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2014年6月 6日 (金)

伊勢参宮記 その二

六月三日朝、宿舎を出発。伊勢皇大神宮(内宮)宇治橋を渡り行く。五十鈴川の清き流れを見る。また緑濃き神路山と日章旗を仰ぐ。伊勢皇大神宮に参拝させていただく度に、この美しき景色を眺めると、本当に日本人として生まれて来た喜びをしみじみと感じる。五十鈴川御手洗場に至る。五十鈴川の清き流れに手をひたす。

御正殿に参拝。石段を上り、外玉垣(とのたまがき)南御門前にて謹みて参拝。皇室の御安泰と祖国の隆昌を祈念し奉る。御垣内を拝すると、此処がこのまま「神代即今」「此処がこのまま神代」を実感する。まさに「聖なる地」「清浄の地」である。

御祭神は、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおほみかみ)。太陽神であらせられると共に、皇室の御祖先神、そして日本国民の親神であらせられる。故に、伊勢の皇大神宮は、日本国の総氏神と崇められる。

天照大御神は、『古事記』によると、伊耶那岐命が、筑紫の日向の橘の阿波岐原で禊祓へされた時、左のみ目を洗ひたまひし時になりませる神である。右のみ目を洗ひたまひし時になりませる神は月読命、鼻を洗ひたまひし時になりませる神は須佐之男命である。

『日本書紀』には、「伊耶那岐命・伊耶那美命、共に議(はか)りて曰(のたま)はく、吾すでに大八洲國及び山川草木を生めり。いかにぞ天の下の主たる者を生まざらむや、と。ここに共に日神(ひのかみ)を生みます。大日孁貴(おほひるめのむち)と號(まを)す。此の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る」と記されてゐる。

天照大御神は、大日孁貴尊(おほひるめのむちのみこと)とも申し上げる。太陽を神格化した御名である。「ヒルメ」は光り輝く意で、「メ」は女神の意である。

天照大御神は、女性神であるから武を尊ばれないといふ事は絶対にない。弟神の須佐之男命が高天原にお上りになって来た時、「善(うるは)しき心ならじ」と思し召され、弓矢で武装され、大地を蹴散らして雄叫びの声をあげられた。また、女性天皇も、斉明天皇などは戦ひの先頭に立たれた。

伊勢の神宮御正殿の建築様式を「唯一神明造」といふ。弥生時代の高床式の穀倉形式である。素朴であり、何の豪華さもない。しかし、いふにいはれぬ清浄さと威厳がある。日本文化の簡素さと清浄さを体現する建物である。日本人の信仰精神の結晶である。

神を祀る社殿のことを祠(ほこら)といふは、穂倉(ほくら)に由来するといはれる。人々の生命の根源である稲などの穀物の収蔵庫は神聖視されたので、神のまします建物が穂倉の形になったのであらう。

皇位のみしるしであり、天皇国家統治の三大要素をあらはす「三種の神器」の一つである八咫鏡は、伊勢の神宮に御神体として祀られ、草薙剣は熱田神宮に御神体として祀られ、八坂瓊曲玉は宮中に伝へられてゐる。

八咫鏡は、天照大御神が岩戸にお隠れになった時、石凝姥命(いしこりどめのみこと)がお造りした。天照大御神の神霊の依代(よりしろ)として天孫降臨後、宮中に安置され、垂仁天皇の時代に伊勢に移されたと伝へられる。皇位継承のみしるしとして宮中賢所(かしこどころ)に代りの鏡がまつられてゐる。

『日本書紀』には、天照大御神が天忍穂耳命(あまのほしほみみのみこと・邇邇藝命の父神)に「宝鏡」を授けて、

「視此宝鏡、当猶視吾、可与同殿共殿、以為斎鏡」(この鏡を視まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし。ともに床(ゆか)を同じくし殿(おほとの)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし)

と命じられたと記されてゐる。

『古事記』には、邇邇藝命が天降られる時、天照大御神が、三種の神器を副へて、

「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごと、斎(いつ)きまつれ」(この鏡こそはもっぱら私の魂として、私の前を祭るやうにお祭り申し上げよ)

との御神勅を下されたと記されてゐる。

「八咫鏡」は、天照大御神の依代(よりしろ・神が顕現する時の媒体となるもの)として拝まれるのである。

『日本書紀』には、鏡を作って日の神の御像としたことが記されてゐる。鏡は三世紀代の古墳から発見されてをり、その頃には太陽神(日の神)祭祀に用いられてゐたと思はれる。太陽に鏡を向けると、その鏡は太陽と同じようにまぶしく光り輝くので、鏡は太陽神を象徴するのに最もふさわしいものであったと考へられる。

鏡は太陽の光を反射させるので、太陽神も鏡に宿るとされたと思はれる。祭祀によって「高天原を地上へ」「今即神代」といふ信仰が実現する。その時に「鏡」が重要な役目を持つのである。

 

天照大御神は、丹波・紀伊・吉備などの各地をお巡りになった後、第十一代・垂仁天皇二十六年の九月、皇女・倭姫命が御杖代となられ、伊勢の五十鈴川上の現在地に祭られるやうになった。

宮中には、宮中用の御鏡が鋳造せられ、それを御神体として賢所・内侍所と称される神殿に奉斎され、今日に至る。

天照大御神はなにゆへ伊勢の地に祭られたのであらうか。それは、伊勢の地が、大和朝廷の都があった大和盆地の東方にあたり、「日出づる地」であったからであり、大和国の日の神信仰の聖地である笠縫邑から東方に直線で結ばれる地であるからあらう。

伊勢の地は、まさしく日の神を祭祀するにふさはしい地であった。事実、伊勢・志摩地方には古くから太陽神祭祀を行っていた形跡があるといふ。

『日本書紀』には、天照大御神御自ら、「是の神風の伊勢國は、常世(とこよ)の浪の重波(しきなみ)歸(よ)する國なり。傍國(かたくに)の可怜(うま)し國なり。是の國に居らむと欲(おも)ふ」(この神風の伊勢の國は、永遠の世からの波がしきりに打ち寄せる國である。大和の脇にある麗しい国である。この国に居りたいと思ふ)と宣言されたと記されてゐる。

 

ご正殿参拝を終へ、荒祭宮に向かふ。途中に、御稲御倉(みしねのみくら)、外幣殿(げへいでん)がある。御稲御倉は、御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)をお祀りする祠である。祠といふことは穂倉であり、神宮神田で収穫された抜穂の御稲が納められてゐる。外幣殿は、古神宝類が納められてゐる。どちらも、唯一神明造(高床式の穀倉から神殿に昇華した建物)である。

 

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宇治橋から仰ぐ神路山

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五十鈴川と日章旗

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御正殿

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五十鈴川御手洗場

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