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2014年9月30日 (火)

この頃詠みし歌

初秋の夜のまんまる月は大きかな ビルの上にぞ卵黄の如し

 

あくせくと世を過ごしゐる我の目に 空の半月清く美し

 

鬱蒼と繁りたる木々の枝を落とし 秋の青空がすっきりと見ゆ

 

猛暑終りにわかに秋が来りける わが街角に祭礼の幟

 

秋が来て涼やかな風にはためける 根津神社祭礼の幟親しも

 

機嫌良く話しゐし母 爪切ると申し述べれば怒りすさまじ

 

頑として爪切ることを拒みゐる母は何に怯ゆるならむ

 

大声でひとりごと言ふが癖になり 掃除しながら馬鹿野郎と叫ぶ

 

両関と言ふ名の酒はうまきかな 湯島天神下の古き酒房で

 

パソコンといふものが現れ ものを書くといふ言の葉の使ぴ難しも

 

ついにして欠かせぬものとなりにける老眼鏡は父の遺品ぞ

 

わが父が冷たき体となりゆける彼の日彼の時忘るることなし

 

入り行けば朱色の神殿鎮まれる根津の宮居の夕つ方かな

 

久しぶりに来たりし渋谷常盤松 常陸宮御殿の緑うるはし

 

今日もまた母のみ顔を見てうれし明るく元気で過ごしたまへば

 

老いし母のやさしき笑顔のいとしさよ 会ふ度に胸が熱くなるなり

 

訪ね行きしマンションの一室のあるじ殿 自信ありげにもの言ひたまふ

 

心通はぬ人との会話終へし後 そそくさとその場を離れ来にけり

 

屋上より眺めわたせば谷中墓地上野の山の緑目にしむ(朝倉彫塑館)

 

動かざる猫がたむろするこの館 朝倉文夫の住まひゐし所()

 

晴れし日曜多くの人が歩みゐる谷中の町は今盛りなり

 

高校時代のはりきり乙女は還暦を過ぎてもはりきり生きて頼もし

 

のぼり行く九段の坂に 灯台の光ほのぼのと灯りてゐたり

 

雨の降る夜の道歩み行く先は燗酒うまき酒場なりけり

 

秋の夜の酒はうましとしみじみと思ひつつ呑む黒龍といふ酒

 

夜の酒場それぞれの人生を持つ人ら それぞれに盃(さかづき)を傾けてゐる

 

初秋の夜 憲法の事を論議するこのひと時ぞ楽しかりける

 

佳き友と酒酌み交はし語らへる神保町の秋の夜かな

 

自然との共生といふ言葉を反芻し 御岳山噴火のニュース見てをり

 

若き日にご来光拝みし御嶽山 噴煙あげるをテレビにて見る

 

「お山は晴天六根清浄」と唱へつつ登りし御嶽 噴火続けり

 

バスを待ち見上げる空に雲浮かび晴れ晴れとして秋深み行く

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千駄木庵日乗九月二十九日

午前は、諸雑務。

昼、知人と懇談。内外の情勢について意見交換。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

夕刻、お茶の水にて、『伝統と革新』誌編集実務担当者の方と打ち合わせ。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2014年9月29日 (月)

今日における「脱亜論」とは「脱支那論」であり、「大アジア主義」とは「中華帝国主義打倒」である。

本日行われた『日本の心を学会』における小生の講演でもっとも言いたかったことは次のことである。

                ◎

國史を省みるとわが國が支那大陸に深入りするとろくなことがなったことは事実である。これまでの歴史で、日本が大陸に深く進出して成功したためしはない。亡國の危機に至る事さへあった。特に昭和前期の日本は、軍事的・政治的に大陸に深入りし、ソ連・中共の謀略に引っかかり、泥沼の戦ひとなって日米戦争にまで進み敗北した。さらに戦後日本は、「日中國交回復」以後、経済的に深入りして金と技術を支那に投入し、共産支那を軍事大國にしてしまった。その結果、かへってわが國の安全と独立が脅かされてゐる。

 

日本近代には、欧米列強のアジア侵略植民地支配を打破するために、アジア諸國・諸民族が連帯し、アジアを解放しやうといふ「大アジア主義」といふ思想があった。この思想の根源となってゐるのは『大西郷遺訓』の「文明とは道の普(あまね)く行はるるを言へるものにして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の西洋を評する所を聞くに、何を文明と言ひ、何を野蛮と言ふや、少しも了解するを得ず。真に文明ならば、未開の國に対しは、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、然らずして残忍酷薄を事とし、己れを利するは野蛮なりと言ふべし」といふ思想である。

 

明治維新は、アジアを植民地化せんとしてゐた西欧列強に抗して祖國の独立を守るための大変革であった。維新に成功した日本が、欧米列強による植民地支配に呻吟するアジア諸國・諸民族を解放しようといふ思想が「大アジア主義」である。この思想は頭山満などによって継承され実践された。

 

頭山満をはじめわが國の維新運動指導者は、インドのビハリ・ボース、支那の孫文、朝鮮の金玉均などを支援し、インド、支那、朝鮮の独立と近代國家建設に協力した。福沢諭吉も、当初は金玉均などの改革派を支援した。福沢諭吉の『脱亜論』は、朝鮮の守旧派が、福沢が支援した金玉均などの改革派を弾圧し、無残に粛清した事への絶望と怒りがその根底にある。

今日の支那・朝鮮の國内情勢、支那によるわが國などアジア諸國に対する悪行を見ると、福沢諭吉の「脱亜論」における激語も理解できる。福沢の「欧化主義」「文明論」は、「西洋文明」の東漸即ち欧米列強のアジア侵略に対する抵抗であった。

 

「脱亜論」と「大アジア主義」とは相対立する思想であるとされてきたが、西欧列強のアジア進出から如何にして祖國の独立を守るかといふ根本姿勢は共通する。

 

頭山満の令孫である頭山統一氏は、福沢諭吉の『帝室論』と『尊王論』を一本にまとめて、昭和六十二年に島津書房より刊行された『日本皇室論』の「解説」において次のやうに論じた。「『西洋事情』『学問のすすめ』『文明論の概略』は、西郷南洲の愛読書だったことは、よく知られているし、西郷が鹿児島私学校の子弟を多数、慶応義塾に留学させていたことも西南戦争直前の慶応義塾の学籍簿から、はっきりと知られる。同様に、明治大帝を追って夫人とともに殉死したその一事で、合理第一主義の先生とは、まったく対極に位置する乃木大将が、『帝室論、尊王論』の精読者であった事実は興味深い。乃木大将は。時事新報が明治四十四年二月三日に発行した『帝室論、尊王論』を発売と同時に求め、二月六日には読了している。(学習院図書館蔵、乃木院長記念図書)大正三年、学習院輔仁会編の乃木院長記念録に載せられた、大森金五郎(当時、学習院教授)の記述から一部引用する。院長の曰く『福沢は拝金宗の人とのみ思ひしに、かかる考も持ち居たるなど。これその一世に尊崇せられたる所以なり。其の所論を見るに往々嫌になる比喩も無きにあらねど、全般に於て論旨徹底逼(せま)らず激せず、綽綽として余裕あり、説き起し、説き去る所、其の人格の程を想見すべし』と。大将自身が、先生のことを、思想的対極にある人物として偏見を持って見ていたことが分かるし、その論を読んで始めて先生の思想に対する理解と敬服の念を覚え、部下、学生の一読を求めたことが知られて興味深い」と。

西郷隆盛・頭山満といふ維新の道統を継承し、且つ、大アジア主義の実践者であった人々と「脱亜論」を唱へた福沢諭吉とは対極にあると思はれたが、実際は、相共鳴するところがあったのである。

 

「脱亜論」は、日本を西欧化し近代化を成し遂げて、独立を守るといふ思想である。これを「夷を以て夷を制す」(「夷」とは西洋の事で、西洋文明を取り入れ日本を近代化して西洋からの侵略を制する)と言ふ。「大アジア主義」は、アジア各國各民族が団結連帯協力して残虐酷薄なる西欧列強の侵略を制するといふ思想である。

 

今日唯今においては、「脱亜論」と「大アジア主義」のどちらの考へ方も正しい。今日、「道徳さえ地を拂ふて殘刻不廉恥を極め」(「脱亜論」)、アジアを「残忍酷薄」「野蛮」(「大西郷遺訓」)に侵略し支配せんとしてゐる國は、欧米にあらずして共産支那である。そして韓國はその属國に成り果てようとしてゐる。かかる「亜細亜東方の悪友を謝絶する」べきである。そして、他のアジア諸國およびアメリカと同盟関係を深めて、中華帝國主義のアジア侵略の野望を撃ち砕くべきである。これが今日における「脱亜論」と言ふよりも「脱支那論」であり「大アジア主義」ある。

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千駄木庵日乗九月二十八日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆及び今日の講演の準備。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇代表が挨拶。小生が、「大アジア主義と脱亜論、その現代的意義」と題して講演。そして瀬戸弘幸氏が「親韓派から嫌韓派へ、その時代背景と原因」と題して講演。活発なる質疑応答と討論が行われた。

帰宅後は、資料の整理など。

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2014年9月28日 (日)

「第四十四回・日本の心を学ぶ会」

}本日午後六時より、下記の会合が開催されますのでご案内申し上げます。

             ◎

第四十四回・日本の心を学ぶ会

 

「大アジア主義」と「中華帝国主義」を考える

 

大アジア主義とは、西欧列強の侵略にアジア諸国が連携して対抗しようとする思想的潮流を言います。

日本においてアジアの独立運動の志士たちを、身を削って支援したのは頭山満をはじめとする在野の勢力でした。

韓国の金玉均、朴詠孝、中国の孫文、インドのビバリ・ボース、チャンドラボース、その他フィリピン、ベトナムなどの志士たちを頭山翁らは時の権力に抗いながら支援を続けました。

かつての日本も西欧列強の植民地化の危機にあり、アジアの諸民族の苦しみは決して他人ごとではなかったのです。

明治維新は欧米列強によるアジア侵略の危機に抗して国家の独立を守ろうとする決意と行動によって実現したが故に、侵略と植民地支配に苦しめられているアジア諸民族へ日本人が深い同情と連帯意識を感じるのは必然といえます。「大アジア主義」は明治維新の理想の延長線上にあったのです。

頭山翁らいわゆる右翼と呼ばれた人々がアジア独立の志士たちを支援したのもこのような思想的背景があってのことでした。

孫文は「日本の明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は第二の明治維新である」といい、「大アジア主義」と題された講演の中で、日本は西欧の「覇道文化の鷹犬」ではなく、「東洋王道の干城」になるように呼びかけました。

今日、アジアで覇道精神を実践し、軍事的・政治的・経済的拡張と侵略を行っているのは日本ではなく共産支那です。さらに、五族共和どころか共産支那国内の諸民族を抑圧しているのは共産支那です。

わが国の尖閣と沖縄を狙い、チベット、ウイグルはもとより南シナ海ではフィリピンと摩擦を起こし、ついにベトナム漁船を体当たりで沈没させる事態にまでその侵略性は増しております。

そして、共産中国の侵略に直面する国々から日本への期待が高まっています。

日本は再びアジアとの連帯を要求されているといえます。

今回の勉強会ではアジアに「中華帝国主義」が猛威を振るっている今日、先人達がめざした、「大アジア主義」について考えたいと思います。

 

【日 時】平成26928日(日)午後600分より

 

【会 場】文京区民センター2-B会議室

東京都文京区本郷

-15-14 

地下鉄春日駅 下車1分(大江戸線、三田線)

後楽園下車3分(丸の内線、南

北線)JR(水道橋)

 

【演 題】 

第一部 調整中

講師:瀨戸弘幸先生 BLOG日本よ何処へ

 

第二部 大アジア主義と脱亜論、その現代的意義 

講師:四宮正貴先生 四宮政治文化研究所代表 

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

この案内文は主催者が作成したものです。

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立憲主義と「現行占領憲法」  

本日行われた『憲法懇話会』における小生の報告内容は次の通りです。

                  ◎

『世界大百科事典』には「りっけんしゅぎ【立憲主義 constitutionalism】 政治権力の恣意的支配に対抗し,権力を制限しようとする原理をさす。1789年のフランス人権宣言16条〈権利の保障が確保されず,権力の分立が定められていないすべての社会は,憲法を有しない〉は,その簡潔で端的な定式化として知られている」とある。

 

小林節氏は、「立憲主義は、人間の本質に根ざした真理です。つまり、権力は必ず堕落する。なぜなら権力というのは、抽象的に存在するのではなくて、本来的に不完全な生身の人間が預かるからなんです。つまり政治家と公務員が、個人の能力を超えた国家権力なるものを預かって堕落してしまうということです。歴史上、完全な人間は一人もいない。不完全だから、必ず堕落するんです。権力者の地位に着くと、自分に「よきにはからえ」となる。だからこそ憲法をつくって権力を管理しよう、そういう仕組みになっているんです」。(「この人に聞きたい」)と論じている。

 

「立憲主義とは、「政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠するという考え方であるそうだが、その立てるべき憲法が問題である。似非憲法・占領憲法を肯定しそれを立てなければそれに制限されなければならないというのは全く亡国への道を歩む、まさに憲法護って國滅ぶである。立憲主義を根本的に破砕するには、無効論が正しい。

 

憲法は「不磨の大典」と言われるが、「不磨」であるべきなのは、「國體法」である。「政体法」は必要に応じて改正されるべきである。すなわち、天皇を君主と仰ぐ國體は絶対に変革されてはならない。しかし、政体は民の幸福のためになるのならどんどん変革すべきである。

 

今日、「現行憲法」の「三原理」が「不磨の大典」のように論じられている。近年各方面から出された「改憲草案」はそのほとんどが「現行憲法」の「三原理」を継承している。

しかし、「現行憲法」の「主権在民論」こそ、日本の國體を隠蔽し破壊する元凶である。「現行憲法」の「平和主義」こそ、日本の国防体制確立を阻害し日本国をして他国の属国たらしめる元凶である。「現行憲法」の道義精神不在の「人権論」こそ、国民の頽廃の元凶である。「現行憲法三原理」の否定なくして「憲法改正」にも「自主憲法制定」にもならない。

 

法治国家の国民である以上、法は守らねばならない。しかし、今日の日本は成文法の根幹たる「憲法」が正統性を失っているのである。現代日本の混迷と堕落と危機の根本原因の一つはここにある。

 

「現行占領憲法」は制定当初から正統性がなかったのである。それは、「現行憲法」が帝国憲法を改正したものだなどという自体が欺瞞だからである。天皇大権が占領軍の隷属の下にあった占領期間中の改憲は「摂政を置くの間之を変更することを得ず」という帝国憲法の条項に明確に違反しているのである。

 

終戦後六十年以上を経過して、愈々益々終戦直後の、戦勝国によるわが國の伝統破壊・弱体化政策を原因とする様々な問題が噴出してきている。しかもそれは、わが国存立の根幹をも揺るがしかねない事態となっている。

 

現行占領憲法は、日本を永久の弱體化しておくために戦勝國=アメリカ占領軍が日本に押しつけた憲法である。今日における日本の変革とは、現行憲法を破棄し、正しき憲法を回復することなのである。現行占領憲法は一刻も早く破棄し、日本國の建國以来の國柄へ回帰し、現代の混迷を打開しなければならない。

 

こんな憲法を守らねばならないと言うのが「立憲主義」ならそんな『立憲主義』は頭から否定されるべきである。

 

「西洋成文憲法は権力に対する制限規範である。権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。イングランド最悪の王と言われるジョン王と諸侯との間で結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』という原則=「法は王権に優越する」という法治主義を確立した」とされる。

 

日本天皇の国家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。神聖なる権威による統治である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の國體であり歴史である。また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが國における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどという事は絶対にあり得ない。また、わが國の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。

 

「現行占領憲法」は、その法思想・理念もアメリカの押し付けであるから、「マグナ・カルタ」を起源とする西洋成文憲法思想に貫かれている。日本天皇は、権力を濫用して国民を苦しめるジョン王などの西洋専制君主とは全くその本質を異にする。「現行憲法」は、わが國體とは相容れない。日本国と全く国の成り立ち・国柄・歴史が異なる西洋の憲法思想をわが國の憲法思想にしてはならない。

 

天皇を祭り主と仰ぐ日本伝統信仰は、わが國の存立の基本である。これを否定するような如何なる法律も國家破壊の元凶としてこれを破棄しなければならない。ところが戦後日本において戦勝國によって押しつけられた現行占領憲法は、君主と人民とは相対立する存在であり國家とは國民同士が契約して成立するものであると考える西洋法思想・西洋國家観に貫かれており、日本國體の根幹を正しく規定していない。むしろ現行憲法は國體破壊もしくは隠蔽の元凶になっている。「護憲」の名のもとに数々の國體破壊もしくは隠蔽が行われている。

 

 三潴信吾氏は、「法思想上には、不文憲法主義と成文憲法主義とがある。…(成文憲法主義は仼)ローマ法思想の流れを汲み、君主(統治者)と人民(被統治者)との間、又は各人相互の間の不信、性悪観に基づくものである…近代のヨーロッパに於ける成文憲法の制定も、マグナ・カルタ以来の歴史が示す如く、専制君主と人民との間の不信感に発した、人権保障の約束証文に由来するものであって、これは権力國家観への移行の段階に於いて現はれたものである。」「憲法の基盤となる立國法とは、國體法とも称されるが、不文憲法として、成文憲法のある場合にも、必ずその基礎を成すものである。…立國法はその國の立國と同時に、その成立事實と不可分に存立するものであって、立國の精神的または道徳的理想を根幹として、その國の最も基本的な伝統的秩序を樹立するものである。」「憲法はその國の統治権力作用の拠って立つべき立國の理想目的に抵触したりそれを支へる人類普遍の原理を侵すことはできない。」(日本憲法要論)と論じておられる。

