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2014年4月30日 (水)

神話時代以来の「もののふの道」を今に生かさなければならない

 

「今はこう」「今はこれまで」と悟った時、日本のもののふ・武士は、まっしぐらに顧みることなく死ぬことを潔しとした。これが、日本的死生観である。日本武士道は中世において仏教や儒教道徳を基として発したものでもない。『古事記』『萬葉集』の歌を見ても明らかな如く、日本伝統的な中核精神から発した。

もののふのみち(武士道)は理論・理屈ではない。萬葉歌は飛鳥奈良時代の武士道を伝えている。それは語られず書かれざる掟、不言不文であるだけに実行によっていっそう効力を認められる。理論・理屈を好まない日本人らしい道徳律が「もののふの道」・武士道なのである。

 

日本の伝統の根幹たる和歌も祭祀もそして武道も理論・理屈ではない。「道」であり「行い」である。そして一つの形式・「型」を大切にし「型」を学ぶことによって伝承される。そして武士道は、道徳・倫理精神と共にあった。武士は、日本国民の善き理想となった。武士は武家時代において、決して民衆を武力で支配した階級のみでなく、道義の手本でもあった。明治維新をはじめとしたわが国の変革を断行せしめた重要なる原動力の一つに「もののふの道」・武士道があった。神話時代以来の「もののふの道」を今に生かさなければならない。

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千駄木庵日乗四月二十九日

午前は、諸雑務。原稿執筆など。

午後は、新宿駅西口駅頭にて開催された『第六回・奉祝昭和節』の街頭演説会に参加。演説を行う。昭和天皇御製について語らせていただいた。多くの同志の方々とお会いした。また、ある政治家の方と街宣車の前で会う。九十歳を越しておられるがお元気そうであった。ある党の代表もされ、都議会で実力者と言われた人。すでに引退されているが、一人で歩いておられた。また何故か分からないが、街宣車の前に機動隊員が整列した。短時間であったが驚いた。

この後、老人介護施設を赴き、母と会う。大勢の方々と共に食事をしていた。元気そうではあるが、ゆっくり話すことができなかった。

帰宅後は、『萬葉集』評論原稿執筆など。

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2014年4月29日 (火)

日本人の道徳・倫理観には清明心が大きな位置を占めてゐる

わが國は伝統的に「明らかさ・清らかさ」が最高の美徳とされてゐる。平田篤胤は、「そもそもわが皇神のおもむきは、清浄を本として汚穢(ケガレ)を悪(キラ)」ふと論じてゐる(玉襷)。政治家に対して清廉潔白さが求められるのは、東洋においてはわが國が最も厳しい。ただしそれは、本来、堅苦しい窮屈な道徳観念ではなく、明るくさはやかな心でなければならなかった。

 

日本人は、清いことは善いことであり、汚いことは悪いことであると考へて来た。日本人は人間の価値基準を「善悪」といふ道徳観念には置かず、「浄穢」といふ美的価値に置いたともいへるのである。日本人は、「きたない」といふことに罪を感じた。故に、神道では「罪穢(つみけがれ)」といって、道徳上・法律上の「罪」を「穢」と一緒に考へた。神道では、罪穢を祓い清めることが重要な行事なのである。禊祓ひをすることが神を祭る重要な前提である。身を清らかにしなければ神を迎へることはできないのである。人類の中でお風呂に入るのが好きな民族は日本民族が一番であらう。

 

実際、日本人にとって、「あいつはきたない奴だ」「やり方がきたない」といはれることは、「あいつは悪人だ」といはれるよりも大きな悲しみであり恥辱である。また、「あなたは善人だ」といはれるよりも、「あなたの心は美しい」「身の処し方がきれいだ」といはれる方に喜びを感じる。悪人とか善人といふのは場合によって転倒する可能性がある。といふよりも、わが國の祖先は徹底的な悪人・悪魔といふ存在を考へることをしなかったのである。日本神話には西洋のやうな悪魔は存在しない。日本民族は本来清らかな民族なのである。ゆえに、儒教の徳目・仏教やキリスト教の戒律は本来無用だったのである。

 

 徳川家康や吉良上野介があまり日本人に好かれないのは、「やり方がきたない」といふイメージが定着してゐるからであらう。       

 

 以上述べてきた如く、日本人の道徳・倫理観には清明心が大きな位置を占めてゐる。そしてこの倫理観の根底にあるのは、天皇に仕へまつる「赤誠心」である。

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千駄木庵日乗四月二十八日

午前は、母が、入院していた病院から老人介護施設に移ることになり、付き添う。

介護施設の方々と今後のことを相談。母が新しい環境に適応できるかどうか心配である。

帰宅後は、『萬葉集』評論原稿執筆など。

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2014年4月28日 (月)

この頃詠みし歌

父は逝き母は衰へ我六十七 さてこれからも生きかむとす

 

千早振る神の御稜威に生かされてわが魂も振ひ立つなり

 

 

 西郷像がりりしく立てる春の日の上野の山の青若葉かな(西郷南洲像清洗式)

 

 

南洲像の背後の新緑がかがよへる上野の山のみまつりの声()

 

 

 青若葉かがよひてゐる上野山西郷南洲の像を仰げり()

 

 

 介護度の認定をする人の問ひに答へつつ母は我を見つめる

 

 

 うどんを食しうましと思ひし春の宵 静心なく金を払はむ

 

 

 燃え上がり姿形の無くなりし谷中五重塔は幻の塔

 

 

 忙しなく日々を過ごせる我故に神への祈り深くあるべし

 

 

 われと同じ年代の人が次々とこの世を去り行くことの悲しも

 

 

 共に鍋をつつきつつ酒を酌み交はし語らひし人この世を去りぬ

 

 

 やはらかきもの言ひながら強き信念持ちゐし人の逝くを悲しむ

 

 

 たらちねの母と語らふこの夕べ命の絆は尊とかりけり

 

 

 幼き日に見たる表札そのままに今日も変らずあるが嬉しき

 

 

 木造の古き建物解体の告知を見つつさみしみてゐる

 

 

 次第次第に古き建物がこぼたれて行くが悲しき千駄木の町

 

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千駄木庵日乗四月二十七日

午前は、諸雑務。

午後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

この後、病院に赴き母に付き添う。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。小生が「御製に学ぶ昭和天皇とその時代」と題して講演、質疑応答。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2014年4月27日 (日)

内閣総理大臣の靖国神社参拝について

 

 我々日本人が「A級戦犯」という呼称を使うことは絶対にやめるべきである。「A級戰犯」といわれる人々は、人類の貴重な法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反して被告を断罪した「東京國際軍事裁判」、つまり、裁判とは名ばかりの非常の野蛮で公平性を全く喪失した戰勝國による一方的な復讐劇=リンチの場において、「有罪」と断罪され、「絞首刑」に処せられた人々である。

 

 「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」を新たに作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した「東京國際軍事裁判」は、“法の真理”に照らして完全に間違ったものであった。

 

 戰勝國は、「戰争は非人道的な行為だ」と主張しながら、「軍事裁判」の「法廷」では、かつてのわが國の指導者を罵倒し、拘置所に収容した「被告」たちには、それこそ非人道的な処遇を強要した。それはあまりにも残虐にして一方的な処遇であった。そして「絞首刑」という名の非人道的なリンチ虐殺が行われたのである。

 

 戰勝國は、復讐のためにいわゆる「戰争犯罪人」を捕らえ「裁判」にかけたのである。戰勝國による復讐の軍事裁判は、見せしめのための裁判であった。そして、わが國に侵略國家の汚名を着せそれを全世界に宣傳したのである。

 

 「A級戰犯は戰争責任者だから靖國神社に祭られてはならない」とか「A級戰犯が祭られている靖國神社に総理大臣が参拝するのは侵略戰争を讃美することになる」などという議論は、戰勝國が行った法律なき「軍事裁判」即ち非人道的にして残虐無比な復讐を肯定することとなる。

 

 「A級戰犯」という呼称はあくまでも戰勝國側の呼称であって、わが日本においては「昭和殉難者」と称するべきである。昭和殉難者は、まさに英靈であり戦没者である。だから、靖國神社においては「昭和殉難者」「戰死者」として祭られているのである。 

 

 靖國神社に祭られている英靈は、國のために命を捧げられたばかりでなく今日唯今もわが祖國をお護り下さっているのである。

 それは皇后陛下が「終戰記念日」と題されて、

 

「海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたの御靈國護るらむ」

 

 と、詠ませられている御歌を拝しても明らかである。

 また、沖縄戦で自決された牛島満陸軍中将は、 

 

「矢弾盡き天地染めて散るとても魂がへり魂がへりつゝ皇國(みくに)護らむ」

 

 という歌を遺された。

 わが國及びわが國民は、靖國神社そして各県の護國神社に鎮まりまします護國の英靈によってお護りいただいている。であるが故に内閣総理大臣をはじめ全國民は、靖國の英靈に対して感謝・報恩・顕彰の誠を捧げるのは当然である。共産支那や韓國の圧迫に屈してこれを止めるなどということは絶対にあってはならない。

 

 また、國のために命を捧げた英靈をお祀りする靖國神社に内閣総理大臣が公式参拝すること、各県の護國神社に県知事が玉串奉奠することを「憲法違反だ」「近隣諸國との関係を悪化させる」などと決めつける法匪、亡國マスコミは許しがたい。

 

 國のために身命を捧げた人々の御靈を共同體信仰である神道祭式でお祭りする靖國神社を、國が奉護し、政府の長たる内閣総理大臣が公式に参拝するのは当然のことである。それを実行した安倍晋三総理を支持する。

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千駄木庵日乗四月二十六日

午前は、諸雑務。

午後は、明日行われる『日本の心を学ぶ会』における講演の準備。

この後、病院に赴き、母に付き添う。色々語り合う。母がうれしそうにしてくれることがうれしい。

帰宅後も、明日の講演の準備、『萬葉集』評論原稿執筆。

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最近寄贈された書籍

最近寄贈された書籍を紹介します。寄贈していただいた方々に心より感謝いたします。
           〇
伊勢神宮と日本文化 所功氏著 勉誠出版発行 著者より

世界が憧れる天皇のいる日本 黄文雄氏著 徳間書店発行 著者より
写真: 最近寄贈された書籍を紹介します。寄贈していただいた方々に心より感謝いたします。
           〇
伊勢神宮と日本文化 所功氏著 勉誠出版発行 著者より

世界が憧れる天皇のいる日本 黄文雄氏著 徳間書店発行 著者より

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2014年4月26日 (土)

 もののふとは

 

「もののふ」とは、武人・武士のことを「やまとことば」表現した言葉である。「宮廷を守護する者」即ち「物部(もののべ)」の音韻が変化した語が「もののふ」であると言われる。「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。物部氏という氏族は、もっとも有力な「もののふ」だったといわれる。

