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2014年7月14日 (月)

日本国家の本質と『現行占領憲法』

古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中核が<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體なのである。

 

天皇国日本は、そこに住む人々の共同の意識・倫理観・信仰精神と共にある。祭祀主たる天皇は権力者ではないし権力機関でもない。その共同体に生活する国民は、天皇の大御宝と尊ばれ、神の子として育まれ、美しいものへの憧憬憬の心を育てられて生きてきた。

 

その信仰共同体としての国は、母なる大地であり、まさに祖国であり母国である。日本国は、親と子との関係と同じ精神的結合によって形成されてゐるのである。

 

祭祀主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理即ち現御神であらせられるのであって、國民が作った成文法によって制限され、規制される存在ではない。

 

伊藤博文は、明治十五年の書いたといふ岩倉具視宛の書簡で、「…我皇室の如きは、二千五百有余年、邦国の体裁を固定せざる以前に於て、既に君主の地位を占む。豈に国憲を定め国会を起すの時に至り、始めて君主たる事を認めらるゝを俣たんや。」(『伊藤博文傳』中巻)と書いてゐる。

 

 国家体制が制度的・法的に確立した時期よりはるか以前から、すなはち天孫降臨以来、天皇はわが國に君臨せられてゐたのである。

 

 野口武彦氏は、「美濃部達吉は『帝国の國體と帝国憲法』(大正二年)といふ著書で、『國體』とは『国家の成立する基礎たる精神』、『国家団結の基づく所の民族精神』であり、従って『単純なる法律上の観念に非ず』といい、さらに『國體は憲法上の観念に非ずして主としては倫理上の観念なり。憲法は国の政治組織を定むと雖も國體を定むることなし』と明言してゐる。そして『政体』の概念については、『我が帝国の國體に基く憲法上の特色は萬世一系の皇統を君主として奉戴する君主政体なることに存す』とい命題が明確に述べているとおり、これを国家の政治組織と定義しているのである。」(『王道と革命の間』)と述べてゐる。

 

 西洋の国家観は、ある特定の地域の内部で物理的暴力による支配機構といふ事らしい。国家は個人の抑圧装置としてゐる。個人にとって国家とは本質的に敵である。『現行占領憲法』は基本的にかかる西洋的権力国家観が基本となっている。このやうなものは一日も早く無効を確認しなければならない。

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