 

 わが日本は國家の本質と君主たる天皇の御本質が建國以来、信仰的に厳然と確立している。これを法律的に言えば、不文法によって定まっているということであろう。故に成文憲法でそれを変革することはできないし、成文憲法は不文憲法(立國の基本)に反する規定をしてはならない。西洋から輸入した近代法思想に基づく成文憲法によってこの立國の基本を覆したり破壊してはならない。

 

 つまり、天皇及び皇室そしてそれを中心とする日本國體は憲法などの世俗的な法律を超越しており、憲法などの法律は、皇室にかかわることに干渉することはできないのである。

 冒頭に記したように、日本國は信仰共同体であり國民が契約を結んで人工的に作った國ではない。そして祭祀主である天皇は、國民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。こうした日本の基本的國柄は成文憲法が制定される以前即ち明治初期以前から確立している。

 信仰共同体日本においては成文憲法は「第二の規定」である。西洋の契約思想や人間不信を基盤とした成文法に神話の時代に発生し悠久の歴史を有する日本國體を規定すること自体不自然なことなのかも知れない。

 西洋の國々の君主は人民を征服し武力と権力によってこれを支配服従せしめていた存在であった。そして君主と人民は相対立存在であった。だから、主権が君主にあるとか人民にあるとかという君主と人民の対立概念が出て来るのである。こういう日本に全くなじまない西洋概念で日本國體を規定すること自体無理なのである。

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千駄木庵日乗九月二十七日

午前は、諸雑務。

午後は、本日行われる『憲法懇話会』における報告の準備。

この後、施設に赴き、母と共に過ごす。

午後六時より、神田学士会館にて『憲法懇話会』開催。村松伸治日本文化大学教授が司会。高乗正臣平成国際大学副学長、高乗智之高岡法科大学准教授そして小生が「立憲主義」をテーマに報告。活発な質疑応答。討論が行われた。

終了後、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、明日行われる『日本に心を学会』における講演の準備。

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2014年9月27日 (土)

大東亜戦争は、決してわが国による侵略戦争ではなく、わが国の自存・自衛のための戦いだった

満洲事変は、日露戦争の結果の正当な条約による満洲におけるわが国の合法的権益を守り、居留民保護を主目的とし、当時混乱していた満洲の安定を図るための自衛権の範囲内の武力による解決であった。そもそも、満洲は元来が満洲民族の土地であり、漢民族の土地ではない。それは、中華民国建国の革命であった辛亥革命のスローガンが、また「滅満興漢」「反清復明」であったことによって明白である。日本が満洲国を煮て食おうと焼いて食おうと、日本が支那を侵略した事にはならない。

 

しかし、日本は満州を煮て食ったわけでもないし焼いて食ったわけでもない。満洲国建国は「五族協和」「王道楽土」の理想国家建設を目指したものであった。事実、満洲建国は、満洲の民衆に安定と幸福をもたらした。

 

昭和十二年七月七日の支那事変の原因は、西安事件後、蒋介石政権が共産主義勢力と提携し反日運動を開始したことにある。この背景には、ソ連・中共による謀略があったことはいうまでもない。支那事変の発端は、蘆溝橋における共産主義者の挑発と謀略によるわが軍への攻撃である。わが国には、戦争計画など全くなかった。わが国は支那事変解決に努力したが、米英そしてソ連・中国共産党の策謀によって泥沼の戦いに陥ってしまった。

 

米英の対日制裁(特に石油と鉄鋼の禁輸はわが国の生存そのものに対する重大な脅威となった)で追い込まれたわが国は、自存・自衛・資源確保のために南方に進出した。掘り下げて歴史的に回顧すれば、日米開戦の根本原因は、実にアメリカの東太平洋及びアジア大陸への侵略・膨脹政策及びソ連・中共の謀略にあった。

 

アメリカの歴史家・ベアードは、「日本はルーズベルト大統領の巧妙なる秘密工作により、戦争に追い込まれたのである。大統領は、開戦一年二ヵ月前の一九四〇年十月、既に日米開戦の不可避を知っていた」と多くの資料に基づいて論述している。           

 

ルーズベルト大統領は、わが国による真珠湾攻撃の五ヵ月前の昭和十六年七月十八日に、米爆撃機を使ってわが国の工業地帯を先制奇襲爆撃する計画にゴー・サインを出し、自ら署名していたという。

 

また、昭和十六年十一月二十六日、アメリカ政府は最後通牒『ハル・ノート』を突きつけた。その内容の要点は、①支那大陸とフランス領インドシナからの日本軍の即時全面撤退②蒋介石政権以外の政権を否認すること③日独伊三国同盟を死文化すること-など十項目である。

 

日清・日露両戦役、第一次世界大戦で得た支那大陸における日本の合法的権益(条約に基づく租借地や租界)を一切認めない、日本軍の仏印進駐はヴィシー政権との条約に基づくのだがそれを認めない、南京の汪兆銘政権を認めてはならないという、それに加えて三国同盟を破棄せよと迫ったのである。当時の国際常識からいったら無茶苦茶な無理難題というほかはない。それはパール判事が、「モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも米合衆国に戈をもって立ち上がったであろう」と評したほどの無理な要求であった。

 

『ハルノート』は、ソ連工作員・パブロフから直接指示されたソ連のスパイ=ハリー・ホワイト米財務長官が六月に起草したものであったことが判明した。(米特殊機関「VENONA資料」)一方、そのホワイトに対日強硬策を工作したソ連側の当事者パブロフは、ソ連崩壊後に回顧録を執筆しその謀略の内容を明らかにした。

 

アメリカの歴史こそまさに帝国主義の歴史・侵略の歴史であった。十八世紀にイギリスから十三州で独立したアメリカ合衆国は、フロンティア精神を発揮して西部開拓を行い、インディアンを駆逐し、メキシコから領土を奪い取り、西海岸に到達し、ハワイを併合し、グアム、フィリッピンを植民地化したのはまさに侵略・帝国主義以外のなにものでもない。幕末のペリー来航は、支那大陸への中継港確保が主目的だったが、あわよくば日本の植民地化を狙ったものでもあった。

 

フィリッピン植民地化後、支那大陸への野望を募らせたアメリカの前に立ちはだかる国は日本しかなかった。日本を押さえ込むことがアメリカの目的だったのである。

 

このように、日米開戦は、まさに、アメリカ・ルーズベルト政権の挑発によるものなのである。それはルーズベルト政権がソ連に踊らされただけでなく、アメリカのアジア進攻という強い意志によるのである。その証拠は、大東亜戦争の日本降伏の調印式が行われた戦艦「ミズーリ」の艦橋にペリー来航時の米国国旗が翻っていたことである。

 

大東亜戦争において、東南アジアが戦場になったが、決してわが国が東南アジアをその地域を侵略し領土拡大を狙ったわけではない。東南アジアを植民地支配していた米英蘭という西欧列強と戦ったのである。米英蘭などの西欧列強は、それまでアジアの資源を独占していたが、わが国の大東亜戦争によって、アジア諸国はことごとく独立を獲得した。

 

いわゆる「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行問題」も政治的作為であり、虚構であることは、歴史家の調査及び種々の文献によって明白である。

 

そもそも、「侵略」とは、無法に独立主権国家の支配下にある領土等に軍事力で侵入して奪い取り、そのまま長期にわたってこれを占領して主権を侵害するする状態をいう。国際法上の戦争行為・行動や戦争中における一時的占領行為を意味するものではない。

 

大東亜戦争においてわが国が軍事進攻した地域は、清朝崩壊後多数、政権・軍閥が並立して、統一された独立主権国家が存在していなかった支那大陸と、欧米列強の植民地だったアジア地域であった。支那事変におけるわが軍の支那大陸進攻、大東亜戦争におけるハワイ急襲、マレー上陸・シンガポール攻略、フィリッピン・香港・蘭印・ビルマへの進軍などは、すべて戦争手段たる一時的作戦・戦闘行為であって、断じて侵略ではない。

 

極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)を創設したマッカーサーですら、一九五一年五月、米上院の軍事外交合同委員会の公聴会で、「日本が第二次大戦に赴いた目的はその殆どが安全保障のためであった」と述べ、侵略ではなかったと証言した。

 

極東国際軍事裁判の裁判長を勤めたウエップもバーガミニーという人の著書の序文で、「米国も英国も日本が一九四一年に置かれたような状況に置かれれば、戦争に訴えたかもしれない」と書いている。

 

大東亜戦争は、決してわが国による侵略戦争ではなく、わが国の自存・自衛のための戦いだったのであり、かつ、アジア解放戦争であったのである。欧米列強こそ、アジア侵略の張本人であったのだ。

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千駄木庵日乗九月二十六日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

午後六時半より、北の丸公園の日本武道館にて開催された『進撃の阪神巨人ロックコンサート!』鑑賞。ロックコンサートを鑑賞するのは生まれて初めてのことなり。

帰途、同志と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2014年9月26日 (金)

『田母神としお出版記念パーティー』における登壇者の発言内容

本日行われた『田母神としお出版記念パーティー』における登壇者の発言内容は次の通り。

 

石原慎太郎氏「白人の世界支配を終わらせたのは日本人。多くの日本人の犠牲の上で、何十億の人間が解放された。有色人種を殺した穢い薄人から有色人種を解放したのは日本。私が今一番やりたいことは、支那と戦争して勝つこと。チベットが侵略されている。日本の支那の属国にしてはならない。若き日にエジプトのナセル大統領に会った時、『我々が独立戦争に勝ったのは大東亜戦争のお蔭』と言われた。西村・田母神の二人のタッグマッチが出来たのは素晴らしい」。

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平沼赳夫氏「今までの保守では駄目。真の保守を作る。歴史伝統に基本を置き改革すべき事はしっかり改革する」。

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藤井孝男氏「太陽の党を残しておいてよかった」。


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西村眞悟氏「太陽が昇らねば日本の未来はない。平沼先生の指揮下で、田母神・西村が知性と本能を発揮し野性的にやる。自衛隊を国軍にして支那に打ち勝つ。戦後から脱却する」。

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田母神俊雄氏「中国はしばらくは尖閣を取ることはできない。これからもそういう状態を維持しなければならない」。

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                   ◎

報道によると、太陽の党の主要政策は、「(1)憲法廃棄と自主憲法制定(2)国軍の創設、拉致被害者の救出(3)真の歴史観主張と日本の名誉回復(4)家族の復活、移民受け入れ反対、外国人参政権反対(5)原発再稼働、消費税10%凍結、相続税廃止」である。

 

真の意味の「保守・改革」を目指す政党即ち「真の維新」を目指す政党が誕生したことを喜びたい。そして石原・平沼の両氏らと連帯して日本の自主独立・平成維新実現のために邁進してもらいたい。

 

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2014年9月25日 (木)

千駄木庵日乗九月二十五日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母と共に過ごす。母は明るく元気なり。

午後六時半より、元赤坂の明治記念館にて、『田母神しとお出版記念パーティ』開催。多くの人々が集まった。実質的に「太陽の党」結成祝賀会であった。同志多数と懇談。

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帰宅後も、原稿執筆の準備。

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2014年9月24日 (水)

七月二十八日に行われた東京財団フォーラム「中露接近と今後の国際情勢」における登壇者の発言

畔蒜泰助氏(ロシア担当・東京財団研究員)「ロシアが東方シフトを取り始めたのはウクライナ危機より以前。アジア太平洋地域に多角化する戦略。その中でウクライナ危機が起こった。東方シフトの第一のパートナーはガス購買力が大きい中国。しかし過度の中国への経済依存はリスクと考えている。政治的依存に発展しかねない。ウクライナ危機で欧米との関係悪化。東支那海で初めて共同軍事演習が行われた。第二次大戦戦勝七十年を共同で祝うことに合意。中ロ接近は、ロシアにアメリカに対するデモンストレーションの意図があった。ウクライナ危機はロシアの東方シフトを加速化している。しかし中国のみに依存するわけではない。新華社の質問に対して、経済協力のみについてコメントし、戦勝祝賀についてコメントなし。日本との関係を悪化させる発言を避けた。日本の共同通信の質問に対し、『歴史を正しく検証することは必要だか、このことが日露関係の障害となることはない』と答えた。日本の対ロ制裁は非常にソフト。それに対するオバマ政権の日本への風圧は強くなっている。マレイシア航空機撃墜にロシアがダイレクトに関与した証拠なしとアメリカ情報筋は言っている。マレイシア航空機撃墜の後、欧州のドイツでさえロシア制裁に前向きになりつつある。金融制裁に並ぶ形の経済制裁を欧州はロシアに課していく。日本も同じような様々の制裁をかけるべしという圧力がアメリカから加わる。ロシアが頼るべき国は中国しかないという状況が生まれてくる。ロシアは欧米並みの民主国家と言われることに疑問符が付く。うまくデモクラシーをマネージすることで国内の安定を図るのがロシア的民主主義」。

 

小原凡司氏(中国担当東京財団研究員)「中ロ接近の最大の要因は米国。米中戦略対話は中国にとって成果はあった。中国はアメリカに対して対立的共存。中国は『太平洋は二つの大国が共存する広さがある』と言い出した。アメリカといくら対立しても、アメリカは中国に武力行使はしないという約束を取り付けたい。これが中国の言う新型大国関係・戦略的敵対関係。中国は三月の末、習近平が『日中関係の直接的改善は難しい』と言って米国へ接近した。米中でアジア太平洋の安全政策をやって行くことにしたい。米中の考え方は根本的に違う。アメリカは中國の言う新型大国関係の議論にそのまま乗るわけではない。中国は米中戦争を避ける。中国はロシアに接近を図る。中ロ間に不信感が相当にある。ウクライナ危機が大国間のバランスを壊したと中国は思ってイライラした。中国は核兵器開発を進めている」。

 

佐々木良昭氏(中東担当東京財団上席研究員)「ウクライナの前哨戦としてシリア内戦があった。アメリカは戦争のパターンを変えた。ベトナム型の白兵戦はやらなくなった。金融戦争・情報戦争をやりだした。シリアはシーア派の国としてイラクが援助。シリアは地中海に面した軍港を持っている国。アメリカはロシアが自由に使える軍港をつぶしてしまおうとしている。アメリカ軍はロシアの咽喉元に匕首を突きつける。クリミア半島を抑えたい。オデッサの港はアメリカの軍港として活用する。五分五分の勝負。ロシアの黒海における活動能力を低下させることは半分成功」。

 

鶴岡路人氏(ヨーロッパ担当東京財団研究員)「中国の抬頭に対するロシアの懸念が高まっている。中ロには対立と協力の経過がある。ヨーロッパはロシアとの関係を考えるうえで中国ファクターは大きくはない。力によって現状を変更することをいとわない国として中ロは同じカテゴリーとして理解されてきている。中東・欧州諸国での中国のプレゼンスが拡大していることをロシアは快く思っていない」。

 

益田哲夫氏(東南アジア担当東京財団研究員)「ロシアのクリミア併合を中国はどう分析し判断しているか。中国は自国の領有権の争いのなかでどう利用するのか」。

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千駄木庵日乗九月二十四日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理など。

午後四時半より、赤坂の日本財団ビルにて、「東京財団フォーラム・『好き嫌いと経済連携』-アジアにおける対米・対中感情と経済連携の行方」開催。ブルース・ストークス(ビュー・リサーチセンター国際経済世論調査部門ディレクター)が講演。質疑応答。

帰宅後は、原稿執筆など。

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『政治文化情報』平成二十六年十月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十六年十月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。
 

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

 

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十六年十月号(平成二十六年九月二十日発行)の内容

〈皇都の一隅より〉

高岡の旅―『萬葉集』にかかはる旧蹟を探訪

 

放生津八幡宮・「越中國守館址」

 

「越中國守館址」・勝興寺

 

越中一之宮気多神社

二上山

 

越中高岡の旅で詠みし歌 

 

越中における大伴家持について

 

大伴家持が越中時代に詠んだ歌

 

國守としての切實な雨乞ひの歌

 

和歌史上において最も美しいと評価される歌

 

千駄木庵日乗

菅沼光弘氏「慰安婦問題は大変深刻。解決できない。日本が強くなり、韓國が日本に頼らねばならない状況を作り出すこと。韓國が日本を信頼するしかない状況を作り出す以外にない」

 

頭山興助氏「金玉均は孫文などと共にアジア革命の先駆者。玄洋社に孫文を案内したのも金玉均」

 

坪内隆彦氏「アジア主義には文明論的意味もある。精神重視・家族主義・自然との共存というアジア的傳統の共有がアジア主義の中にある」

 

犬塚博英氏「集団的自衛権行使容認に北朝鮮が反対しているのは、それが有効な手段だからだ。悠長な神學論争をしている時ではない」

 

阿形充規氏「韓國の人は日本で一番怖いのはヤクザと右翼。韓國の人とひざを交えて話をすると共通点あり」

 

藤井厳喜氏「日本が憲法を改正し核武装すればすべてが解決する」

 

ジェラルド・カーチス氏「中韓の発展に日本は貢献した。しかるに日本が攻撃されているパラドックスをどう考えるか」

 

川口順子氏「日米同盟を強固にすることに尽きる。日本とアメリカが一緒になってアジア太平洋の平和を守り繁栄を維持すべし。日本の経済力を強くする。アベノミックスを成功させる。日本の國際的発言力を増していく」

 

細谷雄一氏「『日韓基本条約』『日中平和友好条約』の時期においては、中國と韓國は日本より弱かった。中韓は世論に支配されずに指導者が物事を決定できた。しかし今は世論のプレッシャー受けてその条約における合意を書き換えようとしている」

 

渡部恒雄氏「國際法に違反した事もないという日本をアッピールすべし。國際社會でプラグマチックに生きるべし」

 

この頃詠みし歌

 

 