 

 「物部」とは、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。物部氏は、古代の氏族の一つで、朝廷の軍事・刑獄のことを司った。古代日本では、霊的力即ち巫術(超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して話し、行動すること)を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を鎮める役目を果たす者たちが「もののふ」(物部)であった。

 

 

物部氏は饒速日命の後裔にして武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。これが後世武士の起こる濫觴とされている。用命天皇の崩御直後(用命二年・五八七)、仏教受容を唱えた蘇我氏の馬子と物部守屋が争い破れて物部氏は滅びた。

 

もののふの道即ち武士道は、物部、大伴の二氏によって明確なる史実として継承せられた。

 

なお、、「もののふ」を「武士」(ぶし)とは、折口信夫氏の説では、野に伏し山に伏して主君のために仕える者であるという。

 

 もののふの道(武士道)とは、古代日本においては、宮廷を守護すること即ち皇室に忠誠を尽くすという精神である。笠金村の次の歌にそれは明らかである。笠金村は伝未詳。

 

「もののふの臣(おみ)の壮士(をとこ)は大君の任(まけ)のまにまに聞くといふものぞ」(三六九・武士として朝廷に仕える男は、大君の仰せの通りに御命令の通りに聞き従うものであるぞ、という意)。

 

もののふの道(武士道)は、中世に起った道義感覚ではなく、遠く古代にその起源があるのである。

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千駄木庵日乗四月二十六日

午前は、母のお世話。

昼、知人と懇談。内外の諸情勢について意見交換。

午後四時より、赤坂の日本財団ビルにて、笹川平和財団主催『マーティン・ジェイクス氏講演会』開催。茶野順子笹川平和財団常務理事が挨拶。マーティン・ジェイクス氏が「中国は世界をどう変えるのか」と題して講演。山口昇防衛大学教授がモデレーターをと務めた。活発な質疑応答が行われた。

この後、病院に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理。

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2014年4月25日 (金)

『呉竹会アジアフォーラム十周年記念祝賀会』における登壇者の発言

三月九日に開催された『呉竹会アジアフォーラム十周年記念祝賀会』における登壇者の発言は次の通り。

 

今村洋史氏「日本は独立しているのか。中国とアメリカという二大強国の隷属下に置かれているのではないか。アメリカは新自由主義に染まり、とんでもない格差社会になっている。新自由主義は西洋覇権主義の考え方であり、社会ダーウィニズム。社会ダーウィニズムは新自由主義と通底するものがある。適者生存という言葉で表した競争の原理。ネオダーウィニズムは突然変異と自然選択を中心に置いた個体レベルの近代化論。競争の中で生きても進化は個体レベルで起こるという思想。

 

今西錦司は『種は常に一定限度の共通性を保つ。人類は共通性があるから種と呼ぶ。進化は起きているが個体ではなく種レベルで進化する。種は変わるべき時が来たら変る』という理論。今西錦司はダーウィンの競争原理ではなく、共存原理を主張した。進化の原動力は孤独と連帯にある。目指すべきは節度と良識である。人は連帯なくして生きて行けない。自由ではあるが放埓であってはならない。平等であるが画一であってはならない。合理主義ではあるが技術に対するカルト的信仰は持たない。

 

節度と良識は君民一体の風土から生まれている。天皇と臣民は対立するものではないから君民一体と言う。玄洋社の社則の条項は『皇室を敬戴すべし』『本国を愛重すべし』、『人民の権利を固守すべし』である。『皇室を敬戴すべし』があるから『本国を愛重すべし』、『人民の権利を固守すべし』がある。君民一体の風土を最も体現したのが昭和天皇。

 

チャイメリカへの隷属のきっかけは大東亜戦争の敗北。僕も周りの人と競争して生きて来た。自分の家庭を守って来た。しかし個人の競争だけでは日本の社会を保っていけない。神風特別攻撃隊の若者は自分の命を国に捧げた。自分の事だけを考えていたらできないこと。国に命を捧げてくれた人がいたから自分が生きて来ることができた。歴史の命の流れの中に自分がいると思う。英霊の方々がいて僕らがいる。この国に真の日本の姿を取り戻したい」。

 

西部邁氏「七年前、太平洋のペリリューに行った。パラオ共和国である。スペイン・ドイツを経て日本の統治下にあった。今はアメリカ。原潜の寄港地。パラオ人は学校・港・道路という長期的に役立つものを作ってくれたとして日本のみに感謝している。パラオの国旗は月章旗。青地に白。ペリリューを知っている日本人はあまりない。テニアン島を含め、マリアナ諸島の基地から日本への爆撃空路を、アメリカ兵は『ヒロヒトハイウェイ』と呼んでいた。その出発点がペリリュー。北上して東京大空襲を行った。水戸連隊一万二千人が珊瑚礁に穴を掘って米軍の猛爆撃と戦った。太平洋における日米の大激戦地。パラオ人を巻き込まず日本兵だけで戦った。現地人は遠い島から戦いの声が今でも聞こえて来ると言っていた。太平洋の至る所にそういう所がある。

 

九・一一のアルカイダの攻撃を、『やった』と言ってウチのカミさんは喜んだ。私も心の中で『やった』と思った。日本の母親は、息子が戦死しても頑張った。しかるに日本は、戦争に負けたらアメリカにすり寄った。私の敗戦の思い出は、札幌郊外の軍事基地が米軍に接収され、ジープや戦車が走り回ったこと。戦車に石をぶつけたら重砲が百八十度回った。

 

左翼とは、ルイ十四世を殺し自由・平等・博愛を叫んだ勢力。アメリカは言葉の本当の意味における左翼の国。米ソ冷戦構造とは、左翼同士の内ゲバ。左翼は近代から始まった。

 

『自由は不自由の際において生じる』と福澤諭吉は言った。自由と秩序の中でバランスを取ることが大事。平等と格差の中でどうバランスを取るかが問題。戦後、自由・平等・博愛が強調された。友愛もあり競争もあるのが人間。理性・合理の前提は合理からは出て来ない。宗教や道徳から出て来る場合がある。自由と秩序の平衡が必要。守るべきなのは節度と良識。オルテガは『左翼は右翼と同じように、人間が馬鹿になる近道』と言った。右や左の翼だけで飛行機は飛ばない。ある力を以て人為的に人間社会を設計するという考え方は間違い。近代は左右共に、設計主義に侵されている。

 

『周は旧邦なりといへども、その命これ新たなり』とは温故知新。明治維新は王政復古。地球を汚染しているのはアメリカのIT革命論。骨の髄まで腐ったように感じられる世の中に六十八年間いる」。

 

江川達也氏「一番問題なのは教育。間違った教科書を信じ込まされるのが一番の問題。自分で考えることが大切。数学は自分で考える学問。個人がマインドコントロールから抜け出すホームページを作るのが大事」。

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千駄木庵日乗四月二十四日

午前は、諸雑務。

午後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

この後、病院に赴き、母に付き添う。医師と今後のことを相談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2014年4月24日 (木)

『國歌君が代』には日本國民の伝統的天皇信仰が高らかに歌いあげられている

 

 

 君が代は 千代に八千代 に さざれ石の いはほ となりて 苔のむすまで

 

 元歌は、平安朝初期から知られていた詠み人知らず(作者不明)の古歌(『古今和歌集』巻第七及び『和漢朗詠集』に賀歌として収録)の一首「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」(わが君のお年は、千年も八千年も、小さな石が巌となって苔が生えるまで、末永くお健やかでいて下さい、というほどの意)である。初句の「わが君」は、尊敬する目上の人という意味であり、天皇を指す場合あるしそうでない場合もある。

 

 『古今和歌集』の「賀歌」とは、人が一定の年齢に達したときに行う行事に際して、他人が詠んで贈る歌である。祝いの調度としての屏風に書く歌として詠進されたものであるが、口誦(注声をあげてよむこと)として披露されたものであって公的性格が強い。

 

 『君が代』は、平安時代にかなり普及した賀歌(祝い歌)である。その後、中世に第一句が「わが君は」を「君が代は」(あなた様の寿命は)に改められて、今日の「國歌」と同じ形になった。中世から近世にかけて全國に広がり、謡曲や神楽歌そして小唄・浄瑠璃・薩摩琵琶などに取り入れられ、貴族だけでなくあらゆる階層の人々に身近な祝い歌として広く親しまれ歌われてきた。

 

 『君が代』はめでたい歌として貴族から庶民に至るまで自然発生的に全國民的に歌われ続けた歌である。

 

 江戸初期には、堺の町の美声の歌い手に隆達という人がいた。その『隆達節』にもこの『君が代』が最初に挙げられて、広く庶民の間に親しまれたという。薩摩琵琶(注薩摩で発達した琵琶、およびそれによる歌曲)の『蓬来山』という曲にも取り入れられた。

 

 明治初期に『君が代』が國歌として制定された時、薩摩の大山巌は、「わが國の國歌としては、よろしく宝祚の隆昌、天壤無窮ならんことを祈り奉るべきである」として「平素愛誦する薩摩琵琶の中から『君が代』を選び出した」と語っている。

 以来、今日まで『君が代』の「君」は天皇の御事として歌われてきている。國歌『君が代』の「君」は天皇の御事である。反対勢力の「國民主権」の憲法に違反するという批判を恐れて、『君が代』の「君」は天皇のことではなく「僕・君」の「君」すなわち國民同士のことだなどと主張するのは大きな誤りである。

 

 また、「さざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」という歌句をとらえて、小さな石が大きな岩に成長するということはあり得ないから非科學的な歌であるという議論があるが、これは『國歌君が代』を否定するための屁理屈である。

 

 石が成長して大きくなり巌となるというのは日本人の古来からの信仰的真実である。古代日本人は、石が成長すると信じた。『君が代』の歌の根底にはこの信仰がある。単なる比喩ではない。これは石や岩という自然物が生きているという自然神秘思想から来ている。 全てを命あるものとして見る自然信仰は、祖霊信仰とともに日本伝統信仰の大きな柱である。

 

 石や岩などの自然物に魂が宿っているという古代信仰は『萬葉集』の次の歌に表れている。

 

 信濃なる 筑摩の川の  細石(さざれいし)も  君しふみてば 玉と拾は む (萬葉集巻十四・三 四〇〇)

 

 東歌(萬葉集巻十四・古今集巻二十にある、東國方言で庶民が詠んだ和歌)である。「信濃の千曲川の小石もあなたがお踏みになったのなら玉と思って拾いましょう」というほどの意。恋人が踏んだ石には魂が籠っているという歌である。石に魂が籠るというのは古くからの民俗信仰であった。

 

 さらに、柿本人麻呂が石見の國において亡くなる時、妻・依羅娘子がこれを嘆き悲しんで詠んだ歌では、

 

