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2014年5月 7日 (水)

『皇室典範』について

中川八洋氏は、「傳統や慣習は”法“であるから、法律の上位にあって、この”法”に背理する法律についてはそれを無効にすることができる。英國のE・コーク卿が理論化した”法の支配”とは、このような、『傳統・慣習・先例・過去の判例、その他のコモン・ローは、國王の勅令に対しても、國會で採択された法律に対しても、優位する憲法原理』のことである。…日本も、英國と同じく、この古来より先蹤の積み重ね──古法──を”法” としてきた。これをしばしば”古格”とか”旧慣”とも称し、この”旧慣の尊重”の重要性を説き、西洋の法律をやたらに模倣する、当時の同僚や部下の法律家を諌めた。」「皇室典範もまた、天皇の意志や恣意で改変されることの無いように、その改正権をもつ皇族會議を主宰する天皇に対して、”上位の法゛、天皇は皇室典範に対して”下位の機関゛」という、法思想のルールの遵守を天皇に奏請したのである。」(『皇統断絶』) と論じてゐる。

「國王といへども法の下にあるといふのが『法の支配』の原点である」といふ考へ方がある。これは、イギリスの法思想であるといふ。かかる法思想は、「王の権威と権力は神によって与へられた」とする西洋の立憲君主國家の考へ方であって、わが國には通用しないし、通用させてはならない。 天皇は権力者ではなく祭り主である。わが國の國體は祭政一致である。天皇は法の上におられるとか下におられるとかではなく、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」なのである。わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の法である。

わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる『のりごと』である。法(のり)は宣(のり)である。天皇の上に「法」があるのではなく、天皇の宣命(おほせごと・大御心)が法なのである。

そもそもコモン・ロー(common law)とは、大陸法系と区別された英米法系に属する法制のことであり、特にイギリス普通法裁判所の判例法として歴史的に発達してきた一般國内法のことであると言ふ。日本と英國とは國體・歴史・傳統・風俗・習慣が異なるのであるから、英國の法思想をそのまま日本に取り入れることは出来ない。

天皇が祭りを執行され、神の御心をお知りになり、臣下は天皇がお知りになった神の御心に基づきそれを實現するために實際の政治を行ふといふのが、わが國の古来からの「まつりごと」のあり方である。これが「しろしめす」といふ天皇統治の實相である。これを「祭政一致」といふ。

古来、我が國では、宮廷其他の法律・命令はすべて「のり」といふ語で表されてゐて、「のりと」と法律・命令とは根本はおなじものである。 歴代天皇は、神のご意志をよくお知りになって神のご意志を實現させることを使命とされる。日本天皇が、神を祭る時にうかがった神の意志を告げることを『ノル(告る・宣る)』といふ。「ノル」は名詞にすると「ノリ」であり、「法」を「ノリ」といふのは、祭り主たる天皇が「告る・宣る」ことがすなはち法となるからである。

三潴信吾氏は、「我が御歴代の天皇の下における一切の認定法は、天照大御神と一体たり給ふ 天皇の大御心の発現であって、神定即人定と云ふべきもので、ここにわが國法の神聖性の根拠があり、従って又、そこに日本民族の尊皇遵法の根拠があるのである。」(『日本憲法要論』)と論じてゐる。 「天皇は『憲法』『皇室典範』よりも下位にある機関」などといふ説はまったくわが國體と相容れない。第一、現御神日本天皇断じて「機関」ではあらせられない。

天皇國日本の「法」の尊厳性は、「天皇の仰せごと」といふところにある。天皇國日本においては憲法を含め全ての「法」の正統性は、天皇の神聖権威によるのである。なぜなら天皇は現御神であらせられるからである。天皇の正統性は憲法によるのではない。現御神日本天皇以上の権威は日本には存在しない。皇位継承など皇室に関することは、國家の権力機構である立法府・行政府で決めるべきではなく、最終的には、天皇陛下の大御心に遵ふべきである。

「皇位継承」「『皇室典範』改定」は、日本國家を體現される御方の「御位」(みくらい)に関する事柄であり他の政治問題とは全く性格を異にする。また、皇位継承とは、『天津日嗣の高御座』の繼承である。普通一般の國家の國家元首・権力者交代とはまったく次元を異にする。 ゆへに、権力機構が多数決で決めてはならない。また、『天皇のご意志を伺はなくていい』などといふ議論は全く間違ってゐる。日本の傳統の根幹に関はることなのであるから、日本の傳統の體現者であらせられる天皇の御意志のままに決められるべきである。

日本天皇の皇位繼承は、他國の王位繼承・元首の選び方・権力者交代システムとは全くその本質を異にする。皇位繼承とは、神代以来の道統を繼承する天皇の御位に関することである。天皇國日本といふかけがへのない信仰共同體・祭祀國家の存亡に関はる重大問題である。権力機関で議論し決定すべきではない。

「皇位繼承」は、祭祀國家日本の祭祀主に関はること、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體日本の國體に関する神聖なる事柄であり、世俗の権力問題ではない。即ち決して『現行憲法』のいふ「政治権力作用としての國政」ではない。占領軍に押し付けられた『占領憲法』などに拘束されて、天皇の大御心を無視するなどといふことは許されない。

國體の上に成文法があるのであり、成文法の下に國體があるのではない。わが國の國體は「祭政一致」である。天皇は権力者ではなく祭り主である。したがって、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」なのである。わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる「のりごと」である。祭政一致のわが國の国柄においては、祭祀主たる天皇が神の意志として宣(の)べられた事が最高の「法」と考へられた。わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。「詔勅」は神の御意志なのである。

「皇位」は「天津日嗣の高御座」と申し上げる。これは、「高天原にゐます天照大御神の靈統を繼承される御方の座される高い御位」といふほどの意である。まさに神聖不可侵の「御位」なのである。その神聖なる御位=「天津日嗣の高御座」の繼承のあり方を、権力國家の行政機関や立法機関で決定しては絶対にならない。あくまでも天つ神の御意志・神代以来の傳統に基くべきである。そして神の御意志・肇國以来の傳統の體現者は、上御一人日本天皇であらせられる。天つ神の地上におけるご代理=現御神であらせられ、神代以来の傳統の繼承者・體現者であらせられる天皇陛下の大御心に帰一すべきである。これが一番大切である。いかなる権力者であらうとも、いかなる立場の者であらうとも、臣下が議論して決めるべきではない。

旧『皇室典範』は、明治天皇が裁定され、制定された。即ち勅定である。議會や政府が定めたのではない。皇室に関はることは、なべて大御心に俟つべきである。一切は大御心のまにまにが、臣下國民のあるべき姿勢である。 国会や内閣が「皇室典範」改定を発議したり決定することは。政體が國體を規制し、権力が権威を規制し、「俗」が「聖」を規制することになる。これは文字通り國體破壊である。 数々の不祥事が噴出する最近の政治情勢・國會情勢を見てゐると、今の政治家が『皇室典範』を改定すること自體、不敬不遜の極みといふべきである。何回も繰り返すが、「天津日嗣の高御座の繼承」といふ神聖不可侵の事柄を、上御一人の御意志をうかがふこともせず、政争が繰り返される権力機構たる議會で決めるのは、間違ってゐる。

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