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和歌は、何ゆへ定型・韻律に則って歌はれるのか

「五・七・五・七・七」といふ和歌における定型は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられたといへる。これは「五・七調」あるいは「七・五調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるといふことである。

 

『萬葉集』の九十五%が、短歌(五・七・五・七・七)である。短歌形式を古代日本人は、自分たちの抒情の文藝形式として獲得した。『記紀』『萬葉』以来今日まで千数百年にわたって、短歌形式が日本人の生活の中に生きてきて断絶がなかったといふ事實が非常に重要である。それだけ、「五・七・五・七・七」の短歌形式には魅力があり、日本人の心を表現する形式として非常に適していたといふことになる。

 

和歌は、何ゆへ定型・韻律に則って歌はれるのか。それは日本人の生活が常にある一定の規則・リズムに則ってゐるからであらう。日本の四季は規則正しく変化する。したがって農業を基本としてきた我が國民の生活も規則正しいものとなってゐる。わが國においては四季の変化と農耕生活とが調和してをり、毎年一定の「型」が繰り返されてゐるといへる。規則正しい四季の変化と農耕を基本とする規則正しい生活が、定型詩である和歌が生んだといふことができる。

 

和歌は、人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であるから、規則正しい生活の中から、自然にある声調を生み、「五・七・五・七・七」の定型を生み出したのである。

 

田谷鋭氏は、短歌とは何かを論じて、「()短歌は日本古来からの定型詩で、その形式はわれわれに与えられたもの──民族の約束──として存在し、ほとんど黄金形式と言っていい完璧さを持っている。()短歌は意味と韻律の融合から成り立っていて、その持つ意味や韻律は無数の変化とその組み合わせから成り立っている。」(『短歌とは』・「短歌」昭和五十六年一月号所収)と論じてゐる。

 

中河与一氏は、「大體ものに規格を与へるということは常に全體的意志があるのであって、三十一字を決定したといふこと自體に、古代人の聡明な民族的理由をわれわれは讀まねばならぬのである。…それは初めから意図したものではなく、自然に民族の直感がさぐりあてたものといふべきである。かくて三十一字形式といふものは古代人の発明した實に見事な、藝術における全體的意図をもった形式となったのである。三十一字といふ一つの形式によることによって、民族を自然に結んだのであるが、その定着が何によってゐるかは誰にもわからない。」 (『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

阿部正路氏は、「『平家物語』にあらわれた長歌は、七・五調を基調とした短歌の影響を受けながら発生したものであろう…夭折者の無念の思いは、こうした歌によって、こんにちもなお人々の心を動かしてやまないのである。その心をさそうのが、五音あるいは七音を基調とする律文學だったのである。…(四註・それは)言葉の長さの組み合わせではなく《しらべ》の組み合わせなのであって、それゆえにこそ《歌》なのである。…現行の『日本國憲法』の第八十二条の条文…美事に、五・七・五・七・七の五句七音の短歌なのである。…きわめて散文的な憲法の条文に、五句三十一音の韻律がそのまま重なり合っているという事實。この事實こそが、日本の言葉の一特色を典型的に指し示しているということができる。…短歌は、日本人の精神の最深部に常に確固として存在しつづけており、決して日本人と切り離すことのできない文學であり、精神領域であることを知る。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。

 

折口信夫氏は、「日本人のもっている文學といふものには、常に典型といふものがあり…日本では、型を重んじてゐる。…歌舞伎芝居の型を見ますと、型を守って今の役者がしてゐるといふのは、その型を創始した役者より劣っているといふことではない。…技術をなぞって來たために、そこに傑れた技術が生れて來た…日本の短歌と演劇とは一つに言へないほど非常な力量が撥揮せられた。…典型をなぞってゆくといふことによって、更に大きな文學が生れて來る。」(『與謝野寛論』)と論じてゐる。

 

「型」を大切にするのは日本人の特性である。歌舞伎などの演劇の世界をはじめとして茶道・歌道・書道などにおいて型の継承が、非常に大切なものとされる。武道もしかりである。「型」を継承することは、単に旧態依然としたものを墨守するといふのではなく、新しい創造をともなふのである。典型をなぞっていくことによって新たなる進歩発展があるといふところに和歌の面白さがある。これは和歌のみならず學問においてもいへる。「學ぶ」の語源は「まねぶ」であるといふ。先達・師匠の真似をすることが「學ぶ」の原点である。

 

正岡子規に、「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」といふ歌がある。「花瓶にさしてある藤の花房が短いので、畳の上にとどかないでゐるなあ」といふ意味である。これは韻律を踏み定型になってゐるから文藝作品としての価値が生まれるのである。また、子規が死の床にあって詠んだ歌といふことだから感動を呼ぶのである。歌にはかういふ不思議さがある。

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千駄木庵日乗九月二十三日

午前は、諸雑務(部屋の掃除・洗濯・靴磨きなどです)。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰宅後は、原稿執筆の準備など。

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2014年9月23日 (火)

日本伝統信仰の自然崇拝の精神こそが、一神教同士の闘争による危機を救う原基となる

 砂漠の宗教たる一神教は、「血」による贖い(罪滅ぼし)を求める。「血を流すこと無しには罪の許しはあり得ない」とする。ユダヤ教もイスラム教も神の祭壇に羊を供える。ユダヤ教の祭司たちは動物を裂き、その血を流して身の罪をあがなってきた。

 

 イエス・キリストも自分の血を流すことによって人類の罪の許しを神に乞うた。だからイエスキリストは「神の子羊」といわれるのだ。キリスト教徒が神に捧げるパンと葡萄酒はイエスキリストの肉と血の象徴である。

 

 キリスト教国であるアメリカでは十七世紀に、マサチューセッツ州で清教徒による専制政治が行われ、「異端者」(非キリスト教)を絞首刑にしたり、「魔女」(民間信仰のシャーマン)を火炙り(焚刑・ふんけい)にした。

 

中川剛氏は、「近代アメリカは最も基本的に民主主義の制度は正にこの清教徒の専制政治の歴史的派生物であることをもし認識できないとすれば、それは歴史をひどく歪めることになるであろう。」(『憲法を読む』)と論じている。キリスト教に限らず、一神教とはこのように排他独善的にして残虐な側面をもつ宗教なのである。

 

 一神教の神は、その意志に反する者を、全能の力を以て処罰し抑圧し征服する。そして、その神を信じ、救いを求める者のみを救済する。この排他性によってお互いに攻撃し合っている。

 

 この三つの宗教の中で、キリスト教を信じた欧米社会が、科学技術文明を築き上げ、地球上の他民族を征服して、植民地として隷属させた。その歴史の過程において様々な侵略や戦争が繰り広げられた。

 

 一神教同士の対立と抗争がどれだけ多くの人々を殺し、人類に生き地獄の苦しみに落とし込んだか。宗教とは人々に安心立命・真の幸福とやすらぎを与えるものであるはずなのだが、一神教の歴史は逆に人類に不幸と殺戮を与えていると言える。

 

 テロ攻撃やそれへの報復戦争は、まさにそういう一神教の歴史が根底にある。つまり、一神教同士の戦争が今行われていると言える。

 

一神教国家ではなく多神教の国である日本の使命として、精神的宗教的に何を為し得るかを考えるべきであろう。

 

 

 同時多発テロが起った時、米国のアーミテージ国務副長官が柳井駐米大使(当時)に「ショー・ザ・フラッグ(日の丸を見せろ)」と発言した。『旗幟(きし)鮮明にせよ』という意味だったらしいが、言うまでもなく「日の丸」とはわが国の国旗である。わが国の国旗は太陽を形どっている。英語では、「the risingsun flag 」と言われている。わが国の伝統信仰たる神道は、太陽の神であられる天照大神を最尊・最貴の神と仰ぎ、皇室の御祖先神として崇めている。

 

「日の丸が見える支援」とは、わが国の伝統信仰の精神で一神教の対決と闘争の歴史に終止符を打つ使命を果たすことである。

                     

 日本神話を拝すれば明らかなように、天照大神は、唯一絶対・全知全能を誇る神ではない。八百万の神といわれる日本の神々の使命・性格を生かし高める神である。一神教の神のような裁きの神、妬みの神、復讐の神ではない。

 

 日本神話では天地自然や人間は唯一絶対神によって造られた存在ではない。人も国土も君主も伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在である。

 

 さらに神の御命令によって地上に天降られた邇邇藝命の最大の御使命は、地上を瑞穂の国すなわちみずみずしい稲の穂が稔る国にするというきわめて平和的な信仰である。邇邇藝命という御名には、稲穂のにぎにぎしさを讃え稲穂に籠る霊への信仰が内包されている。

 

 生命の永遠の循環と共同体の相互扶助を、身を以て体験する稲作生活から生まれた規範を大切にする日本民族の祭祀に、言葉の真の意味における平和の姿を見出すことができる。

 

 それは日本神話の言葉で言えば、「高天原を地上に実現する」ということである。この精神を発展させて、全世界を農作の栄える国とするという使命を日本が果たすべき時が来たといえる。お互いの神を排斥合うのではなく、同じ天地の神として尊重し合う精神を持たなければ宗教戦争は終焉を迎えない。否、終焉を迎えないどころか人類を滅亡に追いやる危険さえ含んでいる。日本伝統信仰の自然崇拝の精神こそが、一神教同士の闘争による滅亡の危機を救う原基となると信ずる。それが真の「ショー・ザ・フラッグ(日の丸を見せろ)」である。 

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千駄木庵日乗九月二十二日

午前は、諸雑務。

午後は、北区にある菩提寺に赴き、四宮家の墓を掃苔。ご住職にご挨拶。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰宅後は、資料の整理。

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2014年9月22日 (月)

朝倉彫塑館参観記

今日参観した朝倉彫塑館は朝倉文夫のアトリエと住居だった建物。朝倉は東京美術学校を卒業した1907(明治40)年、24歳の時にここ谷中の地にアトリエと住居を構えた。没後、昭和42年に故人の遺志により自宅を朝倉彫塑館として公開され、現在は台東区に移管されている。平成13年に建物が国の有形文化財に登録され、平成2年には敷地全体が「旧朝倉文夫氏庭園」として国の名勝に指定された。平成21年から平成25年にかけて保存修復工事を行い、耐震補強を施し、朝倉生前の姿に近づけて文化財的な価値を高めているという。(案内書による)

 

朝倉文夫は、明治16年、大分県大野郡池田村(現豊後大野市)に生まれた。明治40年に東京美術学校(現東京藝術大学)卒業。近代日本の彫刻家の第一人者として活躍した。人物像や猫の彫刻が多い。昭和23年には彫刻家としてはじめて文化勲章を受章し、昭和3981歳で他界した。

 

朝倉彫塑館は、私の住む千駄木の隣町の谷中にあるので、何回も参観している。ただ五年間にわたって行われた保存修復工事の後は、今回が初めての参観である。当然の事ながら、建物内部も、庭の様子も、工事前と全く変わっていない。

 

アトリエの部分は、洋風建築、住居の部分は和風建築であり、和洋折衷の建物。庭には水が涌いており、池がある。

 

入り行くと、すぐに父母の像、朝倉文夫の代表作である「墓守」像もある。谷中霊園の墓守の姿が刻まれている。そして、秩父宮雍仁親王殿下・滝廉太郎・大隈重信・福沢諭吉・双葉山定次・松井須磨子などの像が展示されている。

 

写実作品であり、墓守像などは今にも動き出しそうに思えた。彫刻を見ると何時も思うのだが、絵画や写真の人物像は大体正面から見たものが多く後姿や横顔はあまり描かれないのだが、彫刻は、横顔や後姿を見ることができる。一万円札の肖像画になっている福沢諭吉像を見てあらためてその事を実感した。

 

書架が生前のままの状態で残されており、「広文庫」など数多くの貴重な文献が置かれていた。小生が書生をしていた野依秀市先生と、朝倉文夫氏とは、同じ大分県出身なので親交があり、野依先生の著書『仏教と社会と人生』が置かれていたことも嬉しかった。また野依先生が経営していた実業之世界社から発行された三宅雪嶺氏(哲学者)著『妙世界建設』『雪嶺絶筆』という本も置かれていた。

 

私邸部分の和室・屋上庭園などを参観。屋上からの眺めは素晴らしい。

 

そこで一首

 

「秋の日の谷中の町の彫塑館 この世を去りし日と並びゐる」

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朝倉彫塑館入口

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朝倉氏の私邸玄関

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お庭

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屋上からの眺め(屋上にも彫刻が展示されている)

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二階からの庭の眺め

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千駄木庵日乗九月二十一日

午前は、諸雑務。

 

午後は、谷中にある「朝倉彫塑館」参観。

 

夕刻、谷中にて、地元の若き友(小中学校の後輩)と懇談。

 

帰宅後は、たまりにたまった雑誌・新聞類の整理。

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2014年9月21日 (日)

一神教同士の果てしない宗教戦争について

 倉前盛通氏著『艶の発想』によれば、わが国に対する原爆投下の際、アメリカのトルーマン大統領は「早く投下しなければ、原子爆弾が都市住民にどんな被害を与えるか、テストする機会を逸する」と言ったという。これは米軍部の考えでもあったという。

 

 日本が白人国家でありキリスト教国であったらアメリカは原爆を投下しなかったであろうというのが通説である。事実、ドイツには原爆は投下されなかった。ましてカソリックの総本山・バチカンのあるイタリアに原爆を投下するなどということはあり得ないことだったのかもしれない。

 

 欧米のキリスト教徒は「キリスト教徒と非キリスト教徒との距離は無限である」と言う時があるという。

 

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という三大一神教の対立と闘争の歴史は、人類の歴史に計り知れない惨禍と殺戮をもたらした。

 

 欧米社会で行われ来たユダヤ人差別と迫害は、キリスト教のドグマによる。キリスト教国で反ユダヤ感情の無い国は無いと言っていい。それはキリストを神の一人子として受け入れないユダヤ人に対するイエス・キリストの「あなたがたは……悪魔から出てきた者であってその父の欲望どおりを行おうと思っている。彼らははじめから人殺しであって、真理に立つ者ではない。」(『聖書・ヨハネ伝』八章四四節)という宣告に基づくのである。『聖書』こそが反ユダヤ思想の基礎文献なのだ。

 

 イスラム教のユダヤ教及びキリスト教に対する排撃思想は、イスラム教の聖典『コーラン』(マホメットが唯一神アラーから受けた啓示を集録したもの)に次のように記されている。「信ずる人々よ、ユダヤ教徒やキリスト教徒を友としてはならない。彼らはお互い同士だけが友である。お前たちの中で彼らを友とする者がいれば、その者は彼らの同類である。神が無法の民を導きたもうことはない」。さらに『コーラン』には、「命には命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、受けた傷は同じ仕返しを」と書かれている。

 

 まさにイスラム過激派のテロは、イスラエルに肩入れしているアメリカなどへの「目には目、歯には歯」の報復戦争なのである。これに対してキリスト教国家アメリカとユダヤ教国家イスラエルのさらなる報復が行われている。              

 

 ユダヤ教は、紀元前四世紀頃から発達し、ユダヤ(イスラエル)の砂漠で遊牧民の間に信じられたエホバ神(ヤーヴェ)が、多くの苦難を経て、モーゼという預言者によって「唯一最高絶対の神」とされた宗教であり、ユダヤ人を神に選ばれた選民と自覚する。

 

 キリスト教は、ユダヤ教の「唯一最高絶対の神」を信じ、さらにイエス・キリストを「神の一人子」=救世主と仰ぎ、エホバ神をユダヤの民族神から世界的な普遍神にまで高め、さらにギリシャを経てローマに入り、ゲルマンの狩猟民に信じられ、今日の天地の創造主・世界人類の唯一絶対神たるゴッドの地位を確立した。

 

 イスラム教もまた、「唯一最高絶対の神たるアラー」を信じる一神教である。西暦六一〇年にマホメットによって創唱された。マホメットこそが唯一絶対神のもっとも偉大に使徒であり預言者と仰ぎ、ユダヤ教の教師を否定し、イエス・キリストを「神の一人子」とは認めない。

 

 つまり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、砂漠の遊牧民に信じられた「唯一絶対神」を信じるということでは全く共通している。しかし、お互いに異端・異教徒として排撃し反目して来たのがこれまでの長い歴史であった。こうした宗教戦争は今日唯今も続けられているのである。

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2014年9月20日 (土)

千駄木庵日乗九月二十日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母と共に過ごす。

帰宅後は、書状執筆・『政治文化情報』発送準備など。

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「聖」(ひじり)の意義

 「聖」(ひじり)といふ言葉は、「日知り」といふ意味が原義である。第一義的には、日の神の御子として日本の國をしらしめす(統治される)御方、日の神の如く統治される御方といふ意であり、日本天皇の御事である。

 

 「日知り」とは太陽の運行を知る、即ち「暦を知る」ことでもある。「暦を知る」といふことは古代日本の君主として非常に大事な権能であった。なぜなら農耕國家である日本では、暦・四季のめぐりが生活にとって殊の外大事であったからである。従って太陽の運行・四季の変化のことをよく知ってゐる人が「君主としての資格」を持った。

 

 この「日知り」を漢字の「聖」にあてはめた。「聖」の字源は、意味を表す「耳」と、音を表す「壬」とからなる形声字。「壬」の音の表す意味は、「通」(通る意)、あるいは「聴」(聞く意)である。耳の口がよく開いてゐて普通人の耳に聞こえない神の声がよく聞こえる意。支那古代においては、普通人の聞き得ない神の声を聞き得る人を「聖」と呼んだのであらう。「干支」などの暦を知ってゐる人の意である。

 