 今日今日と 我が待つ君 は 石川の かひにまじ りて ありと言はずやも (萬葉集巻二・二二四)

 

 と詠まれている。山の谷間の貝塚などに遺骸を葬る風習が古代にはあり、川に臨んだ貝塚群の底から、人骨が出土する例が報告されている。「石川のかひ」は、死者を葬った川のそばにあり水に浸された貝塚のことである。石川と名づけられたのも、小さな石(すなわちさざれ石)には霊が籠っていて、霊の憑依物・霊的なものとして考え、「玉」とも呼ばれた長い信仰がこの歌の底にはある。

 石と岩の違いは、石が成長した岩には魂が籠っているということである。「いは」の語源は「いはふ」である。「いはふ」は「いへ」と同根の言葉で、霊魂を一処に留めて遊離させないして霊力を賦活させ神聖化することである。そして「いはふ」は神を祭る意にもなった。神を祭る人(神主)を「斎主」(いはひぬし)、神を祭る宮を「斎宮」(いはひのみや)と呼ぶようになった。

 

 家に籠ることを「いはむ」という。「いはむ」とは忌み籠ることである。「忌む」とは、不吉(ふきつ) なこと、けがれたことをきらって避けること。特に、ある期間、飲食・行為を慎んで、身体をきよめ不浄を避けることをいう。「斎」(いつき・心身を清めて飲食などの行為をつつしんで神をまつる。いみきよめる。いわう。いつく。ものいみする、という意)と同じ意である。  

 

「いつき・いつく」の「いつ」とは清浄・繁茂・威力などの意を包含している神聖観念である。天皇の神聖権威を意味する御稜威(みいつ)はこの言葉から来ている。

 

 このように、「いへ」「いは」「いむ」「いつく」は語根が同じくし、深い関係がある。ゆえに、魂の籠っている「石」を「岩」と言うといっていい。天照大神が籠られた「天の岩戸」は大神の神霊が籠られたところなのである。

 

 人々は、亡くなった人の遺体を石の下に埋める。わが國は古墳時代から墓に石を置いた。特に偉大な人の墓の場合は巨大な岩を置いた。墓を石で造るのは、石に魂が籠められるという信仰に基づく。石や岩に霊魂が籠ると信じた日本人は、石は地上にありながら、地下から湧出する生命・霊魂の威力を包み込んだ存在で、地下に眠る霊魂の象徴であり、よりしろ(憑代・依り代。神霊が宿るところ)と考えた。 

 

 日本の「家」(いへ)はそれを構成する人々つまり家族の魂が一処に籠っているということである。したがって、君が代(天皇の御代)は「石」が「岩」になるまで続くということは、天皇國日本は魂の籠っている永遠の國家であるということになる。岩を霊的なものとしてとらえ、それを永遠無窮・天壤無窮の象徴としたのである。そういう信仰を歌っている歌が『君が代』なのである。

 

 「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に いほらせるかも」という柿本人麻呂の歌の「いほらせる」は、「いほりする」の尊敬語である。「いほる」とは、「斎」(いつき)の意義が込められている。人麻呂は、天皇が神聖なる雷丘に忌み籠られて五穀の豊饒を祈る祭りをせられたことを詠んだのである。

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千駄木庵日乗四月二十三日

午前は、諸雑務。

午後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

この後、病院に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆。

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2014年4月23日 (水)

日本傳統信仰は、自然の中に神の命を拝む心・祖靈を尊ぶ心

わが國の神は「天津神、國津神、八百萬の神」と言われる。天地自然の尊い命であり、先祖の御靈である。日本傳統精神の本質は、自然を大切にし、自然の中に神の命を拝む心と、祖先を尊ぶ心である。日本傳統信仰は、日本人の農耕生活の中から自然に生まれた信仰で、天神地祇崇拝(祖先の靈と自然に宿る神を尊ぶ心)を基本とする。それは古代日本の稲作生活から発した大自然と人間の共生の精神でもある。

 

日本人は、自然の摂理に素直に随順し、人間と自然は相対立する存在とは考えない。人と自然とは生命的に一体であるとの精神に立つ。

 

わが國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも「神社の森」「鎮守の森」がその原点である。わが民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな「神社の森」「鎮守の森」を大切に護って来た。それは「鎮守の森」には、神が天降り、神の靈が宿ると信じて来たからである。「鎮守の森」ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精靈が生きており、秀麗な山には神が天降り、神の靈が宿っていると信じて来た。

 

天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られた。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神の山と仰がれ今日に至っている。

 

さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが、海神(わたつみ)信仰・龍宮信仰である。海は創造の本源世界として憧憬され崇められた。

わが國傳統信仰は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に自分たちの祖先の靈を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」といふ。

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千駄木庵日乗四月二十二日

午前は、諸雑務。

午後、病院に赴き、母に付き添う。区役所の相談員に来院。相談。

帰宅後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

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2014年4月22日 (火)

萬葉古代史研究會のお知らせ

四宮正貴が講師となりて「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 五月七日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

 

東京都豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 山手線駒込駅北口徒歩二分

 

會費 千円

 

テキストは、岩波文庫本『萬葉集』(佐佐木信綱編)上巻。

 

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。今月は第二水曜日ではございませんので、ご注意ください。

 

四宮政治文化研究所 四宮正貴拝

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日本傳統信仰は自然の中に神の命を拝む心・祖靈を尊ぶ心

日本傳統信仰は自然の中に神の命を拝む心・祖靈を尊ぶ心

 

わが國の神は「天津神、國津神、八百萬の神」と言われる。天地自然の尊い命であり、先祖の御靈である。日本傳統精神の本質は、自然を大切にし、自然の中に神の命を拝む心と、祖先を尊ぶ心である。日本傳統信仰は、日本人の農耕生活の中から自然に生まれた信仰で、天神地祇崇拝(祖先の靈と自然に宿る神を尊ぶ心)を基本とする。それは古代日本の稲作生活から発した大自然と人間の共生の精神でもある。

 

日本人は、自然の摂理に素直に随順し、人間と自然は相対立する存在とは考えない。人と自然とは生命的に一体であるとの精神に立つ。

 

わが國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも「神社の森」「鎮守の森」がその原点である。わが民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな「神社の森」「鎮守の森」を大切に護って来た。それは「鎮守の森」には、神が天降り、神の靈が宿ると信じて来たからである。「鎮守の森」ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精靈が生きており、秀麗な山には神が天降り、神の靈が宿っていると信じて来た。

 

天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られた。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神の山と仰がれ今日に至っている。

 

さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが、海神(わたつみ)信仰・龍宮信仰である。海は創造の本源世界として憧憬され崇められた。

わが國傳統信仰は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に自分たちの祖先の靈を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」といふ。

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千駄木庵日乗四月二十一日

午前は、諸雑務。

午後は、病院に赴き、母に付き添う。相談員の方と今後のことについて相談。

午後六時より、赤坂のANAインターコンチネンタルホテルにて、『平沢勝栄政経文化セミナー』開催。佐藤正久氏が司会。石破茂、高市早苗、大島理森、石原伸晃、町村信孝、長島昭久、上田清司、小林節、浅香光代の各氏らが祝辞を述べた。そして平沢勝栄氏が挨拶し、金田正一氏の音頭で乾杯を行い、盛宴に移った。小林節氏とは昨日、「西郷南洲翁像清洗式」でもお目にかかった。

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国会議事堂前、溜池山王などの地下鉄駅構内と周辺の地上は大変な警備。

帰途、赤坂で、友人と懇談。

帰宅後は、書状執筆。

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2014年4月21日 (月)

東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本に最も必要なものです。

西郷隆盛は明治維新の歴史・そして近代日本の歴史・自主独立と発展と繁栄の礎を築いた方であります。

 

我國の歴史上の人物の中で、大楠公・吉田松陰と共に最も敬愛されている人物の一人が西郷隆盛です。大西郷は明治維新の大功労者であり、且つ、維新後も権力に恋々とせず、第二維新運動の指導者として奮闘しました。その西郷隆盛が、西南戦争に敗れ、明治十年九月二四日、鹿児島市内城山において自決してより今年で百二十年になります。

 

文字通り、内憂外患こもごも来るといった状況にある今こそ、我々日本人は、『大西郷の精神』を学ばなければなりません。

 

『大西郷の精神』とは、国家の自主独立の精神であり、皇室を敬い国民に真の平安をもたらす政治の実現です。西洋列強の侵略から祖国を守り四民平等の国を建設するための大変革であった明治維新を戦い、さらに維新後にあってもなお、東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本にもっとも必要なものです。何故なら今の日本は、幕末及び明治初期の我國以上に、外国から侮りを受け、政治は乱れに乱れているからです。

 

大西郷は、「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。「國の凌辱せらるるに當りては、縱令國を以て斃るるとも、正道を踏み義を盡すは、政府の本務なり。」国の陵辱せらるるに当りては縦令国を以て斃るるとも、正道を践み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安を謀るのみ。戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也」と言っています。

この言葉こそ今日の我國政府が最も噛み締めなければならない言葉であります。我國は現在、歴史問題・領土問題などで支那・韓国・北朝鮮からなめられ、国家の尊厳性を喪失しています。

 

 大西郷は、「王を尊び民を憐れむは学問の本旨」「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節儉を行ひ、職務に精勵して、人民の標準となり、下民をしてその勤労を感謝せしむるに至らざれば、政令は行はれ難し」と述べています。この言葉も今日の我國政治家が噛み締めなければならないと思います。

 また大西郷ののこした言葉以上に彼の歩んだ道、彼の行った偉業そのものにこそ、大西郷が今日の我々に語りかけている大きな教訓があると信じます。

 

大西郷の歩んだ道は「東洋王道路線」(東洋的な帝王が仁徳をもととして国を治めるやりかた)と言われています。何よりも我國伝統の道義精神を根幹とした政治と外交を実行すべしとしたのが西郷隆盛です。     

 

 今日の日本において、「政治改革」「教育改革」「行政改革」というように、「改革」ということがうるさいくらいに言われています。しかし、如何なる理念・精神を根本に置いて「改革」を行うかが問題なのです。

 

 明治維新が「尊皇攘夷」を基本理念にして戦われたように、現代維新においても、「尊皇攘夷」の精神を根底に置いて戦われなければなりません。「尊皇」とは萬世一系の天皇を中核とする國民的統一・道義心の高揚を図る事であり、「攘夷」とは國家民族の自主独立を回復することです。内憂外患交々来るといった状況にある今こそ、尊皇攘夷の精神が必要な時であります。

 

 民族の傳統への誇りを忘却した民族には未来はありません。しかし、我々は絶望してはなりません。上に天皇おわします限り、民族の命は必ず新生し甦ります。そして、民族の歴史の流れ、民族の道統に立脚した変革が行われなければなりません。日本國體精神こそが永遠の維新の原理であります。

 

