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2014年8月19日 (火)

わが國においては易姓革命思想は、絶対的に排除されていた。

何とかして日本皇室の萬世一系・皇統連綿の伝統を否定したい反日歴史学者は、いろいろ想像を逞しくして、わが國古代に王朝の交替があったと主張する。そして葛城王朝・三輪王朝・河内王朝などという「王朝」なるものを設定している。

 

しかし、葛城氏や蘇我氏の権勢が強かったとしても、それは天皇の神聖権威を背景としたものであった。

 

皇統の断絶が案じられた武烈天皇崩御の時も、大伴氏や物部氏という大臣・大連は、大きな権勢を持っていたのであるから、支那などであれば自ら王位を狙い新たな王朝を立てることはできた。にもかかわらず、応神天皇五世の御子孫男大迹尊(おおどののみこと)をお迎えして天皇の御位について頂いた。この事実は、当時すでに萬世一系皇統連綿の道統が継承され続けたことを証ししている。

 

また、『日本書紀』には先帝・武烈天皇の「無道の所業」が記されている。さらに武烈天皇には御子がおられなかった。にもかかわらず、大和朝廷打倒=革命という事態にならず、皇統に属する方を求めて、皇位をお継ぎ頂いたことは、萬世一系・皇統連綿の道統がゆるがなかったことを証ししている。 

 

支那などの外國ではこういう状況下では革命が起り、臣下の中から力のある者が王者となり新しい王朝が建てられるのが常である。支那においては、「天子」には有徳の人物が天命を受けてなるものであり、天子が徳を失えば位を他の人に譲らねばならなかった。これを易姓革命思想(支那古来の政治思想。徳のある者が徳のない君主を倒し、新しい王朝を立てること)・有徳王君主思想という。

 

しかし、わが國においては、こうした革命思想は最初から排除されていた。いかなることがあっても天皇・皇室打倒の革命は起らず、たとえご縁が遠くなっていても、皇統に属する御方を求めて「天皇」の位についていただいた。

 

つまり、繼體天皇の御代において「日本の天皇(スメラミコト)になられる方は、天照大御神の生みの御子たる邇邇藝命そしてその御子孫たる人皇初代・神武天皇の皇統に属する方でなければならない」という考え方が継承され確立していたのである。

 

言い換えると、わが國にはどのような事態になろうとも、天皇・皇室を排除して自分が日本國の支配者・統治者になろうとする者はいなかったのである。

わが國は、天皇を天照大御神の生みの御子=現御神と仰ぐ。どこまでも皇祖天照大御以来の皇統に属する御方に皇位を継承していただいてきたのである。それは古代から今日にいたるまでのわが國の揺るぎない道統である。

 

皇室典範改定・皇位継承は、外来思想に拘泥されることなく、あくまでもわが國の歴史と伝統に基いて行なわれなければならない。権力機関である衆参両院や政府が決めるべきではない。祭祀國家の祭祀主たるスメラミコトの御位即ち「天津日嗣の高御座」の御継承は、日本國體精神の体現者であらせられる祭祀主・上御一人の大御心を基にするべきである。

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