つまり、「聖」という漢字の原義は、天体の運行を通暁してゐる人のことである。農業生活にとって重要な暦を見立てる事ができる人が村や部落という共同体の長(おさ)になる。それがもっと精神的なものに昇華し、徳や知恵の優れた人を「聖」といふやうになった。それに儒教の聖人思想・有徳王君主思想が加わって意味が拡大し、天子(天の子)として國家に君臨する君主を「聖」といふやうになった。

 

このやうに「聖」という言葉は、やまと言葉においても漢字においても、古代農耕生活と非常に密接に関はっている。

 

 日本の暦は、稲などの植物の生育と栽培の知識から生まれた。温帯に位置してゐるわが國の風土は、穏やかで、四季の変化がはっきりしてゐる。さうした風土の中で稲作生活を主なる生業とすることによって民族を形成してきた日本人は、季節の変化を稲の生育に伴ふ自然の有り様や生活の営みの中で捉へてきた。                 

 

 日本人は、規則正しい季節の移り変りとそれに伴ふ自然の変化が、生活の基本であるといふことを農耕生活の中で体得してきた。それが<暦の思想>である。かかる生活を営んできた日本人は、<自然の道・摂理・道理>は生活と共にあり、自然の摂理がそのまま人生の規則であるとする日本民族特有の哲學といふか思想精神を身に付けた。

 

 わが國には「月読命」といふ神様がおられる。夜見の國から帰った伊耶那岐命が、禊祓をされた折、右の御目を洗れた時に生まれた神である(左の御目を洗はれた時に生まれた神が天照大神)。「読む」は数へる意味で暦から発生した言葉であるから、月読も月齢による暦を意味するとされてゐる。月読命は農耕に是非必要な手段であった月を数へるといふ生活の知恵をあらはす神名とする説がある。もっとも「月読命」の「読」を「夜見」と解して「隠り世」(あの世)の神とする説もある。 

 

 ただし、日本における「日知り」とは、天体の運行をよく知るといふやうな限られた一種の超能力のやうな事を意味するのではない。「日の神の生みの子としてやすらけくたいらけく天の下をしろしめす」といふ意味が根本である。

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千駄木庵日乗九月十九日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

午後三時半より、渋谷にて『伝統と革新』の装丁・表紙のデザイナーの方及び編集実務担当者打ち合わせ。久しぶりに渋谷に行ったが、駅周辺は工事が行われており、街の様子もだいぶ様変わりしつつある。分りにくいところがますます分りにくくなっていた。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備、資料の整理など。

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2014年9月18日 (木)

古代日本人の「岩」への信仰

古代日本人は、岩といふものを非常に神秘的に考へた。地下と地上、この世とあの世とをつなぐものと考へた。大きな岩を墓に用いるのは、地下の靈が地上に出てくるのを押さへる役目を持たせたからといふ説もある。岩には死んだ人の靈が籠ると信じた。墓石には「新たなる使命を帯びて地上に再び蘇るまでそこに鎮まっていただきたい」といふ祈りが込められてゐる。萬葉時代は、かかる古墳時代の信仰がまだいきいきと生きてゐたのである。

 

「岩」は「いはふ」から出た言葉である。「いは(齋)ふ」は、神に対して穢れと思はれることを謹み、淨め、敬虔な態度を持して神を祀ること。また、さういふ態度をとって穢れに乗じてくる邪悪を避けようとする行ひをも言ふ。つまり、身を清めて神を祭ることを齋(いは)ふといふ。そして、人々が集まって籠るところをいへ(家)といふやうになった。   

 

岩や石は神仏や死んだ人の魂が籠ってゐると信じそれを拝むやうになった。特に巨岩は威力があり人格化され意志を持ち人間に語りかける靈妙なものと信じた。

 

 『國歌君が代』の「君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」は、石は靈が籠ってゐるので次第に成長して岩となるといふ信仰が歌はれてゐる。「天皇の御代は、千代に八千代に小さな石が次第に成長して大きくなり大きな岩となって苔がむすまで永遠であっていただきたい」といふ意である。

 

「いは」のイは接頭語で、「いのち」「いきる」といふ言葉がある通り生命力を意味する。         

 

「岩戸」とは、大地のイメージであり、母のイメージである。大地の母に回帰する信仰があらはれたのが、天照大神の「天の岩戸隠れ」の神話である。

 

「岩」が名前についてゐる女性には精神的・靈的に力が強い人が多い。その代表的ご存在が磐姫皇后(いはのひめのおほきさき・仁徳天皇の皇后)であられる。『古事記』によると、とても嫉妬深い皇后であらせられ、天皇にお仕へする女性のことが噂に上っただけでも、床に横になられて御足をばたばたさせて悔しがられた。また、天皇が寵愛された黒姫といふ女性を宮廷から追放された。黒姫が船に乗って故郷の吉備の國へ帰るのを皇居から見送られた仁徳天皇が、別れを惜しまれて、

「沖邊には 小舟つららく 黒ざやの まさづこ吾妹 國へ下らす」 (沖の方には小  舟が続いてゐる。あれはいとしのあの子が国へ帰るのだなあ、といふ意)

といふ御歌を詠まれた。磐姫皇后はこれを大変お怒りになられ、人を派遣して黒姫を船から引きずり下ろして徒歩で故郷に帰らせたと『古事記』に記されてゐる。

 

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千駄木庵日乗九月十八日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

この後、施設に赴き、母と共に過ごす。

午後六時より、麹町の「あさ乃」にて、『日本再生同志の会』役員会開催。小田村四郎会長が挨拶。西村眞悟衆議院議員がスピーチ。全員で討論。

帰宅後も、発送準備。

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三輪山信仰について

三輪山が大和地方の神奈備であるといふことは、三輪山はその地に都を置いてゐた大和朝廷の権威の象徴でもあったわけである。だから、敏達天皇の御代に、蝦夷の反乱を討伐して蝦夷の酋長を大和に連れて来た時、泊瀬川(はつせがわ)で体を清めさせて、三輪山の神の御前で大和朝廷への服従を誓はせたといふ。

 

なぜ三輪山が大和の神奈備になったのかといふと、山の姿そのものが美しかったことにもよるが、それと共に大和盆地の東南に位置する三輪山の方角から太陽が昇って来たからである。そして大和盆地の上を太陽が渡って二上山の方角に沈んだ。故に太陽信仰・日の神信仰の象徴として三輪山が仰がれた。三輪山信仰は、山そのものを御神体として拝むと共に、三輪山の背後から昇って来る日の神への信仰・太陽信仰でもあったのである。

 

三輪山の麓には檜原神社がある。ここは大和笠縫邑(ヤマトカサヌイノムラ)といはれ伊勢の神宮に祭られる前に天照大神が祭られた場所である。だから檜原神社を元伊勢と申し上げる。天照大神は最初に三輪山の麓に祭られた後、各地を経巡られて、最後に大和盆地の直線上東方に位置する伊勢の地に鎮まられたのである。

 

また、三輪山の麓から真直ぐ西に行ったところに天皇御陵のやうに大きな大きな箸墓といふ古墳がある。倭迹々日百襲姫命の墓といはれてゐる。『書紀』には、この倭迹々日百襲姫命に大物主神が神懸りしたと伝へられてゐる。つまりこの墓は三輪山の神を祭った巫女の墓といふことである。

 

邪馬台國畿内説をとる人は、この古墳を太陽神を祭った祭祀王である卑弥呼(ヒミコ)の墓であると言ってゐる。卑弥呼(ヒミコ)とは支那人が日本を蔑視してこのやうな漢字をあてたのであって、正しくは「日の御子」である。邪馬台國(ヤマタイコク)はいふまでもなく「大和の國」である。                     

 

何故、日本最尊・最貴の神であられ、御皇室の御祖先神であり太陽神であられる天照大神が女性神であられるかといふと、太陽神を祭る祭り主が女性であったから、祭る神が祭られる神になったからであるといふ説がある。太陽神が祭り主と合体合一したのである。

 

大和盆地をはさんで三輪山の向かひ側(即ち大和盆地の西方)にある二上山には、刑死された大津皇子(天武天皇の第三皇子)の御陵がある。二上山の麓には当麻寺といふ寺がある。この寺はわが國最初の浄土信仰の寺であり、浄土を描いた有名な『当麻曼荼羅』がある。つまり二上山は夕陽が入る山であるので他界(西方極楽浄土)の入り口と考へられたのである。

 

そして二上山の向かふ側には天皇御陵がたくさんあり、さらに西へ真っ直ぐに直線を伸ばすと、國生みの神であられる伊耶那岐命・伊耶那美命を祭った神社がある淡路島に至る。 

 

伊勢の神宮起源の地といはれる伊勢の齋宮から、大和盆地の三輪山・檜原神社(元伊勢)・倭迹々日百襲姫命墓・二上山を経て、仁徳天皇御陵などの天皇御陵の鎮まる大阪府堺市百舌鳥、そして國生みの神を祭る淡路島に至るまで、東西に走る直線で結ばれる、まことに不思議な事実がある。これは太陽の移動する線と共に神々を祭る地があるといふことである。この線は北緯三四度三二分である。

 

三輪山の麓には、崇神天皇・景行天皇の御陵も鎮まりまします。三輪山とその周辺が大和朝廷の祭祀の場所であったことは明らかである。

 

『日本書紀』は神武天皇と崇神天皇を「ハツクニシラススメラミコト」(國を初めて統治された天皇といふほどの意)と称へてゐる。崇神天皇の御代に、それまで天照大神を宮中の大殿に祭ってゐたのを、大和笠縫邑(今日の檜原神社が鎮座するところ)にお祭りするやうになった。

 

大和盆地に大和朝廷の都を置くといふのは、神武天皇以来の伝統であった。『日本書紀』に、神武天皇が塩土老翁(しほづちのをぢ)といふ航海・海路の神の御託宣により、大和橿原の地に都を開かれることを御決意あそばされた時の御言葉が記されてゐる。それには、 「東(ひんがし)に美(うま)し地(くに)有り。青山四周(あおきやまよもにめぐ)れり。…彼の地は、必ず以て大業を恢弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちを)るに足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心(もなか)か。…就(ゆ)きて都つくるべし。」 と示されてゐる。

 

大和の國は四周を山に囲まれ当時の日本のほぼ中央に位置する美しい國であった。神武天皇が神の御託宣によって大和の地を都が置かれるべきと定められたのである。

 

 

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2014年9月17日 (水)

千駄木庵日乗九月十七日

午前は、諸雑務。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、資料の整理など。

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現御神信仰は今日においても「生きた真実」である

 御歴代の天皇お一方お一方が天照大神の「生みの子」であらせられる。

 

 わが國の伝統的な天皇信仰・現御神信仰を表白した歌が、『萬葉集』の代表歌人・柿本人麻呂の次の歌である。

 

大君は 神にしませば 天雲(あまぐも)の 雷(いかづち)の上に いほらせるかも

 

 「大君は神であられるので、天雲の雷の上に仮の廬を結んでおられることだ」というほどの意。持統天皇が雷の丘にお出ましになった時に、人麻呂が現御神信仰を高らかにうたいあげた歌。

 

 「雷の丘」は奈良県高市郡明日香村にある雷神が祭られている丘。雷神が住んでいたという伝説のある神の山・聖なる山である。「いかづち」とは「厳槌」の義で、雷鳴は神が巨大な槌を転ばす音であると信じられた。「いほらせるかも」とは、直訳すれば「仮の庵を結ぶ」意であるが、この歌の場合は、天皇が祭り主として聖なる神の山・雷の丘で國見をされ祭事を齋行されることをいう。つまり、「いほり」とは「齋」(いつき・斎戒<心身を清めて言行・飲食などの行為をつつしむこと>して神をまつること)の意味である。これは國歌『君が代』の意義にも関連することは後述する。

 

 「國見」とは、単に國土を望見されるというのではなく、天皇が國土を眺望され國土の繁栄と五穀の豊饒を祈る祭祀儀礼であり、天皇が國見をされることにより國土は新生する。古代人にとって「見る」とは魂の結合を意味した。

 

 この歌は、「聖なる山の上でまつりごとをされる天皇は、この世における神であられ、あらゆる神霊を従えたもう御稜威(神聖なる霊的威力)輝く御存在である」といふ現御神信仰即ち天皇信仰を歌っている。この信仰は人麻呂個人のものではなく、萬葉人即ち古代日本人に共通する信仰であった。神を祭られる天皇はこの世における神であるというのが日本人の現御神信仰である。

 

 また、自然を神として拝んだ古代日本人は「雷」も神として仰いだ。それが後世の天神(菅原道真の御霊を祭った神社)信仰につながる。「神」という漢字は、祭りの対象の意味を表す「示」(神への捧げ物を置く台の象形文字)と、音を表す「申」(稲光の象形文字)とからなる形声字である。つまり、古代支那においても、雷を天の神と考えたのである。

 

 人麻呂はまた別の歌で「やすみしし わが大君 高光る 日の御子」と歌っている。「四方八方をやすらけく御統治あそばされるわが大君、高く光る日の神の御子」というほどの意で、天皇は、天照大神の御子としての無上の神格を持たれるという現御神信仰を高らかにうたいあげている。

 

 天皇を「日の御子」「天津日嗣日本天皇」と申し上げるのは、天皇が日の神の御神威を継承して日本國を統治されるお方であるということである。「天津」は高天原からの天津神から継承されている神聖なという意で、「日嗣」は天照大神から伝えられた「日霊」を継承するという意である。 天皇は、大嘗祭・新嘗祭を通して日の神=天照大神の神威・霊威を体現される御存在となられ、天照大神の「生みの御子」すなわち「現御神」として君臨されることとなるのである。

 

 天皇は血統上は先帝から今上天皇が皇位を継承するのであるが、信仰上は御歴代の天皇お一方お一方が天照大神の「生みの御子」であらせられる。皇祖・天照大神との御関係は、邇邇藝命・神武天皇・今上天皇も同一である。これを「歴聖一如」と申し上げる。

 

 地上に天降られた邇邇藝命は肉身としての皇統の祖として祭られ、南九州に御陵が鎮まっている。天照大神は皇祖神として伊勢の神宮に祭られている。

 

 この尊い事実を會澤正志斎は、「神州は太陽の出ずる所、元気の始まる所にして、天日の之嗣、世(よよ)宸極(しんきょく)を御し、終古易(かは)らず」(新論)と言った。日蓮も「日本國の王となる人は天照大神の御魂の入代らせ給ふ王なり」(高橋入道殿御返事)と言っている。現御神信仰・現人神信仰は決して近代日本において人為的オロギーとして作られたものではないのである。   

 

 神々の中で最尊・最貴の神と仰がれる天照大神の御子であられる日本天皇は、雨の神・雷神などの自然神を従えられる御存在であるというのが萬葉人以来の日本人の信仰であった。それは今日においても自然な日本伝統信仰として生き続けている。

 

 

 昭和天皇は、昭和三十五年に、

 

 さしのぼる 朝日の光り へだてなく 世を照らさむぞ わがねがひなる

 

と歌われ、同三十四年には

 

 あなうれし 神のみ前に 日の御子の いもせの契り 結ぶこの朝

 

と詠ませられている。この二首の御製は天皇および皇太子は「天照大神の生みの子」即ち「日の御子」であるという御自覚を歌われているのである。

 

 これらの御製を拝すれば、昭和天皇が「昭和二十一年元旦の詔書」においていわゆる「神格」を否定され「人間宣言」をされたなどという説が大きな誤りであることが分かる。

 

 天皇が現御神であらせられるということは古代日本人がつくりあげた「虚構」ではなく、今日唯今においても「生きた真実」なのである。   

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千駄木庵日乗九月十六日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、発送準備、明日のスピーチの準備、資料の整理など。

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2014年9月16日 (火)

『一水会フォーラム』における鳩山由紀夫元総理の講演内容

七月十六日に行われた『一水会フォーラム』における鳩山由紀夫元総理の講演内容は次の通り。

 

「真の愛國者を育てることが大事。一見愛国者ぶっている人が政治家には多い。国の為とか人のためというそぶりを見せながら結局はポストとか根を満たすためという場面にしばしば遭遇した。本当に大事なことは真の意味でこの国を愛する人を増やすことだと思う。木村代表は本当にこの国を愛していると思った。三島由紀夫先生の生き様を学びつつそこから啓発されたこの国のためにという自覚。私は名前を『由紀夫』から『友紀夫』に変えた。友愛の理念を広めるためである。『由紀夫』という名前は、『紀元節に因る男』という意味で両親が付けた。三島先生の息子さんの名前は『威一郎』で私の父と同じ名前。何となく縁を感じた。

 

尖閣の事で木村代表と議論した。『日本固有の領土ではないことは分かっている』と木村氏が言ったので敬意を表した。木村氏は『尖閣は既有の領土』と言っていた。

 

私は政治家にはまるで向いていない。政治家のファミリーに生まれたのが嫌だった。三木武吉先生・河野一郎先生が来られていた。玄関は常に開けっ放し。プライバシーもない。子供心に政治家になりたくないと思ってゐた。鳩山邦夫がおじいさんの後を継ぐと言っていたので『これは有難い』と思った。変調を遂げたのはアメリカに留学してから。四十五年前、バイオテクノロジーをやりたかった。しかしなかなか簡単にいかないと感じた時、一九七六年、アメリカは建国二百年で一年中沸き立っていた。アメリカ人であることを誇りに思ってゐた。国を愛するなんて私は考えたこともなかった。当時は、愛国心は軍国主義と表裏一体と考えられていたので、愛国心という言葉を使う事が躊躇された。私は果たしてそうなのかと思い、政治家の道に行こうと思うようになった。

 

政治家の世界はあまりにも皆さん方の世界とはずれている。金がかかり、金を集めなければならない。一番頭をよぎるのは金になる。私自身も母から『子ども手当をもらっている』と言われた。母が私に内緒で色々やってくれていたことが仇になり、総理を引責辞職した。

 