 我々日本國民は誇るべき國體精神を恢弘してわが國の革新と再生そして世界の真の平和実現に邁進しなければなりません。

 

 

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千駄木庵日乗四月二十日

朝は、諸雑務。

午前十一時より、上野公園西郷隆盛立像前にて、『西郷南洲銅像清洗式』執行。始澤澄江五條天神社宮司が祭主となり、祭事執行。祝詞奏上・玉串奉奠などが行われた。この後、早瀬内海西郷南洲会会長が挨拶。小林節慶應義塾大学名誉教授・犬塚博英民族革新会議議長、そして小生が祝辞を述べた。多くの同志が参列した。

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この後、病院に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理など。

 

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2014年4月20日 (日)

西郷隆盛の対韓外交論は侵略主義では断じてない

  西郷南洲先生は、全國三百万人ともいわれる没落士族の不満を、外にそらそうとし、且つ士族を救うために「征韓論」を唱えたが、岩倉具視や大久保利通に反対されたため、下野した、と言われている。生還とは韓国を征服する或は征伐するという意味である。本当に西郷先生はそのように考えを持っておられたのであろうか。

 

 西郷南洲先生の主張した対韓政策は全くの侵略論であったというのである。これは断じて誤りである。そもそも「征韓論」という歴史用語自体、大きな誤りであり、大きな誤解を生んでいる。

 

明治新政府の筆頭参議をつとめていた西郷隆盛は、決して朝鮮半島を武力侵略しようとしていたのではない。当時、韓國政府は、わが明治新政府に反感を持ち、國書の受取りを拒否するのみならず、「日本人は畜生と変わるところがないから今後日本人と交際する者は死刑に処す」という布告(今の北朝鮮でもこんな布告はない)を出したり、釜山の日本公館に準じる施設を封鎖したり、日本人居留民を迫害したり、韓國水軍が釜山沖で大演習を行った。

 

西郷隆盛先生は、「韓國政府の姿勢を糺すために西郷隆盛が自ら使者として韓國に赴く。万一、韓國側によって西郷が殺されるようなことになったら、やむを得ず戦端を開く」というごく当然の外交交渉を行うべしと主張しただけである。

 

  西郷先生は閣議で「大使は、宜しく烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、道を正しうして之に当たるべし。今、俄かに兵を率いて赴くが如きは、断じて不可なり。」と論じている。西郷は征韓でも武力侵略でもなく、礼を尽くして修好にあたろうと主張したのである。

 

  葦津珍彦先生は、「かれ(西郷隆盛)の説は決して好戦的でもなく威圧的でもない。十九世紀の列國外交が、常に兵力を用いて強硬外交をした事実とくらべてみれば、『論理的』にはるかに平和的で、礼儀正しい。この西郷の外交理論は、その後も変わっていない。これから間もなく西郷下野の後に(明治八年九月)、日本軍艦が仁川沖で朝鮮に対して発砲した時、西郷は公然と日本政府の武力行使と威圧外交を非難している」(永遠の維新者)と論じておられる。

 

  大久保利通は、西郷先生らの対韓政策を「内治優先」を理由にして反対しながら、西郷先生下野後の明治七年には台湾出兵を断行し、明治八年には江華島事件を起こして武力による朝鮮政策を行っている。

 

 「彼の強大さに萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親かえって破れ、ついに彼の制御を受けるに至らん」との西郷隆盛先生の遺訓は、現在でも外交の基本指針である。 

 

 わが国は独立国家として、外国に屈従する事なく、不当な領土権主張のみならず、歴史問題についての内政干渉に、毅然と対処すべきである。

 

 『大西郷の精神』とは、国家の自主独立の精神であり、皇室を敬い国民に真の平安をもたらす政治の実現である。西洋列強の侵略から祖国を守り四民平等の国を建設するための大変革であった明治維新を戦い、さらに維新後にあってもなお、東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本にもっとも必要なものである。何故なら今の日本は、幕末及び明治初期の我國以上に、外国から侮りを受け、政治は乱れに乱れているからである。  

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千駄木庵日乗四月十九日

午前は、『政治文化情報』発送作業、発送完了。購読者の皆様には週明けにはお届けできると存じます。

午後は、諸雑務。

夕刻、病院に赴き、母に付き添う。食欲がある。有り難し。

帰宅後は、『萬葉集』評論原稿執筆など。

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2014年4月19日 (土)

天照大神について

柿本人麻呂が、天武天皇の皇子・草壁皇子に捧げた挽歌で、天照大神を、「天照らす 日孁尊」と歌った。「天から照らしてゐる太陽の女神」という意味である。

 

なぜ太陽神がわが國では女性神であるのか。わが國の太古において太陽神を祭る祭り主は女性であり、そしてその女性祭主は神がかりして神の御託宣を民に伝えたので、一般の民からはその女性祭主が神そのもののように尊敬せられたからであるとされている。

 

神の言葉を伝え、神の代理・代弁者として一般の人々の前に立った祭主が女性であったがために、太陽神たる天照大神は女性神であると信じられるようになったのである。「日靈女尊」を短縮させた言葉が「日の御子」である。

 

神にお仕えする祭主(斎の宮)の印象がだんだん強大になって、祭る者のイメージが祭られる者の性格に重なって、太陽神は女性神になったというのである。

 

「ひるめのみこと」とは「太陽神の妻」という意味である。「太陽神の妻」とは、太陽神を祭る巫女のことである。人麻呂が単に「日の神」と表現しないで、「天照らす 日孁尊」と表現したのは、神話時代からのこうした信仰に基づく。

 

「ひる」といふ言葉は、「光り輝く」といふ動詞が短縮された言葉であるといふ。「昼」(ヒル)もそこから生まれた言葉。古代から今日に至るまで、伊勢の神宮で天照大神にお仕えする祭祀主は皇女であらせられることが多い。

 

 『古事記』には、天照大神が忌服屋(いみはたや・清浄な機織り場)で神御衣(かむみそ・神がお召しになる衣服)をお織りになっていたと記されている。機織りは本来、女性の行う仕事である。また、天照大神がお祭りしお仕えする神がおられるという事である。天照大神がお祭りになられる神が太陽神であったという説がある。

 神話を合理的に突き詰めて解釈するべきではないのだが、天照大神がお祭りした神は、太陽神ではなく『古事記』冒頭に出て来られる「むすびの神」=「高御産巣日神・神産巣日神」であるという説もある。これも真実性が高い。というのは「むすびの神」は天地生成の根本の神だからである。

 

 

 

『古事記』冒頭に登場される神・宇宙の根本神である天之御中主神の具体的のお働きを表現した神が、「高御産巣日神・神産巣日神」=むすびの神である。だから天之御中主神と共に「造化の三神」といわれる。

 

 

 

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千駄木庵日乗四月十八日

午前は、諸雑務。

午後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

夕刻、病院に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆。

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2014年4月18日 (金)

この頃詠みし歌

谷中大仏の尊顔拝ろがむ春の日は明るくのどかに心和ます

 

春来たり桜の花の満ち満つる谷中靈園は浄土の如し

 

満開の桜の木の下に立ちませる空海像を拝ろがみまつる

 

桜の苑で空見上げれば飛行船がゆっくりゆっくり動きゆくなり

 

ふるさとは千駄木の町これの地に今日も暮らしつ明日も暮らさむ

 

にこやかに話したまへるわが母の姿を見るは嬉しかりけり

 

田に種を撒きたまふわが大君をテレビに拝することの喜び

 

瑞穂の國大日の本の祭り主わが大君を拝ろがみまつる

 

日々(にちにち)を健康に過ごす有難さ今日も真向かふ天津日の神

 

春雨にわが身は濡れて夕暮の道急ぎたり酒房を目指し

 

懐かしき路面電車を偲びつつ春日通りを歩み行きをり

 

古き庭を巡りをれば大粒の雨降り来たり池に波立つ

 

花びらが道に散り敷く春の道ゲリラ豪雨の後の静けさ

 

看護師に遠慮してものを言へずゐる我を責めつつ母のそばの坐す

 

スカイツリーの横に輝く光あり 星かと思へど動きて消えぬ

 

春の日のうららかに照る街を眺め病室の窓辺に母と語らふ

 

日々を健康に過ごす有難さ今朝も真向かふ天津日の光

 

車椅子の母上と共に病院の窓辺に来り春の日を浴ぶ

 

我が書きし文章を読みて朱を入れる夜のひと時の楽しくもあるか

 

待ちませる母に会はむと坂道をのぼり行くなる春の夕暮

 

細くなりし母の手握り励ませば涙流して喜びたまふ

 

湯島中坂のぼり行きなば朧月浮かびてのどかな土曜日の夜

 

アベックが次から次へとラヴホテルに入り行くなる土曜日の夜

 

ぶつぶつと繰り言言ふ如き歌多く 日本の衰退やまと歌に及ぶ

 

看護師が笑顔絶やさず老い母に接してくれるを見て合掌す

 

元気一杯に友は語れりこの國の未来を背負ひてゐるが如くに

 

階段と坂をのぼるは太りたる我には鬱陶しきことにぞありける

 

朝となりベランダに立ち大日輪を仰げば力漲りて来る

 

春の夜いざ眠らむとする時に浮かび来るなる女(ひと)の面影

 

たくましき男と会ひてうらやまし 肉体を鍛えたることなき我は

 

遠き空に夕陽沈むを見つつ思ふ 過去を帳消しにするすべなきか

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千駄木庵日乗四月十七日

午前は、諸雑務。

午後二時より、六本木の国際文化会館にて、松本健一氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

この後、病院に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『政治文化情報』発送の準備。

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2014年4月17日 (木)

「もっとも害を与える人は、もっとも善いことをしようと努めている人だ」

 オスカー・ワイルド(一八五四~一九〇〇。イギリスの劇作家・小説家。世紀末文学の代表的作家で、芸術至上主義者。代表作に戯曲『サロメ』がある)に、「もっとも害を与える人は、もっとも善いことをしようと努めている人だ」という言葉がある。「自分の行っていることが正義だ」と信じ込み実行する勢力や個人が、殺戮を行い、世の中を暗黒にし、独裁政治を生み、國民から自由と繁栄を奪うという意味であろう。

 

自由で幸福な世の中とは、ある特定の人が唱える「正義」を絶対のものとして民衆に押しつける世の中ではない。独裁者は必ず「正義」を旗印として独裁政権を手に入れる。レーニン、スターリン、ヒトラー、毛沢東、カストロなどは皆そうだった。北朝鮮の金日成・金正日・金正恩は今日唯今、虚構の「正義」を振りかざして多くの人々をそれこそ「無慈悲に」殺してきた。

 

 真に正義を尊重し正義の実現を目指す人は、そしてそれが権力を持つ人であればなおさら、自由で柔軟で大らかな精神を持っていなければならない。正義や人間の幸福は法律や権力のみによって実現されるものではない。法律や権力のみによって実現された正義の世の中とはロボットが動く世の中と同じである。

