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2014年7月21日 (月)

「元初の清浄なる日本」に帰ることが維新である

「神話の精神」は今日唯今、「天皇の祭祀」に脈々と継承され生きてゐる。太古の神話の精神が今日も生き続けている民族は日本民族のみである。ゆゑに、わが國體は萬邦無比なのである。

 

わが國には、「今即神代・神代即今」「高天原を地上へ」といふ言葉がある。西田幾多郎氏は、「神皇正統記が大日本者神國なり、異朝には其たぐひなしといふ我國の國體には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が萬世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云ふことは、単に直線的と云ふことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云ふことでなければならない。天地の始は今日を始とするといふ理も、そこから出て来るのである。慈遍は神代在今、莫謂往昔とも云ふ(旧事本紀玄義)。日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云ふことにあるのである。」(世界新秩序の原理・「西田幾多郎全集 第十二巻」所収)

 

「日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云ふことにある」といふことが非常に重要である。わが民族は、神代・天上の理想國を地上・今の代と隔絶した存在とは決して考へなかったのである。神代は時間を超越した實在である。今此処が神代なのである。「神代今に在り、往昔と謂ふ莫れ」とはさういふことを意味する。それは観念的論議ではない。日本の天地自然の中に神々は生きてゐたまふといふわが國の傳統信仰である。

「神代即今」「今即神代」の理想を継承し顕現させることによって、現代を祓ひ清め変革することが真の「復古即革新」すなはち維新である。「復古」の「古」とは「元初の日本」「永遠にして常に新しい神代」のことである。

 

大東亜戦争敗北以来、わが國は、天皇を祭祀主と仰ぐ日本國體の真姿を隠蔽し、政治・外交・経済・軍事などの國家の根幹に関はる面で自主独立性を喪失してゐる。今こそ復古即革新すなはち維新の戦ひを断行し、日本のあるべき姿を回復し、國難を乗り越えなければならない。

 

神代以来の祭祀國家・信仰共同体たる日本の真姿の中心におはしますご存在が、祭祀主たる天皇であらせられる。天皇がおはしまさずして、真の日本はあり得ない。祭祀主であらせられ、神の如くに清浄なるご存在であり、尊厳性・道義性の体現者であらせられる天皇に帰一する日本を復興することが、國體の開顕であり明徴化である。

 

我が國國民の心の底にある國體精神を蘇らしめ、それを核として強大な統合力を生み出し、混迷せる状況に対して革新の行動を起こすことが今求められてゐる。

 

わが國は日本喪失の精神状況から脱出して、日本民族の誇りと矜持を取り戻さねばならない。それは偏狭な排外主義・独善に陥ることでは決してない。「神話の精神の復活」によって精神の救済を図るといふことである。

 

民族の歴史と傳統の精神を変革の原理とする日本の維新は、維新を志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって實現する。

 

今日の危機的状況を國體の真姿に開顕する事によって、危機を乗り越えていかねばならない。必ず乗り越えることができると確信する。わが日本國民が護るべき最高のものは國體であり、変えるべきものは國體の真姿を隠蔽する全ての事象である。

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