国会議員は、自分なりの憲法観を持つべきと思ってゐる。国家統治はどうあるべきかを考えねばならない。二〇〇五年に『新憲法試案』という本を出した。一院制を謳ってゐる。自分なりに『國の形』を考えて書いた。国から地方に出来るだけ権限を譲るべし。人口三十万から五十万の基礎自治体に権限をできるだけ移そうという考え。不出来なものではないと思う。

 

この国は残念ながら自立していない。真に自立した独立国に仕立て上げることはできないのか、それが私の一大眼目である。国民は官僚に依存し、官僚主導政治にしてしまった。選挙の洗礼を受けないので、国民の声を聴くことができない。天降り、無駄遣い、癒着が過ぎた日本になった。〇九年の政権交代で『無駄を無くせ』という言葉・発想で国民が政治に新しい力を与えてやろうと、楫を切っていただいた。地方主権の発想。

 

日本はアメリカに依存している。日本はアメリカと戦って負けた。マッカーサーによって日本は大きく変わった。アメリカは寛大だった。日本はアメリカにお世話になった。日米安保で日本は安全だった。アメリカに感謝しなければならない。しかし、国の自立性を持って、言うべきことは言って行ける対等の友人関係にしなければならない。日米規制改革委員会でアメリカの要求によって規制改革していかなければにならないということになった。郵政民営化がそれ。しかしアメリカ自体が郵政を民営化していない。アメリカの金融が日本に上陸しやすい環境を作りたかった。日本がアメリカの影響を受けやすい典型。私の政権の時に日米規制改革委員会を止めた。結果として『年次改革要望書』は提出されなくなった。最近はTPPでさらにひどい状況になった。

 

九・一一の大事件でアメリカはアフガンに兵を進めていく。『ショウ・ザ・フラッグ』と言われ、海上自衛艦をインド洋に派遣した。政権交代して私が、カルザイと会った時、自衛隊への感謝の言葉はなかった。イラク戦争当時、日本は陸自部隊をイラクに派遣した。田中均さんは『イラク戦争は間違ってゐた。アメリカは間違ってゐた』と言っていた。英米共に間違ってゐたと認めた。

 

米国依存の最大のものは日本に米軍基地があること。『常時駐留なき安保』という事を以前から申上げて来た。有事の時は駐留してもらいたいということを方向性として訴えて来た。『普天間基地の移転先を何処にするか、最低でも県外』と強く主張した。うまくいかず、国民と沖縄県民に大きなご迷惑をおかけした。これも『常時駐留なき安保』の発想からの発言。

 

東アジア共同体の核になるのが沖縄。辺野古にジュゴンが住んでゐることが確かめられている。こういうきれいな海にでかい滑走路を二本つくるという気持ちになるであろうか。総理になって『日米地位協定』の改定をしようとした。日米の役人同士の話し合いの結果を聞くという間接話法では限界があった。直接オバマと交渉できなかったことを申し訳なく思ってゐる。

 

麻生総理の頃から『価値観外交』という言葉が出て来た。『自由と繁栄の弧を作る』ということ。しかし価値観の違う国がどうやって折り合っていくのかが外交。『価値観外交』とは中国包囲網を作ろうという話。『価値観外交』を止めて東アジア共同体の構想で、価値観の違う国といかに共存共栄するかに力を入れて行こうとした。温家宝総理と首脳会談をした時、東シナ海のガス田開発を再開していく話があった。東支那海を友愛の海にしようということになった。その三日後に総理辞任となり、その後、衝突事故がありおかしくなった。

 

『集団的自衛権』には百%反対とは思ってゐなかった。解釈は非常に広い。『集団的自衛権』の現実の行使容認は手段が極めてまずい。国民の意志を問わねばならない。大きな政策転換であるにもかかわらず、閣議決定で穴を開けてしまった。解釈改憲は姑息。国会での議論を二日間で終えるのはとんでもない。手段が悪い。強がりであり、弱さの表れ。

 

日米両国の一方の国に対する攻撃があった場合、それぞれの国が協力しなければならないということになってゐる。『安保条約』第五条に日本の施政下にある地域で自衛権の行使が規定されている。孫崎享氏は「第五条を越えた地域ー日本の施政下にない、つまりは世界中で自衛権行使が求められるのではないか」と危惧している。必ずしも武力攻撃のない時にも、敵が攻撃して来るという予測に立ってこちらが武力攻撃できるということになる。やられそうになったらやる。一概に否定するのではないが、議論が分かれる。アメリカに対等にものを言えない政府の下で『集団的自衛権』は慎重であらねばならない。いかにして武力を使わないでこの地域を平和にしていくかに努力すべし。そのための東アジア共同体。

 

地球環境問題は大変深刻。原発がゼロになっても、CO2二五%削減の実現を考えねばならない。全ての人が一%削減する努力を行えば、目標の四割を削減できる。太陽光を五割増やしていけばCO2が削減できる。こういう時こそ日中協力が必要。『北京の空を青空にしてあげる、日本に任せろ』という具体的行動が必要。

 

クーデンホーフ・カレルギーの汎ヨーロッパ主義からEUが生まれた。ヒトラー、スターリンの全体主義に対して生まれたものであった。自由と平等の間にいかに架け橋を構築するか、それが友愛の精神が日本の進むべき道保目指してゆく原動力と思う。日中が仲良くする事業を行うなら、日中の指導者が尖閣・靖國の問題で方向性を見出すことは不可能ではない。

 

田中均さんは『もう一度総理が靖國に行ったら致命的になる』と言っていた。私も、英霊に対するお参りの気持は大切と思ってゐる。しかし靖国神社に行かず、靖国神社の方向に向いてお参りすれば良い。心は大事だが心の表わし方は指導者の自制心におさめるべし。安倍氏がもう一度靖國に行ったら、日中関係は決定的になる。

 

尖閣は『ポツダム宣言』にならって考えれば、固有の領土ではない。しかし、私は『中国の領土だ』とは一回も言っていない。一八九五年の閣議了解した日本の領土。その閣議決定は官報に載せなかった。本来なら官報に載せて世界に知らしめるべきであった。標柱を立てて堂々と日本領であると宣言すべきだった。彼らに『盗み取った』と言わせる隙を作ってしまった。互いに言い分があるのだから、係争の地と認めればいい。しかし実効支配は続くのだから日本の何の不利益もない。オバマは『安保適用』を言ったのが『領有権については中立』と言っている。しかし日本は実効支配をしている。故に『日米安保』は適用される。エスカレートさせないで議論すべし。棚上げにしておくのが一番賢明と私は思ってゐる。『東アジア共同体』の構想について前向きに考えて頂きたい」。

 

              〇

 

鳩山友紀夫氏の主張はほとんど受け入れがたいものである。書き記しながら腹が立ったが、「報告」として掲載した。鳩山氏の主張は、理想と現実がごっちゃになってゐる。現実を全く無視した理想論は幻想であり、極言すれば危険な妄想である。

 

なお、小生の「友愛精神谷口雅春師の思想の関係」などについての質問に答えて鳩山氏は「谷口雅春先生は尊敬されるべき人。私の妻は『生命の実相』全四十巻を讀んでゐる。私の母・薫子は自宅のはなれで生長の家白鳩会の会合を開いていた。谷口哲学は自己の尊厳と他者の尊厳を認める」と答えた。しかし、友愛精神と生長の家の思想については語らなかった。谷口雅春師と鳩山一郎氏夫妻の事については、いずれ詳しく論じたいと思ってゐる。

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千駄木庵日乗九月十五日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き母と過ごす。施設長の方と打ち合わせ。

帰宅後は、原稿執筆。

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2014年9月15日 (月)

「台灣の近代美術―留学生たちの青春偶像」及び「木版ぞめき」展ーを参観

上野公園の東京藝術大学美術館で開催されている「台灣の近代美術―留学生たちの青春偶像」展を参観した。この展覧会は、「20世紀前半の東京美術学校には、中国、台湾、韓国などからの学生も勉学していて、とりわけ油彩画技術の習得に研鑚を積んでいました。彼らは帰国・帰郷後に、激動の時代の中でそれぞれの道を歩みながら、西洋美術を母国に普及させることに貢献して、東アジアの近代美術を開花させてきました。しかし、その実績・功績などは今日にいたっても未だに十分に検証されたとは言えません。そこでこの企画は、東京藝術大学大学美術館と国立台北教育大学・北師美術館が共同で、台湾からの留学生の主要な作品約50点を東京藝術大学大学美術館に集めて、留学生たちの軌跡と台湾における近代美術の展開を紹介することを試みます。日本の近代美術にも新しい視野が広がる意義のある企画ですが、今日でも我が国では調査研究が不十分な分野ですから、多くの方々にこの展覧会を見ていただいて、今後の研究の発展への貴重な里程標になることを期待いたします」(案内書)との趣旨で開催された。

顔水劉、劉錦堂、陳澄波などの「...自画像」、陳澄波「嘉義の町中」、李石樵「合唱」「市場の入口」、劉錦堂「台湾遺民図」、廖継春「芭蕉の道」、黄土水「釈迦出山」などが印象に残った。李石樵の「合唱」は、子供たちが歌を歌っている姿がとても愛らしかった。陳澄波の「嘉義の町中」は古き良き時代の台湾嘉義の町の風景が美しく描かれていた。陳澄波氏は、二二八事件で銃撃され殺されたという。

東京美術学校に留学してきた台湾の人々は、戦後、それぞれ色々な生き方をした。日本で活躍した人、大陸に渡った人、パリに赴いた人などがいる。もちろん、台湾で活躍した人が一番多い。国立師範大学などで美術の先生をした人が多いようである。台湾留学生は、東京美術学校に合格する前に、川端画学校で学んだ人が多い。川端画学校は、明治四二年に、日本画家の川端玉章が小石川富坂町開いた画塾である。

自画像が多かったが、これは卒業制作で自画像を描くことになっていたらしい。それぞれ別の道を歩んだ台湾字留学生たちが、この展覧会で自画像同士で物言わぬ再会を果たしたことになる。

台湾の故宮博物院の展覧会が近く東京国立博物館で開催されているので、この美術展が開催されたのであろうか。近代台湾の歴史を偲ばせる作品が多かった。

 
上野公園の東京藝術大学美術館で開催されている「台灣の近代美術―留学生たちの青春偶像」展を参観した。この展覧会は、「20世紀前半の東京美術学校には、中国、台湾、韓国などからの学生も勉学していて、とりわけ油彩画技術の習得に研鑚を積んでいました。彼らは帰国・帰郷後に、激動の時代の中でそれぞれの道を歩みながら、西洋美術を母国に普及させることに貢献して、東アジアの近代美術を開花させてきました。しかし、その実績・功績などは今日にいたっても未だに十分に検証されたとは言えません。そこでこの企画は、東京藝術大学大学美術館と国立台北教育大学・北師美術館が共同で、台湾からの留学生の主要な作品約50点を東京藝術大学大学美術館に集めて、留学生たちの軌跡と台湾における近代美術の展開を紹介することを試みます。日本の近代美術にも新しい視野が広がる意義のある企画ですが、今日でも我が国では調査研究が不十分な分野ですから、多くの方々にこの展覧会を見ていただいて、今後の研究の発展への貴重な里程標になることを期待いたします」(案内書)との趣旨で開催された。

顔水劉、劉錦堂、陳澄波などの「自画像」、陳澄波「嘉義の町中」、李石樵「合唱」「市場の入口」、劉錦堂「台湾遺民図」、廖継春「芭蕉の道」、黄土水「釈迦出山」などが印象に残った。李石樵の「合唱」合掌は、子供たちが歌を歌っている姿がとても愛らしかった。陳澄波の「嘉義の町中」は古き良き時代の台湾嘉義の町の風景が美しく描かれていた。陳澄波氏は、二二八事件で銃撃され殺されたという。

東京美術学校に留学してきた台湾の人々は、戦後、それぞれ色々な生き方をした。日本で活躍した人、大陸に渡った人・パリに赴いた人などがいる。もちろん、台湾で活躍した人が一番多い。国立師範大学などで美術の先生をした人が多いようである。東京美術学校に合格する前に、川端画学校で学んだ人が多い。川端画学校は、明治四二年に、日本画家の川端玉章が小石川と美坂町開いた画塾である。

自画像が多かったが、これは卒業制作で自画像を描くことになっていたらしい。それぞれ別道を歩んだ台湾字留学生たちが、自画像同士で物言わぬ再会を果たしたことになる。

台湾の故宮博物院の展覧会が近く東京国立博物館で開催されているので、この美術展が開催されたのであろうか。近代台湾の歴史を偲ばせる作品が多かった。

『木版ぞめき』展は「日本の水性絵具による伝統木版は、極東の地で和紙と共に成熟を重ね独自な形で発展を遂げました。いつしか『日本の文化』と言われるようになり、伝統として今に繋がっています。和紙と水性絵具が触れることで出来上がる、柔らかくユニークな木版が確立したその周辺で人々は、心を揺らし魅了されました。木版は時代時代で人々を騒がせた、いや、木版を以て人々が『ぞめいた』のです。そんな木版を獲得した日本で、いったい何が起こったのでしょうか。現在世界的に木版画制作者が増加している状況に応答するように、アーティストの視点から材料や技法に焦点を置き、歴史的学術的陳列から解放することで、『なぜ、ユニーク』で『どうして面白いのか』を検証し、木版の持つ本質的な魅力に迫ります。展示室を7つのテーマに分け、それぞれに作品や関連したモノを陳列展示することで木版を、より多面的に紹介し制作者・鑑賞者の双方にとって新しい発見の場となるように構成します」(案内書)との趣旨で開催された。

喜多川歌麿、鈴木春信、菱川師宣、歌川国芳、棟方志功などの版画、カー版画が描かれた千社札、源氏物語絵巻、ポチ袋(祝儀袋)などを参観。

木版画が日本独自のものであるどうかは知らないが、浮世絵にしても広重の風景画にしても、素晴らしいものが多い。川面義雄という人の「源氏物語絵巻」は見事であった。江戸時代の美人画は、とても顔が長く口が小さい。当時はこういう女性が美人とされたのであろう。

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千駄木庵日乗九月十四日

午前は、諸雑務。

午後は、上野公園の東京藝術大学美術館にて開催中の『台灣湾の近代美術-留学生たちの青春群像』展、及び『木版ぞめき』展参観。

夕暮時の谷中寺町を散策。東京の小京都といわれる町で、静かに近世・近代の江戸東京の歴史を偲ぶことができる。今日は、渋江抽斎(しぶえ ちゅうさい)の御墓がある感応寺と言うお寺の前を通った。渋江抽斎は江戸後期、文化2年11月8日(1805年12月28日)に生まれ 安政5年8月29日(1858年10月5日)に亡くなった人で、医師・考証家・書誌学者である。森鷗外のこの人のことを「歴史小説」に描いた。鷗外自身と似た人生を歩んだからであろう。

帰宅後は、資料の整理・原稿執筆など。

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最近寄贈していただいた書籍

最近寄贈していただきました書籍をご紹介します。

              ◎
恨韓論 黄文雄氏著 宝島社発行 著者より

犯中韓論 黄文雄氏著 幻冬舎ルネッサンス発行 著者より

              ◎

ご寄贈いただきました黄文雄先生に心より感謝申し上げます。

 
最近寄贈していただきました書籍をご紹介します。

              ◎
恨韓論 黄文雄氏著 宝島社発行 著者より

犯中韓論 黄文雄氏著 幻冬舎ルネッサンス発行 著者より

ご寄贈いただきました黄文雄先生心より感謝申し上げます。

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2014年9月13日 (土)

日本は言霊が栄える国である

日本民族は、言葉を神聖視してきた。日本人は、萬物は言葉=神によって成ってゐると信じた。即ち言葉が事物の本質であるといふことを本然的に信じてゐた。

日本の國は、「言霊の幸はふ國」といはれる。日本は、言葉の霊が栄える国であり、言葉の霊の力によって生命が豊かに栄える国である、といふ意味である。日本人は、言葉に霊が宿ると信じ、言葉には生命を持ち、言葉を唱へることによってその霊の力が発揮されると信じた。

 

『御託宣』『神示』は神霊が籠り神威が表白された言葉である。『祝詞』は人間が神への訴へかけた言葉であり、『歌』も人間の魂の他者への訴へである。祝詞にも歌にも霊が込められてゐる。祝詞を唱へ歌を歌ふと、そこに宿る言霊が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言霊の幸はふ」といふことである。日本文藝の起源はここにある。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教は、神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、題目や称名念仏など特定の言葉を唱へることが基本的行事である。

 

 折口信夫氏は、「(言霊信仰とは)古くから傳っている言葉の持ってゐる霊力・魂というものを考へてゐるのであり、それが言霊、つまり言語の精霊である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・霊魂があると考へた。それが言霊である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の霊魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる霊魂が働きかけると信じてゐたのである。」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

「言霊のさきはふ國」といはれるわが國においては、祝詞や歌は何よりも大切な神への捧げものとされた。日本文藝の起源は、神への訴へかけである。やまとうた・和歌は神聖な文藝であると考へられてゐた。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源である。

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。「うた」の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。

 

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千駄木庵日乗九月十三日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿校正、書状執筆。

この後、施設に赴き、母と共に過ごす。母は、一緒に入所している方々と楽しそうに話している。この施設で生活するようになってとても元気になった。

帰宅後は、資料の整理など。

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皇祖たる日の神の神靈と稲穂の神靈とは一體である

 伊勢の神宮御正殿の建築様式を「唯一神明造」といふ。弥生時代の高床式の穀倉形式である。素朴であり、何の豪華さもない。しかし、いふにいはれぬ清浄さと威厳がある。日本文化の簡素さと清浄さを體現する建物である。日本人の信仰精神の結晶である。

 

神を祀る社殿のことを祠(ほこら)といふは、穂倉(ほくら)に由来するといはれる。人々の生命の根源である稲などの穀物の収蔵庫は神聖視されたので、神のまします建物が穂倉の形になったのであらう。