 

 「正義」の呪文を唱えながら、自由を否定する狂気は暗黒と専制の世の中をもたらす。それが一七八九年革命直後のロベスピエール独裁下のフランスであり、革命後の旧ソ連であり、共産支那であり、北朝鮮である。

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千駄木庵日乗四月十六日

午前は、諸雑務。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

この後、病院に赴き、母に付き添う。看護師さんが色々親切に母の面倒を見てくれる。この病院は規模はそれほど大きくはないが、それだけに行き届いている。

帰宅後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

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2014年4月16日 (水)

アダム・ボーゼン氏(ピーターソン国際経済研究所長)の講演内容

二月二十四日に行われた笹川平和財団主催講演会におけるアダム・ボーゼン氏(ピーターソン国際経済研究所長)の『米国から見た「アベノミクス」』と題する講演内容は次の通り。

 

「日米にとって重要なのはお互いの経済を理解し対話すること。アメリカ人の中でアベノミックスに対し正式な見解を持っている人は少ない。私は長年いくつかの日本の政策について批判的だった。今は応援団の一員。今の日本の経済政策は良い。構造改革について優先順位も正しい。しかしもっとしっかりやってもらいたい。財政金融政策はうまく行っている。アベノミックスは一年強で順調に進んでいる。

 

長期的道のりにおいて、より高い税金でなければならない。女性がより良い就業機会が得られることを望む。保育所の数を増やす。企業において女性管理職を増やす。農業改革は殆ど全ての国でうまく行っていない。農業の効率化を進めるべしとアメリカは日本に要求している。対外的に力強くオープンな日本にするべし。そのために経済が大切。国が自らのために二本足で立つ。自由市場だが、市場の失敗に対しては対処していかねばならない。金融市場がその一つ。医療問題は取引される問題ではない。シェールガス産業はそれほど経済効果が期待できない。

 

日本における構造的変革が進行し、貿易赤字も進行し、日本のブランドが外国で生産されている。日本に新しいイノペーターが出て来ることを確信している。TPPは、共和党の多数派の合意を得なければならない。しかし選挙で媚を売るようなことは良くない。基本的にホワイトハウスで決定すべし。アジアの安定・法の支配を実現するのがアベノミックスの目的。日本は人を困らせるような発言をすべきではない。経済的利益にも関係する。意味もない不用意な発言をすべきではない。自分が良い気持ちになりたいために発言すべきではない」。

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千駄木庵日乗四月十五日

午前は、諸雑務。

昼過ぎ、ある介護施設に赴き、母の入所について施設長の方と相談。

この後、病院に赴き、母に付き添う。母は寝ていた。

午後五時より、品川にて、久しぶりにお会いした同志と懇談。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、明日のスピーチの準備、『萬葉集』評論原稿執筆。

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2014年4月15日 (火)

日本人の死生観について

「楠公精神」即ち「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」という「七生報国の精神」とは、「よみがへり」の思想である。「七生」とは永遠の生命を意味する。日本人たるもの、永遠に生きとおして、君国に身を捧げるという捨身無我の尊皇精神に憧れたのである。

 

黄泉の国(あの世)に行かれた伊邪那美命の所を訪問しこの世に帰って来られた伊邪那岐命は「よみがへられた」のである。『萬葉集』では、「よみがへり」という言葉に「死還生」といふ字をあてている。「黄泉の国から帰る」から「よみがへり」なのである。

 

日本人が死者は必ずよみがえると信じたということは、日本人にとって絶対的な死は無いということである。人は永遠に生き通すと信じたのである。 

 

死後の世界は、まだ行ったこともなく見たこともないが、やがては必ず行くことになる「他界」である。従って人が死んだことを「他界した」と言う。それは平安時代の歌人・在原業平が「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(最後には行かなくてはならない死出の旅路だとは思っていたが、それが昨日今日と差し迫っているとは思いなかった、という意)と詠んでいる通りである。

 

そして死んだ人は草葉の蔭から生きている人を見守ったり祟ったりするのである。ということは、死後の世界と現世は遮断していないで交流し連動しているということである。

 

日本人は、丁寧な言い方をする時には「死んだ」とか「死ぬ」と言はない。「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」と言う。肉体は滅びても生命・霊魂は生き続けるという信仰に基づく言葉である。「亡きがら」「遺体」とは言っても「死体」とは言はない。

 

日本人は、古来、肉体は滅びても人間が無に帰することはないと信じてきたのである。

 

「死ぬ」という言葉も、決して生命の永遠を否定した言葉ではない。「死」という言葉の原義について折口信夫氏は、「心が撓って居る状態をいふので、くたくたになってしまって疲れて居る、氣力がもうなくなってしまふ状態がしぬです」(『上代葬儀の精神』・全集第二十巻所収)「人間の『たましひ』は、外からやって來て肉體に宿ると考へて居た。…これがその身體から遊離し去ると、それに伴ふ威力も落してしまふ事になる。…古代日本人には、今我々が考へて居る様な死の觀念はなかった。しぬといふ言葉はあっても、それが我々の考へてゐるしぬではなかった。語から言うても勢ひがなくなる事をあらはしたもので、副詞のしぬに萎をあてたりして居るのも、さうした考へがあったからである。」(『原始信仰』・全集第二十巻所収)と論じている。

 

つまり、古代日本では、生命が萎れ、疲れてしまった状態を「しぬ」と言ったのである。日本人は古来、霊魂が遊離して肉体は滅びても人間が無に帰することは無いと信じたのである

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千駄木庵日乗四月十四日

午前は、諸雑務。

昼過ぎ、病院に赴き母に付き添う。看護師さんと今後のことについて相談。

午後三時より、西荻窪にて、木村三浩一水会代表にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。終了後、木村氏としばし懇談。

帰宅後は、『萬葉集』評論原稿などを執筆。介護施設に提出する書類作成など。

ともかく忙しい日々を送っております。

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2014年4月14日 (月)

第三十九回日本の心を学ぶ会のお知らせ

第三十九回日本の心を学ぶ会のお知らせ

 

 

テーマ「御製に学ぶ昭和天皇とその時代」

 

四月二十九日は「昭和の日」です。「昭和の御代」は日本史のなかで最も激動の時代でした。大東亜戦争の敗戦、そして米軍によるわが国土の徹底的な破壊、占領と復興、こうした未曾有の事態が続いたのが「昭和の御代」です。

 

先帝・昭和天皇は、この激動の時代に常に国家の安定と国民の幸福を祈られ、国民と共に苦楽を共にして来られました。そのご苦労はいかばかりであったでしょうか。

 

歴代天皇の詠まれた和歌のことを「御製」と申し上げ、「おほみうた」とも申し上げます。歴代天皇の大御心は、「御製」によって拝することができます。昭和天皇も、その時々の大御心を和歌という形でお示しになられました。

 

 

天皇が和歌をお詠みになるのは、国家の安定と国民の幸福を祈られる天皇の「まつりごと」と一体です。天皇がお歌を詠まれることにより、その言霊の力が、国土の豊穣と民の平安をもたらすのです。

 

天皇は、神の御心のままに國を治められると共に、臣下・民の心を良くお知りになり、お聞きになって、この國を統治あそばされるのです。そして、天皇と民の心をつなぐものが「やまとうた」=和歌です。天皇は御製によってその御心を民に示したまい、民もまた歌を捧げることによって民の心を天皇にお知りいただくのです。その傳統は、太古から今日まで継承されています。毎年行われる「新年歌會始」は、その傳統に基づく行事です。

 

昭和天皇はその八十七年の御生涯で約一万首の御製をお詠みになりました。宮内庁御用掛として、天皇と皇族の和歌のご相談にあずかった歌人・岡野弘彦は「天皇のお歌には天皇でなければ出てこない特有の大きなしらべがある」と言っております。その歌風は、上御一人でなければ詠み得ない、無上のしらべがありました。

 

昭和天皇は記者会見のなかで御製の「作歌の態度」についての問われた時に「できるだけ気持ちを率直にあらわしたい」と仰せになられました。

 

今回の勉強会では、昭和天皇の御製を拝し、昭和天皇の大御心とお偲びするとともに、昭和の激動の歴史の振り返りたいと思います。皆さんご誘いのうえご参加ください。

 

 

【日 時】平成26427日(日)午後6時より

【場 所】文京区民センター 2-B会議室

東京都文京区本郷 -15-14 地下鉄 春日駅 下車1分(大江戸線、三線)、 後楽園下車3分(丸の内線、南 北線)JR(水道橋)

【演 題】御製に学ぶ昭和天皇とその時代

【登壇者】講  四宮正貴 四宮政治文化研究所代表     

【司会者】 林大悟氏

【参加費】資料代500 終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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昭和天皇御製を拝し奉りて

わが国は大東亜戦争という正義の戦いに敗北した後、戦勝国によって日本弱体化政策が行なわれました。その日本弱体化政策が、花開き、実を結んでいる状況を呈しているのが今日の日本の体たらくなのです。これを何とかしなければ日本は滅びます。すでに神代以来の道義国家・神聖国家日本は滅びつつあると言わなければなりません。

 

戦後日本は、戦勝国の「日本つぶし」の嵐の中にあっても、たくましくそしてしたたかに生き抜き、経済復興を立派に遂げてきました。この戦後日本復興の原動力は、つねに日本国民の幸福を願われてきた昭和天皇の大御心であります。そして、戦前・戦中を生きぬいて来られた多くの先人・先輩の方たちの血と汗のにじむご努力をお蔭です。このことを私たちは忘れてはなりません。

 

昭和天皇様は終戦直後次のような御製を詠まれて国民を励まされました。

 

ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ

 

 敗戦の悲しみ・苦しみを降り積もる雪に喩えられ、松の緑が雪に覆われても色を変えないで雄雄しくしているように、日本国民もどのような困難に遭遇しても、くじけることなく雄雄しく生きていくことを望む、という大御心を示したもうたのであります。有難き限りであります。

 

 今日、日本国が存在し、日本民族が生きているのは、実に昭和天皇の仁慈の大御心によるのであります。

 

 昭和天皇は、大東亜戦争末期、広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦し、愈々以って本土決戦しか戦う道がなくなった時、「自分の身はどうなってもいい。ただ民を救いたい」との大御心から、決然として『ポツダム宣言』受諾の御聖断を下されたのであります。あのまま戦争を続けていたなら、本土が戦場となり、わが国土は文字通り焦土と化し、大多数の日本国民が死に絶えたでありましょう。それを救われたのが昭和天皇なのです。この尊い事実を我々日本国民は永遠に忘れてはならないと思います。 

 

その時の尊いご心境を昭和天皇様は次のように歌われています。

 

爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

 

