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2014年4月15日 (火)

日本人の死生観について

「楠公精神」即ち「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」という「七生報国の精神」とは、「よみがへり」の思想である。「七生」とは永遠の生命を意味する。日本人たるもの、永遠に生きとおして、君国に身を捧げるという捨身無我の尊皇精神に憧れたのである。

 

黄泉の国(あの世)に行かれた伊邪那美命の所を訪問しこの世に帰って来られた伊邪那岐命は「よみがへられた」のである。『萬葉集』では、「よみがへり」という言葉に「死還生」といふ字をあてている。「黄泉の国から帰る」から「よみがへり」なのである。

 

日本人が死者は必ずよみがえると信じたということは、日本人にとって絶対的な死は無いということである。人は永遠に生き通すと信じたのである。 

 

死後の世界は、まだ行ったこともなく見たこともないが、やがては必ず行くことになる「他界」である。従って人が死んだことを「他界した」と言う。それは平安時代の歌人・在原業平が「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(最後には行かなくてはならない死出の旅路だとは思っていたが、それが昨日今日と差し迫っているとは思いなかった、という意)と詠んでいる通りである。

 

そして死んだ人は草葉の蔭から生きている人を見守ったり祟ったりするのである。ということは、死後の世界と現世は遮断していないで交流し連動しているということである。

 

日本人は、丁寧な言い方をする時には「死んだ」とか「死ぬ」と言はない。「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」と言う。肉体は滅びても生命・霊魂は生き続けるという信仰に基づく言葉である。「亡きがら」「遺体」とは言っても「死体」とは言はない。

 

日本人は、古来、肉体は滅びても人間が無に帰することはないと信じてきたのである。

 

「死ぬ」という言葉も、決して生命の永遠を否定した言葉ではない。「死」という言葉の原義について折口信夫氏は、「心が撓って居る状態をいふので、くたくたになってしまって疲れて居る、氣力がもうなくなってしまふ状態がしぬです」(『上代葬儀の精神』・全集第二十巻所収)「人間の『たましひ』は、外からやって來て肉體に宿ると考へて居た。…これがその身體から遊離し去ると、それに伴ふ威力も落してしまふ事になる。…古代日本人には、今我々が考へて居る様な死の觀念はなかった。しぬといふ言葉はあっても、それが我々の考へてゐるしぬではなかった。語から言うても勢ひがなくなる事をあらはしたもので、副詞のしぬに萎をあてたりして居るのも、さうした考へがあったからである。」(『原始信仰』・全集第二十巻所収)と論じている。

 

つまり、古代日本では、生命が萎れ、疲れてしまった状態を「しぬ」と言ったのである。日本人は古来、霊魂が遊離して肉体は滅びても人間が無に帰することは無いと信じたのである

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