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2014年4月29日 (火)

日本人の道徳・倫理観には清明心が大きな位置を占めてゐる

わが國は伝統的に「明らかさ・清らかさ」が最高の美徳とされてゐる。平田篤胤は、「そもそもわが皇神のおもむきは、清浄を本として汚穢(ケガレ)を悪(キラ)」ふと論じてゐる(玉襷)。政治家に対して清廉潔白さが求められるのは、東洋においてはわが國が最も厳しい。ただしそれは、本来、堅苦しい窮屈な道徳観念ではなく、明るくさはやかな心でなければならなかった。

 

日本人は、清いことは善いことであり、汚いことは悪いことであると考へて来た。日本人は人間の価値基準を「善悪」といふ道徳観念には置かず、「浄穢」といふ美的価値に置いたともいへるのである。日本人は、「きたない」といふことに罪を感じた。故に、神道では「罪穢(つみけがれ)」といって、道徳上・法律上の「罪」を「穢」と一緒に考へた。神道では、罪穢を祓い清めることが重要な行事なのである。禊祓ひをすることが神を祭る重要な前提である。身を清らかにしなければ神を迎へることはできないのである。人類の中でお風呂に入るのが好きな民族は日本民族が一番であらう。

 

実際、日本人にとって、「あいつはきたない奴だ」「やり方がきたない」といはれることは、「あいつは悪人だ」といはれるよりも大きな悲しみであり恥辱である。また、「あなたは善人だ」といはれるよりも、「あなたの心は美しい」「身の処し方がきれいだ」といはれる方に喜びを感じる。悪人とか善人といふのは場合によって転倒する可能性がある。といふよりも、わが國の祖先は徹底的な悪人・悪魔といふ存在を考へることをしなかったのである。日本神話には西洋のやうな悪魔は存在しない。日本民族は本来清らかな民族なのである。ゆえに、儒教の徳目・仏教やキリスト教の戒律は本来無用だったのである。

 

 徳川家康や吉良上野介があまり日本人に好かれないのは、「やり方がきたない」といふイメージが定着してゐるからであらう。       

 

 以上述べてきた如く、日本人の道徳・倫理観には清明心が大きな位置を占めてゐる。そしてこの倫理観の根底にあるのは、天皇に仕へまつる「赤誠心」である。

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