身はいかになるともいくさとどめけりただたおれゆく民をおもひて

 

国がらをただまもらんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

 

 昭和天皇は、国のため民のためならご自身はどうなってもいい、というまさに神のごとき無私のご心境で戦争終結をご決断あそばされたのであります。ここに、つねに国の安泰・民の幸福・五穀の豊穣を神に祈られる祭主・日本天皇の御本質を仰ぐ事ができるのであります。

 

 さらに大事なのは、「国がらをただまもらんと」と歌われていることです。わが国は、ただ単に領土と国民と主権さえあればいいという、建国以来日の浅い普通一般の国家ではないのです。日本独自の国柄すなわち、神代以来・建国以来の天皇を中心とする國體というものが正しく継承されていなければ日本国とは言えないのです。

 

天皇中心の日本國體とは、天皇が政治的支配者として国家権力の頂点に立つ国家のあり様という事では断じてありません。信仰的共同体としての日本の精神的中核の御存在であられる天皇、祭祀国家日本の祭祀主としての天皇を、上に戴いた長い歴史と伝統を持つ国柄のことをいうのであります。

 

つねにご自分を無にして、国の安泰・民の幸福・五穀の豊穣を神に祈られる祭主・日本天皇は、権力や武力で国家・国民を支配と従わせるという覇者ではあらせられず、祭祀主としての信仰的権威と御徳によって国民をしろしめしてこられたのであります。この「しろしめす」とは国民の意志や希望をよくお知りになるという意味であります。わが国は、天皇を中心として発展し統一を保ってきた国であります。

 

日本のように三千年の伝統を有する国は、その長い歴史と伝統と文化の核であるところの国柄・國體というものが破壊されてしまったら、たとえ領土と国民と主権が維持されても、日本は日本でなくなるのです。長い歴史と伝統を持つ国家とは本来はそうしたものなのです。

 

 昭和天皇が「国柄をまもらん」とお歌いになったのは、このかけがえのない日本国の國體が護持するために、たとえどのような苦難があろうとも茨の道を進んでいくとのご決意を示されたものと拝察します。

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千駄木庵日乗四月十三日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。明日及び十四日のインタビューの準備。

この後、病院に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆など。

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2014年4月13日 (日)

日本侵略国家史観論(東京裁判史観)を一日も早く払拭すべきである

 

 大東亜戦争において、支那大陸や東南アジアが戦場になったが、決してわが国が東南アジアをその地域を侵略し領土拡大を狙ったわけではない。アジアを長い間侵略し植民地支配していた米英蘭という西欧列強と戦ったのである。米英蘭などの西欧列強は、それまでアジアの資源を独占していたが、わが国の大東亜戦争によって、アジア諸国はことごとく独立を獲得した。支那も然りである。

 

 いわゆる「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行問題」も政治的作為であり、虚構であることは、歴史家の調査及び種々の文献によって明白である。

 

 そもそも、「侵略」とは、無法に独立主権国家の支配下にある領土等に軍事力で侵入して奪い取り、そのまま長期にわたってこれを占領して主権を侵害するする状態をいう。国際法上の戦争行為・行動や戦争中における一時的占領行為を意味するものではない。

 

 大東亜戦争においてわが国が軍事進攻した地域は、清朝崩壊後、多数の政権・軍閥が並立し統一された独立主権国家が存在していなかった支那大陸と、欧米列強の植民地だったアジア地域であった。支那事変におけるわが軍の支那大陸進攻、大東亜戦争におけるハワイ急襲、マレー上陸・シンガポール攻略、フィリッピン・香港・蘭印・ビルマへの進軍などは、すべて戦争手段たる一時的作戦・戦闘行為であって、断じて侵略ではない。

 

 極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)を創設したマッカーサーですら、一九五一年五月、米上院の軍事外交合同委員会の公聴会で、「日本が第二次大戦に赴いた目的はその殆どが安全保障のためであった」と述べ、「侵略ではなかった」と証言した。

 

 極東国際軍事裁判の裁判長を勤めたウエップもバーガミニーという人の著書の序文で、「米国も英国も日本が一九四一年に置かれたような状況に置かれれば、戦争に訴えたかもしれない」と書いている。

 

 大東亜戦争は、決してわが国による侵略戦争ではなく、わが国の自存・自衛のための戦いだったのであり、かつ、アジア解放戦争であったのである。欧米列強こそ、アジア侵略の張本人であったのだ。

 

 しかるに、わが国自身がいわゆる「東京裁判史観」に呪縛されたまま、謝罪決議を行ったり、謝罪総理談話を発表したのである。「東京裁判史観」とは、極東国際軍事裁判の多数判決即ち六人の判事の西欧列強のアジア侵略を正当化するためにわが国の行為を一方的に処断した判決を正しいとする歴史観である。

 

 支那共産政府そしてそれに追随する韓国などの外国の手先となって祖国の歴史を冒瀆している国内の反日勢力はまさに売国奴としてこれを糾弾しなければならない。

 

 村山談話に「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」と述べられている。つまり、昭和初期からの大東亜戦争に至るまでのわが国の歴史が侵略の歴史であったというのである。これは、米英など欧米列強のアジア侵略を正しきものとし、戦勝国の立場に、わが国の総理が立ったことになる。そして誤れるその立場と考え方にわが国の外交が拘束され支配され続けているのである。

 

 わが国が侵略国家であった、許されざる残虐行為を行った民族であるという全く誤った自虐的な歴史観に支配され続けているがゆえに、わが国民は国家と民族に対する自尊心・誇りの念を喪失しているのである。わが国において、愛国、防衛、伝統、道義など国家存立の基本である精神及び体制を整えようとすると、必ず障害となり続けているのが、この自虐的歴史観である

 

 国民が敗戦以来五十年以上にわたって日本民族の名誉・祖国に対する誇りを喪失しているからこそ、今日のわが国の政治は混迷し、外交は自主性を失い、国防体制は整備されず、教育と道義は荒廃しているのである。細川護煕元総理の記者会見や所信表明における「侵略戦争発言」、終戦五十年における「国会謝罪決議」、そして「村山総理談話」は、わが国の政府そして国会が大東亜戦争を侵略戦争であったと規定したことになり、そうした亡国的状況がますます顕著になった。

 

 大東亜戦争侵略史観を払拭し、大東亜戦争は、自存自衛の戦いであり、アジア・アフリカ民族に民族としての自覚と名誉への回復の可能性を与え、ナショナリズム勃興の引き金となった正しき戦いであった、というまともな歴史認識を確立しなければ、わが国の再生はあり得ない。

 

 極東国際軍事裁判で「日本無罪論」の判決を書いたインドのパール判事は、「時が熱狂と偏見とをやはらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変へることを要求するであらう」と、判決文の最後に書いた。

 

 にもかかわらず、日本国民自身が、今日においてなお「偏見」と「虚偽」から脱出することができないでいる。歴史を大観すれば、明治維新、日清・日露両戦争、満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争は、まさに幕末以来の尊皇攘夷の戦い即ち西欧列強によるアジア侵略支配を打破する戦いであったのである。このことをわが国民は正しく認識し理解し、「過去の賞罰の多くにその所を変へる時代」の招来を期するべきである。

 

 わが国に対してのみ植民地経営・帝国主義の糾弾が行われているが、わが国は糾弾されたり謝罪しなければならないような植民地経営・帝国主義的侵略は行っていない。チベットや東トルキスタンや内モンゴルを見てもわかるように、わが国に謝罪しろと執拗に迫ってきている支那こそ帝国主義的侵略と搾取と暴虐の植民地経営を行っている国である。

 

 我々日本人は、祖国と民族の名誉を回復するために、また、将来にわたり誇りある日本人を育てていくためにも、さらには、共産支那・韓国などからのわが国への侮り・内政干渉を排除するためにも、多くの内外史料を精査し、また多角的・立体的視野に立ち、明治維新以来終戦までの正しい歴史観を形成すべきである。

 

 特に、満洲事変及び満洲国建国の正当性、蘆溝橋事件及び支那事変におけるわが国の自衛権行使、米国側の挑発とソ連の陰謀による日米開戦という歴史の真実を正しく認識して、日本侵略国家史観(いわゆる東京裁判史観)を一日も早く払拭すべきである。

 

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千駄木庵日乗四月十二日

午前は、母のお世話。

午後は、資料の整理。

この後、病院に赴き。母に付き添う。母はとても喜んでくれる。私が励ましの言葉をかけると涙ぐむ。そして私に気を使ってくれる。

帰宅後も、資料の整理。

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2014年4月12日 (土)

日本国は「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一された

日本国は「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一された

 

 

 

日本の統一は、分立してゐた地方の共同体がともどもに日の大神=天照大御神の権威を仰慕することによって成就した。日の大神の御子である「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一したのである。日本各地から太陽神祭祀の象徴である鏡が数多く発見されてゐる。

 

 

 

天照大御神をお祭する祭り主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理・神聖なる御存在=現御神として仰がれた。信仰共同体・日本国の〈生きた全体性〉は天照大御神とその地上的御顕現であらせられる現御神日本天皇によって体現される。

 

 

 

祭祀主による日本国の統合は、軍事力によるのではなく、祭祀による統合であった。古代日本において、軍事力が全く使用されなかったといふことはなかったとしても、基本的には祭祀的統合・結合が基本であった。古代日本の地方共同体が稲作生活を基本として交流し、共同を確かめ、稲作生活に必要不可欠な太陽を神と仰ぐ信仰を共通の信仰としたのである。そして天照大御神を最高神と仰ぐ共同体・日本国として統一された。それが天皇国日本の成り立ちである。

 

 

 

日本は米作り・稲作文化を基本とする國である。「天孫降臨神話」に示されてゐる通り、日本国の君主・統治者たる天皇のご使命は、瑞穂を盛んに稔らせることである。太古において稲作文化は、九州から本州へと急速に広がったといはれる。稲作文化を営むことによって、わが日本民族は共通の意識・文化・言語・倫理観・信仰をはぐくんでいった。日本民族は遊牧・牧畜・狩猟を生活の基本とする民族とは基本的に異なるのである。

 

 

 

稲作生活は、一人では営むことができない。共同作業である田植へ・刈り取りを中心としてゐる。共同体の形成なくして稲作生活は営めない。

 

 

 

稲作生活はまた、規則正しい四季の変化に則って作業を行ふ周期的繰り返しの生活である。ゆへに、自然の影響が大きい。そこで穏やかなる自然環境を願ふために神を祭り神に祈ったのである。

 

 

 

南九州に置ける稲作生活を基本とする祭祀的統一体が西に進み、大和を中心とする祭祀的統一体に発展した歴史を物語ったのが、神武天皇の御東征であるとされる。

 

 

 

