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2014年9月24日 (水)

和歌は、何ゆへ定型・韻律に則って歌はれるのか

「五・七・五・七・七」といふ和歌における定型は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられたといへる。これは「五・七調」あるいは「七・五調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるといふことである。

 

『萬葉集』の九十五%が、短歌(五・七・五・七・七)である。短歌形式を古代日本人は、自分たちの抒情の文藝形式として獲得した。『記紀』『萬葉』以来今日まで千数百年にわたって、短歌形式が日本人の生活の中に生きてきて断絶がなかったといふ事實が非常に重要である。それだけ、「五・七・五・七・七」の短歌形式には魅力があり、日本人の心を表現する形式として非常に適していたといふことになる。

 

和歌は、何ゆへ定型・韻律に則って歌はれるのか。それは日本人の生活が常にある一定の規則・リズムに則ってゐるからであらう。日本の四季は規則正しく変化する。したがって農業を基本としてきた我が國民の生活も規則正しいものとなってゐる。わが國においては四季の変化と農耕生活とが調和してをり、毎年一定の「型」が繰り返されてゐるといへる。規則正しい四季の変化と農耕を基本とする規則正しい生活が、定型詩である和歌が生んだといふことができる。

 

和歌は、人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であるから、規則正しい生活の中から、自然にある声調を生み、「五・七・五・七・七」の定型を生み出したのである。

 

田谷鋭氏は、短歌とは何かを論じて、「()短歌は日本古来からの定型詩で、その形式はわれわれに与えられたもの──民族の約束──として存在し、ほとんど黄金形式と言っていい完璧さを持っている。()短歌は意味と韻律の融合から成り立っていて、その持つ意味や韻律は無数の変化とその組み合わせから成り立っている。」(『短歌とは』・「短歌」昭和五十六年一月号所収)と論じてゐる。

 

中河与一氏は、「大體ものに規格を与へるということは常に全體的意志があるのであって、三十一字を決定したといふこと自體に、古代人の聡明な民族的理由をわれわれは讀まねばならぬのである。…それは初めから意図したものではなく、自然に民族の直感がさぐりあてたものといふべきである。かくて三十一字形式といふものは古代人の発明した實に見事な、藝術における全體的意図をもった形式となったのである。三十一字といふ一つの形式によることによって、民族を自然に結んだのであるが、その定着が何によってゐるかは誰にもわからない。」 (『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

阿部正路氏は、「『平家物語』にあらわれた長歌は、七・五調を基調とした短歌の影響を受けながら発生したものであろう…夭折者の無念の思いは、こうした歌によって、こんにちもなお人々の心を動かしてやまないのである。その心をさそうのが、五音あるいは七音を基調とする律文學だったのである。…(四註・それは)言葉の長さの組み合わせではなく《しらべ》の組み合わせなのであって、それゆえにこそ《歌》なのである。…現行の『日本國憲法』の第八十二条の条文…美事に、五・七・五・七・七の五句七音の短歌なのである。…きわめて散文的な憲法の条文に、五句三十一音の韻律がそのまま重なり合っているという事實。この事實こそが、日本の言葉の一特色を典型的に指し示しているということができる。…短歌は、日本人の精神の最深部に常に確固として存在しつづけており、決して日本人と切り離すことのできない文學であり、精神領域であることを知る。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。

 

折口信夫氏は、「日本人のもっている文學といふものには、常に典型といふものがあり…日本では、型を重んじてゐる。…歌舞伎芝居の型を見ますと、型を守って今の役者がしてゐるといふのは、その型を創始した役者より劣っているといふことではない。…技術をなぞって來たために、そこに傑れた技術が生れて來た…日本の短歌と演劇とは一つに言へないほど非常な力量が撥揮せられた。…典型をなぞってゆくといふことによって、更に大きな文學が生れて來る。」(『與謝野寛論』)と論じてゐる。

 

「型」を大切にするのは日本人の特性である。歌舞伎などの演劇の世界をはじめとして茶道・歌道・書道などにおいて型の継承が、非常に大切なものとされる。武道もしかりである。「型」を継承することは、単に旧態依然としたものを墨守するといふのではなく、新しい創造をともなふのである。典型をなぞっていくことによって新たなる進歩発展があるといふところに和歌の面白さがある。これは和歌のみならず學問においてもいへる。「學ぶ」の語源は「まねぶ」であるといふ。先達・師匠の真似をすることが「學ぶ」の原点である。

 

正岡子規に、「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」といふ歌がある。「花瓶にさしてある藤の花房が短いので、畳の上にとどかないでゐるなあ」といふ意味である。これは韻律を踏み定型になってゐるから文藝作品としての価値が生まれるのである。また、子規が死の床にあって詠んだ歌といふことだから感動を呼ぶのである。歌にはかういふ不思議さがある。

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