 

稲作は、日本人にとって、天照大御神の「みこともち(御神勅)」によって天照大御神の「ことよさし(御委任)」を受けたところの神聖なる「なりはひ」である。稲作生活そのものが神聖なる行事なのである。

 

稲穂にとって太陽の光と温熱は、生命の原動力である。稲などの穀物は、太陽の光明温熱がなければ発育しないので、自然に日の神祭祀と穀靈祭祀が二つながらに発展し、豊かにし、洗練され、高度化され、統一されて行ったと思はれる。

 

皇祖神たる日の神の神靈と、稲の命たる稲穂の靈(穀靈)とは一體となった。日靈・祖靈・穀靈は一體の関係にある。國民一人一人も、穀靈・日靈・祖靈の神靈に生かされてゐるのである。

 

日本民族の主食である稲穂の「ホ」とは、日であり火であり穂であるとされる。皇室の祖靈であらせられる火照命(別名・火須勢理命、邇邇藝命の御子) 火遠理命(別名・彦火火出見尊、邇邇藝命の御子)の「ホ」は、穂であり火であり日である。つまり、皇室の祖靈は稲穂の靈であり太陽神の靈であせられる。

 

 天照大御神は、「以吾高天原所御斎庭之穂、亦當御於吾兒」(吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭の穂を以て、亦吾が兒(みこ)に御(まか)せまつるべし。わが高天原に造ってゐる神に捧げる稲を育てる田の稲穂をわが子にまかせやう)といふ神勅を下された。「日本國の統治者たる天皇は常に稲穂の豊饒を最高の使命とすべし」とご命令されたのである。

 

天照大御神は、日神・穀靈・皇祖神としての御神格を有せられる。ゆへにその生みの御子たる天津彦彦火邇邇藝命も日神・穀靈を體現されるのである。高天原の主神たる天照大御神の生みの御子たる天皇が豊葦原瑞穂國の主であらせられると拝するのは、ごく自然な信仰である。

 

『日本書紀』には、物部大連尾輿と中臣連鎌子が、欽明天皇に奏上した言葉として、「我が國家(みかど)の、天下に王(きみ)とましますは、恒に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそかみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつ)りたまふことを事(わざ)とす」と記されてゐる。

 

天皇は祭祀主として日本國を統治されるのである。天皇の神聖権威の根源は祭祀主たることにある。

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千駄木庵日乗九月十二日

午前は、諸雑務。

 

午後は、資料の整理。

 

午後六時より、赤坂の日本財団ビルにて、『笹川平和財団主催講演会』開催。保阪修司日本エネルギー経済研究所理事がモデレーターを務め、ロシア科学アカデミー中東紛争分析センター長のアレキサンダー・シュミリン氏が「ロシアから見た中東情勢-シリア・イラク情勢保めぐって」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。きわめて興味深い内容で勉強になった。後日報告します。

帰途、赤坂にて、友人夫妻と懇談。

帰宅後は、書状執筆など。

 

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2014年9月11日 (木)

この頃詠みし歌

友達は女性を連れて去り行けり 我は一人で雨の道を帰る

 

一匹のゴキブリが床に動きをり 我以外の生物がこの部屋にゐる

 

わが祖國を貶め邪(よこしま)なる國に寄る 盲(めしひ)たる民未だ蠢く

 

父と共に生きてありし日 共に行きし阿波徳島への旅の思ひ出

 

父と共に眉山のふもとで名物のやき餅食せし遠き思ひ出

 

瞑目し神に祈れる夜の更けに命の力甦り来る

 

母上は泣きたまふなり 二日ぶりに施設を訪ねし我を迎へて

 

嗚呼かくてわが身は神に生かされてやすらけき道を歩み行かなむ

 

夕日まさに沈まむとして眩しくもわが身を照らす石段の上

 

若き友と眺めし海は今日もまたわが眼裏(まなうら)に見えて真青し(雨晴海岸)

 

憑かれたる如き顔せる老人がパチンコ店に入り行きたり

 

仏頂面の介護士を厭ふこの夕べ母のことを思へば文句も言へず

 

病人文學と蔑まれしことも一理あり 近代短歌に病(やまひ)の歌多し

 

つつましく信仰深く生きたまひし父の面影消ゆることなし

 

旺盛なる食欲の母 今日もまた 笑顔で我に真向かひてをり

 

多摩川のたもとに行きて遊びしは夢の如くに遠きいにしへ

 

肝心のことはしっかりと受け答へる母にしあればうれしかりけり

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千駄木庵日乗九月十一日

午前は、諸雑務。続いて、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

夕刻、千駄木にて、古くからの先輩同志と「國體政治研究会」の今後の活動について打ち合わせ。そして懇談、談論風発。

帰宅後も、原稿執筆、脱稿、送付。

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天照大御神の御神體・八咫鏡の意義

 三種の神器の一つである八咫鏡は、天照大御神が岩戸にお隠れになった時、石凝姥命(いしこりどめのみこと)がお造りした。天孫降臨後、天照大御神の神靈の依代(よりしろ)として宮中に安置され、垂仁天皇の時代に伊勢に移されたと傳へられる。伊勢神宮の御神體である。皇位継承のみしるしとして宮中賢所(かしこどころ)に代りの鏡がまつられてゐる。

 

『日本書紀』には、天照大御神が天忍穂耳命(あまのほしほみみのみこと・邇邇藝命の父神)に「宝鏡」を授けて

 

「視此宝鏡、当猶視吾、可与同殿共殿、以為斎鏡」(この鏡を視まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし。ともに床(ゆか)を同じくし殿(おほとの)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし)

と命じられたと記されてゐる。

 

『古事記』には、邇邇藝命が天降られる時、天照大御神が、三種の神器を副へて「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごと、斎(いつ)きまつれ」(この鏡こそはもっぱら私の魂として、私の前を祭るやうにお祭り申し上げよ)との御神勅を下されたと記されてゐる。

 

「八咫鏡」は、天照大御神の依代(よりしろ・神が顕現する時の媒體となるもの)として拝まれるのである。

 

『日本書紀』には、鏡を作って日の神の御像としたことが記されてゐる。鏡は三世紀代の古墳から発見されてをり、その頃には太陽神(日の神)祭祀に用いられてゐたと思はれる。太陽に鏡を向けると、その鏡は太陽と同じようにまぶしく光り輝くので、鏡は太陽神を象徴するのに最もふさわしいものであったと考へられる。

 

『古事記』には、天照大御神が天の岩屋戸にこもられた時、天照大御神に再び御出現していただくために、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が八咫鏡を作り、真榊に取り付けて、さまざまな事をして喜び遊んだ。天照大御神が不思議に思はれて岩戸から外を覗かれた時、八咫鏡を示した。大神は、ご自分の姿がその鏡に映ったのでいよいよ不思議に思はれ、岩戸より少し出られた所を手力男命が御手を取って外に引き出した、といふ神話が記されてゐる。

天の岩戸神話は、新嘗祭に発する本縁(事の起こり。由来や起源。縁起)譚であり、冬至の日に執り行はれた太陽復活祭であるといはれてゐる。

 

松前健氏は、「冬に衰える太陽の光熱の回復のため、その神の裔としての日の御子であり、且つその化身であると考えられた天皇に対して、そのたまふりを行なったのが趣意であろうということは、すでに定説化している。…冬至は、農耕民族においては、『古い太陽が死ぬ日』でもあったし、また『新しい太陽の誕生する日』でもあった。この衰弱死する古い太陽が磐隠りするアマテラスであり、このときふたたび生まれ出る新しい太陽が『磐戸を開いて出現する日の御子』である。」(『日本の神々』)と論じてをられる。

 

太陽復活祭たる天の岩戸開きは、新嘗祭・大嘗祭の原型と言ってよいと思ふ。ゆへにその祭りは、神々の知力・呪力・體力・技術力・笑ひの力といふもろもろの力が結集されてをり、これ以上盛大な祭りはないといふほどの祭りである。天皇は、新嘗祭・大嘗祭を通して、日の神たる天照大神の神威を體現されるご存在と仰がれるのである。

 

鏡は太陽の光を反射させるので、太陽神も鏡に宿るとされたと思はれる。祭祀によって「高天原を地上へ」「今即神代」といふ信仰が実現する。その時に「鏡」が重要な役目を持つのである。

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千駄木庵日乗九月十日

午前は、諸雑務。今夜行う『萬葉集』講義の準備。

午後三時より、お茶の水にて、『伝統と革新』編集実務担当者と打ち合わせ。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。大伴家持・山上憶良などの歌を講義。

帰途、出席者と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2014年9月10日 (水)

第四十四回・「日本の心を学ぶ会」のお知らせ

「大アジア主義」と「中華帝国主義」を考える

大アジア主義とは、西欧列強の侵略にアジア諸国が連携して対抗しようとする思想的潮流を言います。

日本においてアジアの独立運動の志士たちを、身を削って支援したのは頭山満をはじめとする在野の勢力でした。

韓国の金玉均、朴詠孝、中国の孫文、インドのビバリ・ボース、チャンドラボース、その他フィリピン、ベトナムなどの志士たちを頭山翁らは時の権力に抗いながら支援を続けました。

かつての日本も西欧列強の植民地化の危機にあり、アジアの諸民族の苦しみは決して他人ごとではなかったのです。

明治維新は欧米列強によるアジア侵略の危機に抗して国家の独立を守ろうとする決意と行動によって実現したが故に、侵略と植民地支配に苦しめられているアジア諸民族へ日本人が深い同情と連帯意識を感じるのは必然といえます。「大アジア主義」は明治維新の理想の延長線上にあったのです。

頭山翁らいわゆる右翼と呼ばれた人々がアジア独立の志士たちを支援したのもこのような思想的背景があってのことでした。

孫文は「日本の明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は第二の明治維新である」といい、「大アジア主義」と題された講演の中で、日本は西欧の「覇道文化の鷹犬」ではなく、「東洋王道の干城」になるように呼びかけました。

今日、アジアで覇道精神を実践し、軍事的・政治的・経済的拡張と侵略を行っているのは日本ではなく共産支那です。さらに、五族共和どころか共産支那国内の諸民族を抑圧しているのは共産支那です。

わが国の尖閣と沖縄を狙い、チベット、ウイグルはもとより南シナ海ではフィリピンと摩擦を起こし、ついにベトナム漁船を体当たりで沈没させる事態にまでその侵略性は増しております。

そして、共産中国の侵略に直面する国々から日本への期待が高まっています。

日本は再びアジアとの連帯を要求されているといえます。

今回の勉強会ではアジアに「中華帝国主義」が猛威を振るっている今日、先人達がめざした、「大アジア主義」について考えたいと思います。

【日 時】平成26928日(日)午後600分より

【会 場】文京区民センター2-B会議室

東京都文京区本郷

-15-14 

地下鉄春日駅 下車1分(大江戸線、三田線)

後楽園下車3分(丸の内線、南

北線)JR(水道橋)

【演 題】 

第一部 調整中

講師:瀨戸弘幸先生 BLOG日本よ何処へ

第二部 大アジア主義と脱亜論、その現代的意義 

講師:四宮正貴先生 四宮政治文化研究所代表 

 【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 この案内文は主催者が作成したものです。

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現御神信仰は今日においても「生きた真実」である

天皇を「日の御子」「天津日嗣日本天皇」と申し上げるのは、天皇が日の神の御神威を継承して日本國を統治されるお方であるといふことである。「天津」は高天原からの天津神から継承されてゐる神聖な、といふ意で、「日嗣」は天照大神から傳えられた「日霊」を継承するといふ意である。天皇は、即位の大礼・大嘗祭・新嘗祭を通して日の神=天照大神の神威・霊威を体現される御存在となられ、天照大神の「生みの御子」即ち「現御神」として君臨されることとなる。

 

天皇は、血統上は先帝から今上天皇が皇位を継承するのであるが、信仰上は御歴代の天皇お一方お一方が天照大神の「生みの御子」であらせられる。皇祖・天照大神との御関係は、邇邇藝命・神武天皇・今上天皇も同一である。これを「歴聖一如」と申し上げる。

 

地上に天降られた邇邇藝命は肉身としての皇統の祖として祭られ、南九州に御陵が鎮まってゐる。天照大神は皇祖神として伊勢の神宮に祭られている。

 

この尊い事実を會澤正志斎は、「神州は太陽の出ずる所、元気の始まる所にして、天日の之嗣、世(よよ)宸極(しんきょく)を御し、終古易(かは)らず」(『新論』)と言った。日蓮も「日本國の王となる人は天照大神の御魂の入代らせ給ふ王なり」(『高橋入道殿御返事』)と言ってゐる。現御神信仰・現人神信仰は決して近代日本において人為的オロギーとして作られたものではないのである。   

 

神々の中で最尊・最貴の神と仰がれる天照大神の御子であられる日本天皇は、雨の神・雷神などの自然神を従へられる御存在であるといふのが古代からの日本人の信仰であった。それは今日においても自然な日本傳統信仰として生き続けている。

 

昭和天皇は、昭和三十五年に、

さしのぼる 朝日の光り へだてなく 世を照らさむぞ わがねがひなる

 

と歌はれ、同三十四年には

 

あなうれし 神のみ前に 日の御子の いもせの契り 結ぶこの朝

 

と詠ませられてゐる。この二首の御製は天皇および皇太子は「天照大神の生みの子」即ち「日の御子」であるといふ御自覚を歌はれてゐるのである。

これらの御製を拝すれば、昭和天皇が「昭和二十一年元旦の詔書」においていはゆる「神格」を否定され「人間宣言」をされたなどというふ説が大きな誤りであることが分かる。天皇が現御神であらせられるといふことは古代日本人がつくりあげた「架空なる観念」ではなく、今日唯今においても「生きた真実」なのである。

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千駄木庵日乗九月九日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰宅後も、原稿執筆。

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2014年9月 9日 (火)

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神について

 『古事記』冒頭の「天之御中主神」をいかに把握するかは、日本神道を考へる上で、非常に重大な問題である。

 

『古事記』冒頭には、「天地初發の時、高天原になりませる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。

 

 日本神話においては神の御名が大きな意義を持つ。古代日本人は、神秘的信仰的な感動をもって神の名を付つけたのである。「天之御中主神」という御名は、日本人の壮大な神観・宇宙観を表している。「天」の「御中」の「主」の神である。大國主・大物主という神がいますごとく、日本人は「主(ぬし)」に対する尊敬心が深かった。天之御中主神は、「大宇宙の中心にいます主宰神」と申し上げて良いと思う。

 

 しかもこの神は、「天地初發の時」に「高天原になりませる神」である。天と地が初めては開かれた時に高天原に成りました神である。天地を創造したのではなく、天地と共に「なりませる(遍在する)」神である。「創造」は創造する神と創造された物が隔絶した関係となるが、「生成」(なりませる)は神と天地萬物萬生は根源的に一体関係であるとして把握される。つまり、天之御中主神は「天地の生成の本源神」として把握されている。

 

したがって単に日本民族特有の神あるいは単なる祖先神・自然神として把握されるべきではない。仏教の久遠の仏、キリスト教などの唯一神(怒りの神・妬みの神ではなく愛の神としての唯一神)と本質的には同じ存在であると把握すべきである。

 

さらに『古事記』には、天之御中主神の次に高御産巣日神、神産巣日神の名が示されている。そして「この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は、独り神すなわち“唯一神”であり、宇宙の根源神としてと書かれている。この三柱の神は「造化の三神」といわれるが、宇宙根源神・絶対神の「中心帰一」「多即一・一即多」「むすび」の原理を神の名として表現したのである。

 

この三柱の神は、天地宇宙の萬物萬生の普遍的根源神であるから、特定の個別化されたお姿を現されることはなく御身を隠されるのであるのである。だから、「みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されているのである。

 

日本國の神社には、太陽神・皇室の祖先神であられる天照大御神や、その弟神で豊饒神であられるの須佐之男命などをお祭りした神社は多いが、天之御中主神を個別神として祭った神社は非常に少ない。

 

天之御中主神は、唯一神であると共に八百萬の神々の「根源神」であられる。<一即多・多即一>の神であり、最高唯一神であるとともに萬物・萬生包容の神である。無限の可能性を有する大いなる宇宙主宰神・宇宙本源神が天之御中主神である。八百萬の神々は天之御中主神が無限の姿に現れ出られた神々である。

 

天之御中主神と一体の関係にある高御産巣日神、神産巣日神は、ムスビの神であり結合の原理であって、結びということが可能なのは“本来一つ”であるからなのである。この“結びの原理”(それは愛・和合・調和・合一と言い換えても良いと思う)というものが絶対神の中に、既に内包されているのである。天之御中主神は単なる理念の神ではなく、愛・和合の神と一体のである。

 

また、日本神話においては、神が天地を創造するのではなく、天地は神と共に「なりませる」存在なのである。天地・國の生成は、絶対神のうちに内在する“結びの原理”の展開としてあらわれてくるのであって、日本的思惟においてはすべて“一”をもって“創造の本源”とし、そこから無限の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものが生成するのである。そこに、多即一・一即多・中心帰一という大らかにして無限の包容性を持つ文字通り「大和(やまと)の精神」たる日本的思惟の根源が見出されるのである。

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千駄木庵日乗九月八日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。高岡旅行記そして大伴家持論を書いています。長文になりそうです。

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2014年9月 8日 (月)

日本人の神観念

戰爭の根本原因を取り除くためには、神は人間の罪を裁き人間を懲らしめる存在ではなく、人間は本來神と相対立し神に裁かれる存在ではないという信仰に回帰しなければならない。そして、人類の自己處罰方法たる戰爭を無用に歸せしめなければならない。

 