伊勢の神宮に奉斎されてゐる神鏡が、崇神天皇の御代に皇居からお出ましになり、大和笠縫の地に奉斎され、ついで垂仁天皇の御代に伊勢に奉斎されたと傳へられてゐるが、この事は、天照大神が皇室の御祖先神であらせられると共に、日本民族全体の祖先神・御親神であらせられることを示したと思はれる。

 

 

 

『記紀』の神話は、かうした神聖なる宗教的統一が行はれた日本国生成の物語が語られてゐる。

 

 

 

柳田國男氏は、「皇祖が始めてこの葦原中つ國に御入りなされたときには、既に國土にはある文化に到達した住民が居た。邑に君あり村に長ありといふのは有名な言葉で、彼等は各々その傳統の祭りを續けて居たと思はれる。それが幸ひなことには、互ひに相扞格(かんかく。お互ひに相手を受け容れないこと・註)するやうな信仰ではなかったのである。天朝はそれを公認し又崇敬なされて、いはゆる天神と地祇との間に何の差等をも立てられなかったこと、是が國の敬神の本義であり、國民も又範をそこに求めて、互ひに他の氏ゝの神祭を尊重したことは、國初以来の一大方針であったらう…それが互ひに隣を爲し、知り親しむことの深きを加ふると共に、少しづゝ外なる神々の力を認めるやうになりかけて居たといふことが、欽明天皇の十三年、新たに有力なる海外の一種の神を迎へ入れんとした機縁を爲したかと思はれる。」(『氏神と氏子』)と論じてゐる。

 

 

 

これはきはめて重要な論述である。日本国は各地方の共同体・村落の祭祀を廃絶し滅ぼして宗教的統一を達成したのではなく、各地方の共同体・村落の祭祀が統合され平和的に包容されて日本国といふ天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体国家が生まれたのである。日本国は、いはゆる天孫民族が先住民を侵略し滅亡させて建国されたのではない。それは大和朝廷の「信仰・祭祀」と出雲・三輪山・葛城山など数多くの地方共同体の「信仰・祭祀」との関係を見れば明らかである。このことが、仏教といふ外来宗教を包容摂取する基盤となったのである。

 

 

 

日本傳統信仰たる神社神道を一般の教団宗教と同一視して、「政教分離の原則」をあてはめることはまったく日本の傳統にそぐはないことなのである。全国津々浦々隅から隅まで神社があり、鎮守の神様が祀られてゐる。日本は神社国家と言って良い。

 

 

 

宗教的祭祀的権威による国家の統一とは、これを迎へる民にとっては、日の大神の来臨であり、豊饒と平和とをもたらす神の訪れであった。古代における天皇の各地巡幸と国見の行事はその継承であらう。

 

 

 

ともかく日の神を祭る祭祀共同体が我が国の起源であり本質である。権力・武力によって統一されたり建国された國ではないのであるから、欧米の諸国家とはその成り立ちが全く異なるのである。ゆへに、欧米国家観によって我が國體を憲法に規定してはならない。

 

 

 

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千駄木庵日乗四月十一日

午前は、諸雑務。

午後一時、永田町の同志事務所訪問、懇談。

午後三時半より、赤坂の日本財団ビルにて、『第七七回東京財団フォーラム』・パラドックスは起こっているか?日米韓の思惑を読み解く』開催。ジェラルド・カーチス氏、川口順子氏、細谷雄一氏、渡部恒雄氏が討論。モデレーターは今井章子氏。

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この後、病院に赴き母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理、

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2014年4月11日 (金)

天皇国日本の本質

 日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。これを『日本神話』は「神が日本國を生みたもうた」と表現した。

 

 したがって、日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國ではない。さらに、征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。だから我が國の國體を「萬邦無比」といふのである。

 

 日本民族の生活の基本たる稲作に欠かすことのできない自然の恵みが、太陽であり大地である。日本民族は太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大御神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の靈が宿ってゐるものとして尊ばれた。そして、古代日本人は太陽神・天照御神を最も尊貴なる神として崇めた。天照大御神は、太陽の神であると共に、皇室の御祖先神であると信じられた。

 

 天照大御神をはじめとする天津神、大地の神である國津神、稲穂の靈をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主たる日本天皇は、天照御神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。祭り主たる天皇は、稲作を営む古代日本人の共同體の統合と連帯の中心者・君主として仰がれた。

 

 古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體なのである。

 

天皇国日本は、そこに住む人々の共同の意識・倫理観・信仰精神と共にある。祭祀主たる天皇は権力者でもないし権力機関でもない。その共同体に生活する国民は、天皇の大御宝と尊ばれ、神の子として育まれ、美しいものへの憧憬憬の心を育てられて生きてきた。

 

その信仰共同体としての国は、母なる大地であり、まさに祖国であり母国である。日本国は、親と子との関係と同じ精神的結合によって形成されてゐるのである。

 

祭祀主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理即ち現御神であらせられるのであって、國民が作った成文法によって制限され、規制される存在ではない。

 

伊藤博文は、明治十五年の書いたといふ岩倉具視宛の書簡で、「…我皇室の如きは、二千五百有余年、邦国の体裁を固定せざる以前に於て、既に君主の地位を占む。豈に国憲を定め国会を起すの時に至り、始めて君主たる事を認めらるゝを俣たんや。」(『伊藤博文傳』中巻)と書いてゐる。

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千駄木庵日乗四月十日

午前は、諸雑務。

病院に赴き、母に付き添う。車椅子に乗っていただき、院内を散歩。

午後三時より、西荻にて、犬塚博英民族革新会議議長にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

終了後、犬塚氏と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿送付。

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2014年4月10日 (木)

天智天皇・昭和天皇の御製を拝し奉りて

天智天皇の詠ませられた次の御製が、『萬葉集』に収められてゐる。

 

渡津海(わたつみ)の豐旗雲(とよはたくも)に入日さし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清明(あきらけ)くこそ                  (一五)

 

 「渡津海」とは海の神。ワタは海の意。ミは神格を表す。山の神をヤマツミといふのに対して海の神をワタツミといふ。転じて海そのものをいふ。伊耶那岐命が御祓をされたときになりませる神が綿津見神(ワタツミノカミ)である。「渡津海」といふ言葉には単に景色としての海ではなく、神秘的な海の神といふ意味が詠み込まれてゐる。

 

 「豐旗雲」は旗のやうに横に豊かに棚引く雲。長大な層積雲のことか。「豐」とは豊葦原瑞穂國・豊秋津島(日本国の別称)、豐神酒(とよみき・酒の美称)、豐明(とよのあかり・朝廷の酒宴)などといふ言葉もある通り限り無い豊かさを表す語である。物質的な豊かさといふよりも神秘的・信仰的な豊かさをいってゐる。

 

「清明くこそ」は様々な読み方があるが、佐佐木信綱氏の「あきらけくこそ」が最も良いと思はれる。「清らけく明らけく」(清らかで明るい)といふのが日本人の倫理・道徳の最高の価値とされてゐる。日本民族は、汚れや陰湿さを嫌ふ。そして清らかで爽やかで潔い人が尊ばれた。「あいつは悪人だ」といはれるよりも「あいつは汚い奴だ」といはれることを恥とした。それは清明心を無上の価値とするからである。コソは「こそあらめ」を省略した語といであり、「きっと~であるぞ」といふ断定的な物言ひである。

 

 通釈は、「大海原の上の大空に豐旗雲に入日がさしてゐる。今夜の月はさぞ清く明るいだらう」といふほどの意。

 

非常にスケールの大きい歌である。自然の光景を歌ひながら、天智天皇御自身の壮大なみ心が表白されてゐる。上御一人となられる方でなければ歌ひ得ない歌である。多くの人々の前で朗々と歌はれた歌であらう。読む者も朗々と唱へるやうに歌ひあげなければこの歌の精神を心に感得することはできない。

 

 茫洋たる大海原の水平線上に旗のやうに横に棚引いてゐるその雲に夕日がさして茜色に染まってゐる。その雄大なる景色を眺めつつ、今夜の月は清く明るく照るといふことを断定的に予想されてゐる御歌である。てらふことも力むこともなく荘厳に歌ひあげてゐるところの如何にも初期萬葉らしい素晴らしい御歌である。天皇もしくは天皇になられる方の御歌の格調はやはり格別であると申し上げなければならない。

 

 上の句の景観は単なる自然風景ではなく、神の生みたまひし素晴らしい瑞兆ととらへた。「渡津海の豐旗雲」といふ言葉に、神代以来の自然の中に神を見る「自然神秘思想」、自然を神として拝む心が表れてゐる。

 

 この雄大にして神秘的な豊麗な光景をわがものにとらへた天智天皇であられたからこそ、大化改新といふ大変革を断行されたのである。

 

 この御歌は、日本人にとって非常に親しい存在である海と月とを題材として、高邁にして雄大なる民族精神を歌ひあげられた歌である。かつ、大化改新を為し遂げられた英主であらせられる天智天皇の御聖徳がそのままこの表れてゐると。この御歌の御精神こそ、わが日本民族の大いなる中核精神である。

 

この天武天皇の御製を拝して思ひ起こすのは、昭和天皇様が昭和十一年に、『海上雲遠し』と題して詠ませたまひし次の御製である。

 

紀伊の國の潮のみさきにたちよりて沖にたなびく雲を見るかな

 

 この雄大なるしらべも上御一人ならではの言葉に尽くし難いすばらしさである。技巧を凝らさないでも魂に響いてくるこのやうな歌は普通一般の人には歌ふことはできない。如何なる大歌人といへども、歌ひ得ないしらべである。

 

 天武天皇・昭和天皇の御製には、人と自然との一体感・生命の交流がある。客観的に歌ってゐるやうで、そこに大いなる自然に驚異し、自然と一体となったみ心が歌はれてゐる。両天皇の御製を拝すれば、神代以来のわが日本民族の雄大なる自然観が、上御一人によって脈々と伝承されてゐることが明らかとなるのである。

 

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千駄木庵日乗四月九日

午前は、諸雑務。

午後は、明日のインタビューの準備、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、病院に赴き、母に付き添う。食欲があるので有り難い。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が柿本人麻呂の歌などを講義。質疑応答。

帰途、参加者の方々と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2014年4月 9日 (水)

わが国の国号について

 

日本国の事を「大和」と言ふ。「大和」は、大和国一国、奈良県山辺郡の地、日本国全体、の三つの意がある。古義では、天皇のゐます都即ち皇都を中心としてその四辺を指したと言ふ。奈良時代になって外国に対して日本国を「大和」と言ふやうになったとされる。

 

「やまと」との意義について色々な説がある。石井良助氏は、「山門」即ち山の入り口とする。その「山」とは三輪山から見て東方の伊賀の山地であるとし、伊賀を越えれば伊勢である。大和より東方で早朝昇り来る太陽を仰ぐ景勝の地である五十鈴川近辺が太陽神たる天照大御神を祭られた。

