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2014年7月30日 (水)

『楠公祭』における西村眞悟衆議院議員の講演

五月二十五日に行われた『楠公祭』における西村眞悟衆議院議員の「混迷の世に正成一人の気概を」と題する講演内容は次の通り。

 

「私は、正成公と同じ郷里に生まれている。大阪湾に船を浮かべると、大阪湾は山に囲まれた湖に見える。正成公は金剛山の下の千早赤阪に生まれた。幼名は多聞丸。千早赤阪村立赤阪小学校があった。千早赤阪村役場の横に、千早赤阪村立中学校がある。赤坂城の跡である。誕生の地。南西五キロに観心寺がある。

 

正成公は河内の悪党と言われる武装集団の長。元弘元年九月赤坂城で挙兵。元弘三年、正成公らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、鎌倉幕府は滅亡し、建武中興が行われた。その三年後、建武三年五月、正成公は湊川で戦死された。金剛山の楠公父子訣別の地に、乃木大将書の碑がある。正行は亡父の遺志を継いで、足利と戦った。そして櫻井の訣別から十一年後の正平三年に四條畷の戦いにおいて弟の正時もろとも玉砕した。正成公没後二二三年後に、朝敵の汚名は取り消された。楠公没後三六〇年の元禄五年、水戸光圀公は「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建立。

 

『楠のいま大石となりにけりなほ(名を)も朽ちせぬ忠孝をなす』という落首が赤穂事件の直後に出た。大石良雄は足利氏出自の吉良の首を挙げた。朝敵討滅の本懐が遂げられた。吉田松陰は湊川に詣でた時、「人間の生死 何ぞ言うに足らんや。頑を廉にし懦を立つる 公は死せず」という詩を詠んだ。

 

明治天皇は、明治元年三月一四日『五箇条の御誓文』『国威宣布の宸翰』を発せられ、湊川神社を創建するようお命じになった。乃木大将閣下は、昭和天皇に『中朝事実』を託された。山鹿素行は、楠公精神の大きな影響を受けた。素行によって教育を受けた大石良雄たちは高家筆頭吉良上野介を討つ。尊皇精神・楠公精神を素行から教えられたのが、大石などの赤穂義士。七生報国の精神を継承した。

 

楠公は何故湊川に赴いたのか。これを解く鍵は日本人の死生観と戦闘姿勢に拠る。これを解くと、大西郷の自決、三島由紀夫の自決、大石は何故吉良を討ったのかが分かる。東日本大震災で、放送を止めずに津波にのまれた女性、津波に向かって走って行った警察官の姿勢の思想と同じ。『未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん』というのが孔子の思想。我々は今日死を覚悟している。『太平記』の『正季からからと打笑て、七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ』は、特攻隊が出撃の時の笑いと同じ。元寇の時、八十余人しかいなかった対馬の武士たちは全員笑いながら元軍と戦って玉砕。壹岐の鎌倉武士も玉砕。戦前と戦後は断絶していない。

 

『昭和二十一年一月一日の詔書』を『人間宣言』などと教えているが断じて間違い。『五箇条の御誓文』を冒頭に掲げられ『叡旨(えいし)公明正大、又何ヲカ加ヘン』と仰せになっている。同じ日に渙発された『国威宣布の宸翰』を拝すべし。湊川神社建立の大御心を拝すべし。これが明治の御代の力の源泉。日本人本来の姿を回復しなければならない。七生報国の姿勢を我々も持つべし。

 

敵を騙して殺戮することが孫子の兵法。習近平接見について小沢一郎が発言した時、明確なる殺意を持った。公のために死ぬ、それが忠臣蔵の本質。だから正々堂々と吉良邸の大門から入った」。

               〇

西村眞悟氏の勤皇の精神はますます光輝いている。有難いことである。

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