<神と人との合一><罪の意識の浄化>を最高形態としている信仰は、日本伝統信仰・神ながらの道である。全人類を戰爭の慘禍から救う道は、日本伝統信仰への回帰であ。日本伝統信仰の世界的に宣揚することが私たち日本民族の使命である。

 

日本の四季の変化が規則正しく温和な自然環境は、自然を友とし自然の中に神を観る信仰を生んだ。日本民族は、天地自然を神として拝む。神は到る処に充ち満ちています。自然が神である。

 

日本の神とはいかなるものか。本居宣長の『古事記伝』には次のように書かれている。 

「凡て迦微とは、古御典等(イニシヘノフミドモ) に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ) を祀(マツ)れる社に坐御靈(イマスミタマ)をも申し、又人はさらにも云鳥獣(トリケモノ) 木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニニ) にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ) き物を迦微とは云なり」と。

 

宣長は「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きものが神である」と定義している。「可畏し」という言葉の意味は、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々であろうが、それらを総合したような感情において神を考えるということであろう。日本民族は、天地自然に素直なる感動と畏敬の念を持ち、天地自然を神として拝んだのである。また、死者の靈も神として拝んだ。一神教の神観念とは大きく異なる。

 

それでは、日本民族の神観念と一神教の神観念とは全く相容れないかというとそうではない。日本人の神観念には、「神はこんな形だ」という一定の相形(すがたかたち)はない。神は無限である。だから、神はありとあらゆる姿に現れる。神は無相であると共に無限の相たり得るのである。日も月も山も海も大木も風も水も神として拝まれる。神は本来が無相であり無限であり、どんな姿にでも現れ、我々を護りたまうのである。

 

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千駄木庵日乗九月七日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰途、谷中で地元の友人と懇談。「夕焼け段々」(日暮里駅前の道路から谷中銀座にくだる石段がこう名付けられている)の夕日がきれいだった。「後藤の飴」で飴を買う。この店の飴は手作りなので美味しい。大正十一年創業で、「飴屋だからと言ってなめられないようにしている」という自負がある立派な三代目のご主人である。

帰宅後も、原稿執筆。

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2014年9月 6日 (土)

天皇及びご皇室はわが國の武の道統を体現し象徴される

    

天皇及びご皇室は「伝統の体現者」であられる。天皇及びご皇室はわが國の文武の道統を体現し象徴される。

 

わが國の武の精神・ますらをぶりは、古代以来の天皇及びご皇室の道統である。決して中世以降の武士階級の勃興によって生まれたものではない。わが國の武の精神・ますらをぶりの淵源は、須佐之男命・神武天皇・日本武尊の御事績である。そしてそれは歌心と一体なのである。これを「剣魂歌心」という。

 

比較的平和な時代であった平安時代や江戸時代には、天皇及びご皇室は「剣魂」「ますらをぶり」を発揮されることは少なかった。しかし、國家的危機においてはわが國は、天皇を中心とした國家的統一すなわち國體の本来の姿・あるべき姿に回帰する運動、そして天皇及びご皇室を中心にして「ますらをぶり」「剣魂」「もののふの心」が勃興した。

 

承久の変・元寇・建武中興・幕末の時期に起こった動きがそれである。元寇の時には「神國思想」が謳歌され、欧米列強による侵略の危機に遭遇した幕末においては「尊皇攘夷思想」が謳歌された。これは一部の人たちによって意図的に「作られた」のではない。危機にさらされたときに必ず起こるわが國の伝統である。

 

また、須佐之男命・神武天皇・日本武尊以来の日本皇室の武の精神・ますらをぶりは平安時代から明治の御代までの間断絶していたのではない。承久の変を起こされた後鳥羽上皇は御自ら、馬競べ・狩猟・水練・刀剣のご製作に励まれ、建武中興を断行された後醍醐天皇及び護良親王などの皇子方は率先して幕府方と戦われるなど、大いにますらをぶり・武の精神を発揮された。

 

幕末期のわが國のナショナリズム運動である尊皇攘夷運動は、孝明天皇の「戈とりてまもれ宮人こゝのへのみはしのさくら風そよぐなり」という「ますらをぶり」の大御歌にこたえたてまつらむとした多くの志士たちによって実行されたのである。

 

西欧列強の侵略からわが國を守り独立を維持しなければならなかった幕末以来大東亜戦争終結までの時期においては、民族的団結即ちナショナリズムが必要であった。江戸期と比較してかなり異様な歴史情勢・世界情勢だからそうなった。西洋の侵略に抗してわが國の独立を守り伝統を守護するために、天皇はますらをぶりを発揮され、日本國は日本ナショナリズムの核として天皇を戴いた。そして、近代において独立を守り通した天皇國日本は、西洋列強の侵略支配にさらされたアジアの希望の星となった。明治天皇は孝明天皇の大御心を継承され、わが皇室の道統たるますらをぶりを発揮されたのであった。

 

戦後日本は誤った<平和主義>に侵されて、軍事・防衛を忌避し自衛隊を日陰者扱いにした。そして、天皇及びご皇室は軍(自衛隊)から引き離され、天皇が自衛隊を親閲されることがない状況が続いていきた。

 

しかし、危機的状況を迎えた今日において、天皇を中心とする國體への回帰による危機突破という愛国心が勃興して来なければならない。それがわが國の歴史伝統である。       

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千駄木庵日乗九月六日

午前は、諸雑務。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。村井友秀防衛大学教授が「集団的自衛権とアジア」と題して講演。奥野誠亮・小田村四郎・池田維の三氏などが質問を行い、白熱した討論が行われた。小生も意見を申し述べた。後日報告します。

帰途、日比谷で古くからの先輩と懇談。阪東妻三郎、嵐寛寿郎など古き良き時代の映画俳優のことなどを語り合う。

帰宅後は、『政治文化情報』原稿執筆・書状執筆など。

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2014年9月 5日 (金)

憲法について

日本国は信仰共同体であり国民が契約を結んで人工的に作った国ではない。そして祭祀主である天皇は国民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。こうした日本の基本的国柄は成文憲法が制定される以前即ち明治初期以前から確立している。

 

信仰共同体日本における成文憲法は「第二の規定」である。西洋の契約思想や人間不信を基盤とした成文法に、神話の時代に発生し悠久の歴史を有する日本国体を規定することは、本来、不自然なことなのかも知れない。

 

西洋の国々の君主は人民を征服し武力と権力によってこれを支配服従せしめていた存在であった。そして君主と人民は相対立存在であった。だから、主権が君主にあるとか人民にあるとかという君主と人民の対立概念が出て来るのである。こういう日本に全くなじまない西洋概念で日本国体を規定すること自体無理だという考え方も成り立つ。

 

 近代日本に於ける成文憲法たる「大日本帝国憲法」の制定においてはこのことを考慮し、第一条から第三条において立国の基本(即ち不文法に定められた日本国体の基本・天皇中心の信仰共同体日本の本姿)を明らかに規定した。

 

 言うまでもないことだが、日本天皇が日本国の君主・統治者であらせられるのは、日本の伝統信仰・歴史的な国体観念に基づくのであって、憲法に規定されているから天皇が君主であらせられるのではない。

 

 「成文法以前の存在であるところの天皇中心の日本国体は成文法で規定する必要はなく、成文憲法には国の政治組織について規定するのみでよい」という論議もある。言い換えれば成文憲法には国体については規定せず、政体のみについて規定すればよいというのである。

 

 例えば、中川剛氏は「君主主権も不敬罪もヨーロッパ大陸の産物である。憲法を持つこと時代が、英米にはじまるものである。明治憲法はじつは極端なほど欧化政策の結果であった。明治憲法下の天皇制はむしろ伝統をねじ曲げるものだった。近代国家としての体裁を整えるための、たてまえとしての性格の強かった明治憲法であるから、憲法が制定されたからといってただちに、天皇が西欧の絶対君主なみの統治権を掌握したわけではなかった。天皇は制度とは別に、依然として国民的つながりの中心としての文化的存在でありつづけた。政治的天皇と文化的天皇の二重性をそこに認めることができる。」(『憲法を読む』)と論じている。

 

 ただ、「大日本帝国憲法」は、単に西洋立憲制度を模倣したというのではなく日本の伝統信仰の体現者として国家を統治される天皇の御本質を成文法によって名文化しようと努力したものといえる。

 

 葦津珍彦氏は「帝国憲法制定の歴史について、これを伊藤博文とか、井上毅等の官僚政治家が、西欧(とくにドイツ、プロシャ、バイエルンなど)の憲法をまねて起案し制定したもののように解釈する学者が多い。しかしそれは非常に浅い皮相の見解であって、全く日本国民の政治思想史を無視したものといわねばならない。この近代憲法ができるまでの歴史条件としては、少なくとも弘化・嘉永ころからの激しい政治思想の展開を見なければならない。黒船が日本に対して開国をせまって来たころから、徳川幕府がそれまでの独裁専決の政治原則に自信を失って、外交政策については『会議』によって国是を固めようとすることになってきた。この会議政治の思想が生じてきたことは、そののちの政治思想に決定的な波紋を生じた。」(近代民主主義の終末)と論じておられる。

 

 「大日本帝国憲法」の起草に当たった井上毅は、「御国の天日嗣の大御業の源は皇祖の御心の鏡持て天か下の民草をしろしめすという意義より成立したるものなり。かゝれば御国の国家成立の原理は、君民の約束のあらずして一の君徳なり。国家の始は君徳に基づくといふ一句は日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」「わが国の憲法は欧羅巴の憲法の写しにあらずして即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるなり」(『梧陰存稿』)と論じている。

 

 君主と民とは相対立しており国家は君と民、あるいは民同士の契約によって成立するなどという西洋法思想・国家観は、日本の国体観念・天皇観とは全く異質なものであると井上毅は説いているのである。

 

 ただ、井上はここで「君徳」と言っているが、日本天皇は人としての「徳」よりももっと深い「祭り主としての神聖権威」日本伝統信仰の言葉で言えば「御稜威」(みいつ)によって国家を統治したもうのである。御稜威とは天皇の有される神霊の威力というべきものである。

 

 折口信夫氏は「御稜威」について、「みいつといふ語の語根いつといふ語は、稜威といふ字をあてる…いつのちわき・いつのをたけびなどといふ風につかってゐます…天子に傳り、これが内にある時は、その威力が完全に発現するところの権威の原動力なる魂の名でありました。」(神々と民俗)「天子には天皇霊といふべき偉大な霊魂が必要であって、これが這入ると、天子としての立派な徳を表されるものと考へられてゐました。その徳をみいつといふ語で表してゐます。…これは天皇靈の信仰上の名稱でした。」(『鳥の聲』)と論じておられる。

 

そしてその御稜威(天皇靈)は大嘗祭において新しき天皇のお体に入るとされる。歴代天皇には「人」としての徳がいかにあられようと歴聖一如の「御稜威」によって国家を統治したまうのである。

 

ともかく井上毅・伊藤博文などの先人たちは、日本の國體を根幹としつつ近代成文憲法を実に苦心して作りあげたのである。『大日本帝国憲法』は、明治維新の輝かしい歴史の所産であり、日本国民の國體精神と政治的良識の結晶であった。

 

 ところが、「現行占領憲法」は最も大切な大日本帝国憲法の第一条から第三条までの成文化された国体法のを抹消した。さらに、「占領憲法」は、「大日本帝国憲法」には無かった「国民主権」を明示した上「天皇の神聖性」の規定を削除した。

 ゆえに、「大日本帝国憲法」を改正した憲法であるとする「現行占領憲法」は、「大日本帝国憲法」の改正限界を大きく超えて国体の基本を隠蔽してしまったのである。その上、日本の国体に全く合致しない西洋の悪しき普遍主義に毒されている。

 

 憲法が国家の存立の基本を破壊もしくは否定するようであれば、これを否定しなければならない。「現行占領憲法」はまさしくそういう憲法である。

 

 「現行占領憲法」に貫かれている国家を権力支配組織とする西洋法思想とりわけローマ法思想は、日本の国柄とは絶対に相容れない。なぜなら日本国は権力国家(統治権力組織)でも利益国家でもなく天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀国家であるからである。

 

 「主権」の問題一つ取ってみても、ローマ法においては、権力支配組織たる国家は「主権、人民、国土」の三要素があり、「主権」とは最高絶対排他的な支配権力とされる。かかる「主権」論から「主権は国民にある」とか「君主にある」とかという対立的な考え方が発生するのである。

 

しかし、日本国は権力支配組織ではないのだから西洋的主権論はあてはまらない。日本国の統治の大権は建国以来天皇にある。そして天皇と統治の大権は権力支配組織の支配権力ではなく、信仰共同体(人格国家)をしろしめすという意義である。

 

したがって、「現行占領憲法」の国家存立の基本に関する「(天皇の注)地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」という規定は日本の立国法(国体精神)とは全く異なるものといわなければならない。

 

 「現行占領憲法」は、日本国の基本的性格と全く異なる理念で作られている。 しかも「現行憲法」の制定過程もまた自主的なものではなく占領軍の強制によるものである。故にこの憲法には国家基本法としての実質的な有効性はない。

 

 今日において成文憲法を無くすことが不可能であるならば、一日も早く「現行占領憲法」の無効を確認し、日本國體に則った正しき憲法すなわち「大日本帝国憲法」に回帰すべきである。

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千駄木庵日乗九月五日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母と過ごす。食欲がかなりあり元気である。有り難い。

帰宅後は、原稿執筆、資料の整理。

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冷戦時代より危険性はずっと増している

共産支那は、「抗日戦争“勝利式典”」とやらを国家行事で開催した。しかし、共産支那即ち「中国共産党」は日本との戦争に勝ったことはない。勝ったのはアメリカだ。日本は米英支ソの「ポツダム宣言」を受諾したが、その時の支那政権は、戦後、共産党が大陸から追い出した国民党だ。中共は関係ない。

 

以前、酒場で共産支那から日本に来ている人と同席したことがある。その人曰く「我々は先の戦争で日本に勝ったとは思っていない。アメリカが勝ったと思っている。わが国が本当に力をつけて、今度は本当に日本に勝ちたいと思っている人が多い」と言っていた。

 

こういう考えの支那人は多いのだろう。そういう国が近隣国家なのだ。そして力をつけて「中華帝国主義」によるアジアでの軍事的・政治的・経済的覇権確立に狂奔しているのだ。そしてロシアとも手を組もうとしている。北朝鮮を手先に使っている。

 

冷戦時代と何ら変わりはないどころか、危険性はずっと増している。あの頃より、支那の軍事力は格段に増強されているのだ。わが国は、軍事力を一層増強しなればならない。東南アジア諸国と連携しなければならない。日米軍事同盟を強化しなければならない。

 

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千駄木庵日乗九月四日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿校正、『伝統と革新』編集の仕事など。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰途、千駄木にて地元の後輩と懇談。

帰宅後は、資料の整理など。

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2014年9月 4日 (木)

習近平のような人間を「盗人猛々しい奴」と言う

共産支那の習近平主席(共産党総書記)は、北京の人民大会堂で、「侵略の歴史の否認や歪曲、軍国主義の再来を決して許さない」と述べた。

 

「馬鹿も休み休み言え」と言いたい。侵略の歴史を繰り返し、今日唯今も侵略を繰り返しているのは共産支那である。歴史を歪曲しているのも共産支那である。アジア最大の軍国主義国家は共産支那ある。

 

習近平のような人間を「盗人猛々しい奴」と言う。

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深谷隆司氏の主張

深谷隆司氏のブログを転載させていただきます。

              ○

深谷隆司の言いたい放題第555回

 「朝日新聞の購読辞めました」
 私は政界を引退した今でも、仕事柄、ほぼ全社の新聞を購読している。
朝日新聞は不満を抱きながらも、少なくとも50年以上購読してきた。しかし、はっきり言って忍耐の限度を越えた。これ以上、嘘の多い、偏りすぎた記事と付き合うと、こちらの判断まで狂いかねず、「当分、購読は辞めた」、となったのである。

 「9月からは購読しません」と妻が告げると、「慰安婦問題ですか」と販売員は尋ね、いともあっさり引き揚げたと言う。

 週刊新潮は、「ある販売店のオーナーは、慰安婦報道の検証記事を掲載した8月5日、6日以降、長年の購読者10人以上が辞めた。全国販売店は3000を数えるから、3万部も減らしたことになる」と書いている。家に来た販売員の対応を見ると、そんな数ではきかないのではないか。公表部数760万部、今のままならもっと減るのではないか。「販売員が気の毒」と妻、ちょっと人が好いのでは・・・。
 私の友人には朝日新聞記者も多く、先週も何人かで酒を酌み交わしたばかりだが、皆真面目でいい人ばかり、その事を考えると確かに心苦しい。しかし、ここはマスコミの使命を自覚して、まっとうな姿になるまで、抗議を込めて辞めるしかないと思っている。

 今回、朝日新聞が掲載した慰安婦問題検証のポイントは、1.吉田書簡の真偽と、2.元記者植村隆による元慰安婦記事の捏造疑惑だ。

 吉田清治は1942年山口県労務報告会下関支部の労働部長だったが、「軍命で済州島に行き、泣き叫ぶ女性たちを強制連行し、1000名を慰安婦にした」と実体験として語ったり本にした。この程度の軽輩が軍命を受けてこれほど大規模、残虐なことが出来る筈は無いのだが、朝日新聞はこれを何度も取り上げ、歴史の事実の如く世界に喧伝してしまったのだ。

 案の定、地元「済州新聞」(1989年8月14日)が吉田証言は出鱈目だと報道し、他のマスコミの調査でも現地の人は、「そんな事実は無かった」と誰もが答えている、最後は本人まで認めているのに、朝日新聞は32年間も頬かむりしてきたのだ。
 植村元記者は1991年、元慰安婦のスクープ記事を書いたが、その慰安婦はキーセン学校に通い(この事実を隠した)、本当は身内による人身売買だったのに、強制連行されたように捏造記事にした。彼の妻は韓国人、その母親は慰安婦支援団体の幹部で、その慰安婦と共に裁判を起こしている。

