ)み、鼓声短命をうながす、泉路(せんろ)賓主(ひんしゅ)無し、この夕べ誰か家にか向かふ。太陽は西に傾き、命を刻む鼓の音、出迎へる人の無しといふ、この夕べあの世は何処こにあるのか、といふ意)が収められてゐる。

 

 大津皇子が処刑されに行く途上で、鴨の番(つがひ)を見て見納めとするといふの御歌。磐余の池に泳いでゐる鴨の番ひを見て見納めとするといふことは、愛する妻とご自分との別れを歌ってをられるのではないかといふ推測も生まれる。全生涯をこの一瞬に凝縮させてゐるといへる。   

                            

 鳥は人間の魂を運ぶ鳥とされた。肉体を自由に離れる霊魂を象徴する動物である。日本武尊は薨去されたあと白鳥となって故郷の大和へ帰られる。それが人間の精神的自由の象徴ともなった。

 

 舒明天皇の国見の御製に「國原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ」と歌はれてゐる。煙が立ちかまめが立つといふのは、国土の生命力が活発に活動してゐることを言ってゐる。

 

 鴨といふ水鳥を「見る」といふことは、その鳥の持ってゐる生命力を自分のものにしたいなあといふ心があるといふことである。即ち、処刑される自分が今日を限りの見納めとして鳴く水鳥を見てその生命力を自分の身に付けて永遠の生命としたいといふ切なる願望を歌ったのである。                           

 

 「見る」とは、単に視覚的の見るといふだけではない。天皇の「国見」も、単に国土の景色を視覚的に眺めるといふことではなく、国土の豊饒を祝福し祈るといふ意義がある。「見る」ことによって生命力が感染し自分の生命力が強化するといふ深い信仰心が込められてゐる。「見る」とはお互ひの魂の結合を感じるといふ意味も込められる。

 

 柿本人麻呂の旅の歌に「天ざかる夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ戀ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ」がある。これも単に大和の景色が見えるといふのではなく、人麻呂の故郷である懐かしい大和の国の明石海峡から見えたなあといふ大和の国と人麻呂との魂的一体感・結合感を歌ったのである。

 

 鴨の姿は毎年見慣れてゐる。しかしもうすぐ黄泉路へ行く大津皇子にとって鴨を見ることは格別の感慨を抱かせたのである。

 

 有間皇子(孝徳天皇の皇子。謀反の罪で処刑)の辞世の御歌は「磐白の 濱松が枝を 引き結び まさきくあらば またかへり見む」である。やはり自分が処刑されずに無事であったら、またこの浜松の枝を見やうといふ意である。   

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