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2014年6月 2日 (月)

『天壌無窮の御神勅』と吉田松陰先生

吉田松陰は、安政六年四月頃、萩獄中に於いて記した『坐獄日録』に、「吾幼にして漢籍にのみ侵淫して、尊き皇國の事に甚だ疎ければ、事々恥思ふも多けれど、試みに思ふ所と見聞する所を挙げて自ら省み且同志の人々へも示すなり。抑々皇統綿々千万世に伝りて、変易なきこと偶然に非ずして、即ち皇道の基本亦爰にあるなり。蓋し天照大神の神器を天孫瓊瓊杵尊に伝へ給へるや、宝祚之隆与天壌無窮の御誓あり。されば、漢土天竺の臣道は、吾知らず、皇國に於ては、宝祚素より無窮なれば、臣道も亦無窮なること深く思を留むべし」と記してゐる。純日本精神への回帰である。

 

安政六年五月、松陰は幕府の命により江戸に送られた。出発直前の五月十八日、松陰に代って松下村塾の教育に当たる事となった小田村伊之助(後の楫取素彦)に宛てた手紙に記された言葉が「至誠にして動かざる者未だ之あらざなり。…願はくは身を以て之を験さん。乃ち死生の大事の如きは、姑くこれを置く」である。

 

松陰は、安政六年六月二十四日に江戸に到着。長州藩邸の獄につながれる。七月九日、幕府評定所の呼び出しがあり、幕吏の尋問を受け、伝馬町の獄に入れられ、以後、幕吏の尋問を受けた。

 

八月十三日付の久保清太郎・久坂玄随宛の松陰の手紙には「天下の事追々面白くなるなり。挫する勿れ。神州必ず不滅なり」と書かれてゐる。

 

十月十一日付の堀江克之助宛の手紙には、「天照の神勅に『日嗣之隆(あまつひつぎのさかえまさんこと)、与天壌無窮(あめつちときはまりなかるべし)』と之有り候。神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正氣重ねて発生の時は必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と記し、

 

「皇神(すめかみ)の誓おきたる國なれば正しき道のいかで絶べき」

「道まもる人も時には埋もれどもみちしたゑねばあらわれもせめ」

の二首の歌を書いた。

 

吉田松陰はさらに、安政六年十月二十日付の故郷の父母や叔兄に宛てた手紙において、「幕府正議は丸に御取用ひ之なく、夷狄は縦横自在に御府内を跋扈致し候へども、神國未だ地に墜ち申さず、上に、聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候へば、天下の事も余り御力落し之なく候様願ひ奉り候。」と書き記した。

 

吉田松陰は、『天壌無窮の神勅』に絶対的な信を置いていた。これらの手紙・日記は、獄中にあってもなほ「神州不滅」を信ずる松陰の不撓不屈の精神が表白されており、松陰の偉大さを証明してあまりあるものである。

 

松陰はこれらの手紙で祖國がいかなる危機に遭遇していようとも「天壌無窮の神勅」は絶対に相違することはないという揺るぎない絶対的信を、松陰のその死の直前に吐露している。

 

天照大御神が、瓊瓊杵尊に下された『天壌無窮の神勅』には「葦原千五百秋瑞穂の國は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」と、天皇を統治者と仰ぐ日本の國體が端的に示されている。

 

死罪となり死地に赴くという絶望的状況にあって、天皇國日本は永遠不滅であると確信する吉田松陰は、真の愛の尊皇愛國の士であった。尊皇精神無き攘夷はあり得ないし、あってはならないのである。

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