 この記事の翌年、宮澤喜一首相が訪韓謝罪、翌々年河野談話を発表した。吉田証言とこの植村記事が、言いかえれば朝日新聞の繰り返し報道した誤った論調が、こうした下敷きになったのだから罪は大きい。

 ところが、朝日新聞は、「当時、どのマスコミも同じような事を書いていた」とか、「意図的な事実のねじ曲げはありません」と、言い訳や自己弁護で片付けようとしている。挙句の果てには論点を、「慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質です」とすり替えようとしている。呆れるではないか。

 こうした報道で、国際社会で「日本は性奴隷国家」といわれなきレッテルを張られてしまった。誤った歴史認識を世界の人に植え付け、今なお続く不毛な反日運動を勢いづかせてしまった。にもかかわらず、けしからんことに朝日新聞は謝罪も無ければ、責任を取ろうとしていないのだ。

 朝日新聞は世界に向けて訂正を発信する責任があると私は思う。少なくとも「吉田証言に関する記事は取り消す」と英文で国連機関や各国政府、議会、国連機関に提出すべきではないか。

 昨年まで主筆を務めた若宮啓文(あえて敬称無し)、竹島を韓国に譲るという「夢想」をコラムで書いていた。
 1989年には、西表島でサンゴに自ら傷をつけ、日本人のモラルの低下を記事にした馬鹿な朝日のカメラマンが居た。(この時は本人クビ、当時の社長は引責辞任)。

 福島原発元所長吉田昌郎氏が政府事故調査・検証委員会の調べに答えた調書のスクープが5月20日朝日新聞に出た。朝日は「東電社員たちが、所長の命令に違反して撤退した」と書いたが、産経新聞は「所長の命令で退避した」と逆の報道になっている。

 実際には、所員は一時的に退避し、数時間後には戻って来ていた。朝日は「一時退避」を「撤退」とねじ曲げてしまったのである。命がけで守り抜き、遂に亡くなった吉田所長、死者に鞭打つ朝日の神経が判らない。
 何でも「自分が」と、あの当時大変な混乱を招いた菅直人元首相の言い分を鵜呑みにしたらしいのだが、朝日新聞の体質とは、そんな程度なのだ。


 色々、思い返すたびに、やっぱり「ひどいものだ」の一言に尽きるようだ。
 購読を辞めて当然、と改めて思うのであった。

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2014年9月 3日 (水)

田久保忠衛杏林大学名誉教授による「アメリカの『アジア回帰』は本物か」題する講演内容

七月五日に行われた『アジア問題懇話会』における田久保忠衛杏林大学名誉教授による「アメリカの『アジア回帰』は本物か」題する講演内容は次の通り。

 

「台頭してきた中国が富国強兵を何時まで続けるのか。アメリカの指導力の衰退、オバマ大統領の支持率最低。アメリカは戦争をする気なし。アメリカはネジが緩んでしまった。シリア、イラン、イラク全てでボルトが緩んでしまった。世界大動乱が始まり、アメリカの次の指導者がどうするか。

 

安倍晋三氏は一つの使命感を持っている。国際環境を知っているので緊張感を持っている。

 

イラクからシリアへ大量の毒ガス兵器が運ばれた。ブッシュを叩くアンチテーゼで生まれたのがオバマ。海外に出ていくのを止めるという政権。アフガンから今年末に引き揚げてしまう。中国の抬頭を見逃してしまった。

 

中国は周辺に出て、基地を作っている。極東部は中国の経済的支配下に入るかもしれない。中ロ関係強化は根拠なし。中露は融和しない。

 

『中東の春』で混乱状況になり、アメリカはアジアに手が付かなかった。戦略家は『力を持っていない国をプレーヤーとは見做さない、力を持っていなければ外交はできない』と見る。『アジアで一番力を持っている國と仲良くしてとりしきれば世界は安定する』と言う人がいる。台湾、チベット、ウイグル、南シナ海、尖閣が中国の核心的利益に含まれる。五月に来日した時、オバマは『尖閣は安保条約十五条が適用される、尖閣は日本の施政権に含まれる』と言った。力が無いとどうしようもない。フィリッピンは中国にやられた。延坪島砲撃事件で韓国軍の報復をアメリカが抑えた。

 

私はコソボ紛争の頃から『アメリカはおかしい』と思うようになった。オバマは、外交防衛は素人。アメリカに孤立主義が生まれてきている。内向きになっている。アメリカの国力は衰退していない。しかし指導者の質が低下している。

 

『集団的自衛権』に反対している政党・マスコミの立地点は中国と同じ。安倍は孤立していない。自信を持って良い。日本は独立自尊の精神を持って自衛力を強化すべし。

 

防衛出動が発せられる前に中国が挑発してきても日本は何も出来ない。憲法九条を無くして自衛隊を国軍にすればすべてが解決する。衆参両院同時選挙で『憲法改正』をぶつければ、一つの展望が開ける。

 

中国は経済矛盾がどうしようもなくなっている。党幹部の腐敗が凄まじい。清廉潔白と言われて温家宝の家族も腐敗。水、土壌、大気の汚染がひどい。民族問題は弾圧すればするほど燃え盛る。アメリカは『中国はほっておいてもつぶれる』と思っているのではないか。中国はシビリアンコントロールがくずれはじめたのではないか。そこで、習近平は軍に手を付け始めたのではないか。防空識別圏の事も国家として整然とした行動なのかどうか疑問を持つ。

 

官邸内にも反対が多かったのに、安倍総理は靖國神社に参拝した。安倍氏は傑出した判断力を持った政治家。これからの世の中は『口だけ番長』では駄目」。

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千駄木庵日乗九月三日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、来週行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備、原稿執筆など。

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四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十六年九月号のお知らせ

 
『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。
 

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

 

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十六年九月号(平成二十六年八月二十五日発行)の内容

〈皇都の一隅より〉

「月」について

月讀命をお祀りする神社が比較的少ない理由

 

日本人は上代から今日に至るまで、月を愛で、月を拝み、月を歌って来た

 

「月」が歌はれた額田王の歌

 

「月」が歌はれた天智天皇の御製

 

「月」が歌はれた柿本人麿の歌

 

月が信仰の対象として崇められた歴史

 

月の美しさを詠んだ萬葉歌

 

「月」を詠んだ『百人一首』の歌

 

「月」を詠んだ近現代短歌

 

「月」が歌はれた民謡・歌謡曲

 

千駄木庵日乗

深見東州氏「日本文化を知ってもらうため。度胸良く世界にぶちかます、根性で生きることが大事」

 

クリス・ネルソン氏(サミュエルズ・インターナショナル上級副社長、「ネルソン・レポート」編集長兼発行人)「中國は軍事力を使って変化をもたらそうとしている。中國は過剰に自信を持ち、傲慢になった。十九世紀型の帝國主義の主張をするようになっている。二十世紀の最悪の側面を再現しようとしている」

 

高原明生東京大學大學院教授「中國は情報戦に努力している。数多くの人を雇っている。日本との勝負はついている。偏った日中関係の理解がアメリカの中で広がる」

 

沈斯淳台北駐日経済文化代表処代表「台湾は國際社会のピースメーカー、新しいテクノロジーの提供者。中華文化の継承者」

 

この頃詠みし歌

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「萬葉古代史研究會 」のお知らせ

四宮正貴が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 日時 九月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

東京都豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 山手線駒込駅北口徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』。

 初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

 

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古代日本人の霊魂観・死生観

「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隱りなむ」

 

 大津皇子が、持統天皇より死を賜った時の辞世の御歌である。     

 

 「雲隱りなむ」は、死んでしまふことだなあといふ意。雲は人の霊魂を運ぶといふ信仰があった。「雲に隠れる」とは死ぬこと。人間の霊魂は死んだら雲になると信じた。

 

 日本武尊は亡くなる時、「はしけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も」(懐かしいわが家の方から雲が立ち上って来るよ)と歌はれた。すでに自分の魂は自分の家の方には帰ってゐると歌ったのである。

 

 柿本人麻呂が、溺れ死にした出雲娘子が火葬されたときの挽歌に、「山のまゆ 出雲の兒らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく」といふのがある。火葬のときの煙を見て、出雲娘子は霧になって天に昇っていったと歌ったのである。萬葉集初期の頃に、火葬が始まった。

 

 雲に隠れるといふのは、自分の生命は死んだら雲の中に隠れて永遠の生命を保つといふ信仰なのである。一種のアニミズムであり、自然の中に霊魂・精霊が宿るといふ信仰である。この世からいなくなるのは幽(かく)り世に行くことなのである。

 

 大津皇子の御歌の通釈は、「(ももづたふ)磐余の池に鳴いてゐる鴨を今日を限りの見納めとして死んで行くのであるなあ」といふ意。

 

 『懐風藻』には、大津皇子の辞世の漢詩として「金烏臨西舎、鼓声催短命、泉路無賓主、今夕誰家向」(金烏西舎に臨(のぞ)み、鼓声短命をうながす、泉路(せんろ)賓主(ひんしゅ)無し、この夕べ誰か家にか向かふ。太陽は西に傾き、命を刻む鼓の音、出迎へる人の無しといふ、この夕べあの世は何処こにあるのか、といふ意)が収められてゐる。

 

 大津皇子が処刑されに行く途上で、鴨の番(つがひ)を見て見納めとするといふの御歌。磐余の池に泳いでゐる鴨の番ひを見て見納めとするといふことは、愛する妻とご自分との別れを歌ってをられるのではないかといふ推測も生まれる。全生涯をこの一瞬に凝縮させてゐるといへる。   

                            

 鳥は人間の魂を運ぶ鳥とされた。肉体を自由に離れる霊魂を象徴する動物である。日本武尊は薨去されたあと白鳥となって故郷の大和へ帰られる。それが人間の精神的自由の象徴ともなった。

 

 舒明天皇の国見の御製に「國原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ」と歌はれてゐる。煙が立ちかまめが立つといふのは、国土の生命力が活発に活動してゐることを言ってゐる。

 

 鴨といふ水鳥を「見る」といふことは、その鳥の持ってゐる生命力を自分のものにしたいなあといふ心があるといふことである。即ち、処刑される自分が今日を限りの見納めとして鳴く水鳥を見てその生命力を自分の身に付けて永遠の生命としたいといふ切なる願望を歌ったのである。                           

 

 「見る」とは、単に視覚的の見るといふだけではない。天皇の「国見」も、単に国土の景色を視覚的に眺めるといふことではなく、国土の豊饒を祝福し祈るといふ意義がある。「見る」ことによって生命力が感染し自分の生命力が強化するといふ深い信仰心が込められてゐる。「見る」とはお互ひの魂の結合を感じるといふ意味も込められる。

 

 柿本人麻呂の旅の歌に「天ざかる夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ戀ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ」がある。これも単に大和の景色が見えるといふのではなく、人麻呂の故郷である懐かしい大和の国の明石海峡から見えたなあといふ大和の国と人麻呂との魂的一体感・結合感を歌ったのである。

 

 鴨の姿は毎年見慣れてゐる。しかしもうすぐ黄泉路へ行く大津皇子にとって鴨を見ることは格別の感慨を抱かせたのである。

 

 有間皇子(孝徳天皇の皇子。謀反の罪で処刑)の辞世の御歌は「磐白の 濱松が枝を 引き結び まさきくあらば またかへり見む」である。やはり自分が処刑されずに無事であったら、またこの浜松の枝を見やうといふ意である。   

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千駄木庵日乗九月二日

午前は、諸雑務。

午後は、『月刊日本』連載の「萬葉集」講義原稿執筆。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

夜、動坂下にて、「全国邪馬台国連絡協議会」幹事の本山裕彦氏と懇談・意見交換。

帰宅後は、原稿執筆、脱稿、送付。

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2014年9月 1日 (月)

天皇・皇室と和歌

和歌は、伝統の継承と創造とは一体の文藝である。歌を詠む人は、先人の和歌を手本として学ぶ。和歌の原点を常に顧みながら新しい創造を行なってきた。即ち伝統と創造が一体になってゐる。ここに和歌文学の特質がある。日本人は伝統の継承から創造を学んだ。和歌はその典型である。

 

これは、皇位継承・伊勢の神宮御遷宮と相似である。日本天皇の肉身はやがてお隠れになられるが、皇位は不滅であり皇統連綿であり萬世一系である。先帝がお隠れになると新帝が即位の大典を執行され大嘗祭を行はれることによって、新しき肉体であらせられながら邇邇藝命以来の皇統を継承される。伊勢の皇大神宮は、御祭神の天照大御神の御神霊は永遠であるが、神殿は二十年ごとに造り替へられる。

 

伝統を継承しながら、常に新たなる生命が甦るといふのが、わが国の皇位であり、伊勢の神宮であり、和歌なのである。これは他国には見られないわが日本の特質である。わが國の國體が万邦無比であるといふのは事実なのである。

 

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが国に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

 

天皇の国家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の国家御統治と一体である。天皇国家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給うために実に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の国家統治は和歌とは切り離し難く一体である。天皇の国家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって国民と国土を支配するのではない。日本天皇は、「祭祀=まつりごと」と和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって国民と国土を統治されるのである。

 

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも国をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

 

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまひことを国家統治の基本とされたといふことである。

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千駄木庵日乗九月一日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。大忙し。

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最近寄贈していただいた書籍

最近寄贈していただいた書籍を紹介します。寄贈して下さった方に心より感謝いたします。

「大化改新」 倉田百三氏著 紀元社昭和十九年五月二十日発行  杉本延博氏より 

「日本を恐れ、妬み続ける中国」 黄文雄氏著 KKベストセラーズ平成平成二十六年八月三十一日発行 著者より

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「大化改新」 倉田百三氏著 紀元社昭和十九年五月二十日発行  杉本延博氏より 

「日本を恐れ、妬み続ける中国」 黄文雄氏著 KKベストセラーズ平成平成二十六年八月三十一日発行 著者より

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この頃詠みし歌

 

戦没者慰霊鎮魂の記念日に祖国貶める人ら醜し

 

「反天連」などといふもの共が蛆虫の如く蠢く「終戦記念日」

 

大新聞の記者の男は酔ひしままに「ペンは人を殺せる」などとのたまひにけり

 

自らの命を絶ちし科学者はNHKに殺されしかと密かに思ふ

 

侵略国家ロシアを自由民主国などと言ふ人のゐることの危うさ

 

真夜中に窓を開ければ中天に月冴えかへるひそやかさかな

 

歌に俳句に詠まれ続けて幾百年今宵も空に月浮かびゐる

 

命ある限りすこやけく生きませと念じつつ母の車椅子押す

 

わが母と語らふ時を大切に 楽しく過ごす施設の一室

 

聖子といふ立派な名前を持ちし人パワハラとやらで批判受けをり

 

ビールの小瓶呑みつつ食す鯉のあらい暑き日なればなほうまきかな

 

スカイツリーを眺めて立てば夜の空に「未確認飛行物体」飛びて行くなり

 

夏の終はりを告げる祭礼の音を聞く夕暮時はさみしかりけり

 

日暮里の諏訪の社t(やしろ)の祭礼は夏の終はりを告げてさみしも

 

神輿の声聞こえ来るなる昼下がり日暮里諏訪社の夏祭りかな

 

父と見たる「森は生きてゐる」といふ映画 半世紀過ぎても忘らへなくに

 

「ピーターパン」「不思議の国のアリス」 父と共に観に行きにける映画なりけり

 

三日ともたぬ花を惜しみて水を換へ萎れたるままに飾り置くなり

 

わが母は食欲旺盛に日々(にちにち)を過ごしたまへば嬉しかりけり

 

都庁舎の高層ビルの下にして降りしきる雨の能舞台かな(『東京大薪能』)

 

大地をば踏み鳴らしつつ歩み行く雨降る夜は力湧き来る

 

逝きにし友が次第を多くなりゆけば過ぎにし日々がよみがへり来る

 

秋来れば何となくさみしき心となる 日没早まりし夕闇の中

 

ともかくも強く元気よく生きるべしと思ひつつ下駄履き街歩み行く

 

佳き人に逢ひたしと思ふ日々なれば面影は常に新しきかな

 

心やさしき人の面影浮かび来る真夏日の下の出逢ひなりしに

 

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越中高岡の旅の歌

 

未だ見ぬ雨晴海岸を訪ね行く明日よりの旅は楽しかるらむ

 

灼熱の太陽の下 家持卿の像を拝ろがむ越中二上山

 

越中の二上山の緑をば仰ぎていにしへの歌人(うたびと)を偲ぷ

 

数々の美しき歌を詠みたまひし家持卿を偲ぶ旅かな

 

越中を夏の盛りに訪ね来て家持を祀る社(やしろ)をろがむ

 

静かなる雨晴の海の真青さをしぱし眺めて心すがしも

 

中越パルプの大き工場の煙突を見上げて溜息をつきにけるかも

 

大き伽藍を仰ぎつつはるかいにしへの大き歌人を偲ぶひと時

 

東京では見ることのなきトンボ飛ぶ越中高岡の夏の旅かな

 

東京ではしばらく見ざりしトンボ飛ぶあきつしま大和の國の高岡の町

 

若き友が我を案内してくれにけるうれしさを今宵かみしめてをり

 

向日葵が真夏日のもとに林立す家持ゆかりの越中高岡

 

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千駄木庵日乗八月三十一日

午前は、諸雑務。

午後は、今日の講演の準備。

この後、施設の赴き、母と過ごす。介護の方と相談。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『第四十三回 日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が挨拶。小生が「宗教は現代を救えるか」と題して講演、そして瀬戸弘幸氏が「創価学会について」と題して講演。活発津に質疑が行われた。

帰宅後は、原稿執筆。

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