 

高崎正秀氏は、「やまと」とは「神座」を指し、山の神事を行ふ座席つまり山上の神座であり、この神事の威力が及ぶ範囲内が「やまと」と呼ばれ、それが天皇を祭祀主と仰ぐ日本全体を意味するやうになったとする。つまり、天皇を祭祀主と仰ぐ日本民族の信仰圏の範囲全てが「やまと」なのである。

 

日本武尊の御歌を拝しても分かるやうに、「やまと」は、日本人の「心のふるさと」であり、日本人の最も大切な国を愛する心がこの地に寄せられる。外国に行けば日本国全体が「心のふるさと」になる。

 

佐々木信綱編の『新訓萬葉集』(岩波文庫)では、「日本」と書き「やまと」と振り仮名をつけてゐる。

 

「日本」といふ国号が対外交渉で使はれた例は、大宝二年(七〇二)六月、遣唐使・粟田真人(あはたのまひと)が「日本國使」と名乗ったのが古いが、大宝元年の『大宝令』に「明神御宇日本天皇」(あきつかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)と用いられてゐる。

 

推古天皇十五年(六〇五)に小野妹子が唐に派遣された時の国書に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(『東夷傳俀國傳』、日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されてゐた。

 

わが国は、日の本の国であり、日出づる國であり、日本天皇は天照大神の御子即ち「日の御子」であらせられるのである。国難の時期にこそ、この自覚をますます強固にすべきである。

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千駄木庵日乗四月八日

午前は、諸雑務。

午後は、病院に赴き、母に付き添う。機嫌が良かったのでほっとする。

午後四時半より、衆議院第二議員会館にて、西村眞悟衆議院議員にインタビュー。『伝統と革新』に掲載のためなり。

この後、編集実務担当者と打ち合わせ。

帰宅後は、明日の『萬葉古代史研究会』における講義の準備、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2014年4月 8日 (火)

日本人の言靈信仰が「やまと歌」を生んだ

日本人の伝統精神がやまと歌の形で表現されている日本最大の歌集『萬葉集』には「言霊」「事霊」といふ言葉が数多く出て来る。

 

「しき島の 日本(やまと)の國は 言靈のさきはふ國ぞ まさきくありこそ」(三二五四。敷島の大和の國は言靈の力によって、幸福がもたらされている國です。どうか栄えて下さいといふ意)

 

『萬葉集』に収められてゐる柿本人麻呂歌集の歌である.『萬葉集』の原文は、「事霊」と書いてゐる。萬葉人にとって「言」と「事」は一体であった。これを「言事不二」と言ふ。言葉は事物そのものであるといふことであり、さらに言へば、全ての存在が言葉であるといふことである。

 

日本民族は「ことば」を大切にし、「ことば」に不可思議にして靈的な力があると信じ、言葉を神聖視した。言葉に内在する霊的力が人の幸不幸を左右すると信じた。日本には「一言主神」といふ神様もおられる。この神様は、「吾は悪事も一言、善事も一言、言ひ離(さか)つ神。葛城の一言主の大神なり」(『古事記』)といふ神である。

 

わが國は「言靈のさきはふ國」と言はれる。「日本は言葉の靈が豊かに栄える國である」といふ意味である。日本人は、言葉に靈が宿ると信じ、言葉は生命を持ち、言葉を唱へることによってその靈力が発揮されると信じた。わが國においては、「ことば」は何よりも大切な神への捧げものとされた。神様に祝詞を唱え、仏様のお経をあげるといふ宗教行為も、言葉に霊的な力があると信じてゐるから行はれるのである。

 

折口信夫氏は、「(言靈信仰とは)古くから傳ってゐる言葉の持ってゐる靈力・魂といふものを考へてゐるのであり、それが言靈、つまり言語の精靈である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・靈魂があると考へた。それが言靈である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の靈魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる靈魂が働きかけると信じてゐたのである。」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

「御託宣」「神示」は神靈が籠り神威が表白された言葉である。「祝詞」は人間が神への訴へかけた言葉であり、「歌」も人間の魂の他者への訴へである。「祝詞」にも「やまと歌」にも靈が込められてゐる。「祝詞」を唱えへ「やまと歌」を歌ふと、そこに宿る言靈が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言靈の幸はふ」といふことである。

 

神に対してだけでなく、恋人や親や死者や自然や国土など他者に対する魂の訴へかけが、日本文藝の起源である。日本人の言靈信仰が「やまと歌」を生んだのである。

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千駄木庵日乗四月七日

午前は、諸雑務。

午後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

この後、病院に赴き、母に付き添う。今日は機嫌が良かったのでほっとする。

帰宅後は、明日のインタビューの準備、原稿執筆。

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2014年4月 7日 (月)

最近ご寄贈いただいた書籍を紹介します。

日本を取り戻す 黄文雄氏著 光明思想社 著者より

...

英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄 祥伝社 茂木弘道氏より

            〇

ご寄贈いただきました方に心より感謝します。

 
最近ご寄贈いただいた書籍を紹介します。

           〇

日本を取り戻す 黄文雄氏著 光明思想社 著者より

英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄 祥伝社 茂木弘道氏より

            〇

ご寄贈いただきました方に心より感謝します。

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『日本の美発見・日本絵画の魅惑』展を参観して

昨日参観した『日本の美発見・日本絵画の魅惑』展は、「出光美術館の日本絵画コレクションの内、鎌倉時代の絵巻物、室町時代の水墨画とやまと絵屏風、近世初期風俗画、桃山時代の長谷川等伯、狩野光信、江戸時代の寛文美人図から肉筆浮世絵、琳派、浦上玉堂・田能村竹田・渡辺崋山などの文人画、そして仙厓など、代表的なジャンルおよび作家の作品を選りすぐり、展示しています」(案内文)との趣旨で開催された。

鎌倉時代から江戸時代までの絵巻・仏画・室町水墨画・室町時代やまと絵屏風・近世初期風俗画・浮世絵・琳派・文人画・狩野派と等伯・仙厓とジャンルを分けて、それぞれの代表作品を紹介していた。

 

「松に鴉・柳に白鷺図屏風(左隻) 長谷川等伯 桃山時代」「更衣美人図 喜多川歌麿 江戸時代 重要文化財」 「風神雷神図屏風 酒井抱一 江戸時代」 「老人六歌仙画賛 仙厓 江戸時代」 「当麻曼荼羅図 南北朝時代」 「歌舞伎図屏風 江戸時代」 「四季日待図巻 英一蝶 江戸時代」 「桜下宴遊図 江戸時代」などを参観した。

 

「歌舞伎図屏風 江戸時代」 「四季日待図巻 英一蝶 江戸時代」 「桜下宴遊図 江戸時代」には、江戸時代の庶民の様子が生き生きと描かれていた。「徳川三百年の泰平」という事を実感されられた。

 

長谷川等伯の絵が、狩野派の作家の絵と並んで展示されていたが、等伯の絵の方がずっと魅力があった。ゴテゴテしていないのに迫力がある。そしてすっきりしている絵であった。

 

仙厓の「老人六歌仙画賛」も良かった。一本の筆、そして墨の濃淡だけで、深みのある絵を描くというのは何とも素晴らしい。ガサツのようでいてそうではなく、漫画のようでいてそうではない味わいのある絵であった。 

 

「当麻曼荼羅図」は、阿弥陀仏が山の背後に立っている図で、奈良の当麻寺に伝わる中将姫伝説のある蓮糸曼荼羅と言われる根本曼荼羅の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称である。浄土曼荼羅という呼称は密教の図像名を借りた俗称であり、現代における正式名称は、浄土変相図である。

 

当麻寺は、二上山の下にある寺で、日本浄土信仰発祥の寺とされている。二上山は、金剛山地北部にある山で、山頂が北の雄岳(海抜五一五㍍)南の雌岳(海抜四七四㍍)に分かれる。大津皇子のお墓は雄岳の頂上にある。二上山はなだらかで女性の乳房のように見える美しい山である。しかも藤原京のみならず大和盆地の多くの場所から常に眺めることができる。

 

大和盆地の東から昇ってきた太陽は、二上山のある西の方に沈む。それゆえ、二上山はあの世の入り口と考えられた。乳房の形をした二上山は、「母なる大地」・死者の赴く永遠の世界・常世の象徴であったのではないか。そうした二上山への信仰は、やがて西方極楽浄土の信仰と結合し、二上山の東麓に当麻寺が建立され、その寺に阿弥陀浄土変相図(當麻曼荼羅)が祀られた。ゆえに二上山はわが国浄土信仰発祥の地なのある。

 

「当麻曼荼羅図」に描かれている山は二上山であろう。浄土の入り口と信じられた二上山の背後に阿弥陀仏が立っているのである。

 

大津皇子が、持統天皇から死を賜り、ご遺体が二上山に葬られた時、姉君の大來皇女は次の御歌を詠ませられた。

 

「うつそみの人なる吾(われ)や明日よりは二上山(ふたかみやま)を兄弟(いろせ)と吾わが見む                     一六五」

 

「この世の人である私は、明日からは二上山をわが弟として眺めることであらうか」という意である。「せめて弟が葬られている二上山をわが弟として見よう」と歌ったのである。実際に大和に行って二上山を眺めると、この御歌に籠められた思いを実感できる。

 

持統天皇が大津皇子を浄土の入り口である二上山に葬ることを許されたのは、深い鎮魂の御心からであろう。

 

 

参観後、休憩室でお茶をいただく。目の前に皇居桜田門が見える。そして楠公像も見える。良き眺めである。私は仕事の合間にこの美術館に来て、心をリフレッシュさせることを楽しみにしている。

 

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千駄木庵日乗四月六日

午前は、諸雑務。

午後は、病院に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

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2014年4月 6日 (日)

萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

小生が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

日時 四月九日(毎月第二水曜日) 午後六時半より 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

東京都豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 山手線駒込駅北口徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』(佐佐木信綱編)上巻。

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

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わが國には、対外的危機感が伝統精神の復活・回帰の熱望を呼び覚ます歴史がある

 わが國には、対外的危機感が伝統精神の復活・回帰の熱望を呼び覚ます歴史がある。これが日本におけるナショナリズムと言っていいだろう。國家的危機において國體の本来の姿・あるべき姿に回帰する運動が必ず勃興した。元寇・幕末の時期に起こった動きがそれである。元寇の時には「神國思想」が謳歌され、欧米列強の侵略の脅威を感じた幕末においては「尊皇攘夷思想」が謳歌された。内憂外患交々来るといった状況の今日の日本もそうした時期である。

 

共産支那や韓国の「傲慢無礼」な反日政策・対日侮蔑外交が繰り返されている今日、わが国民は、「民族の正気」を回復し、屈辱と汚名を晴らす行動に出なければならない。

 

ペリーの来航は、徳川幕府の弱体化・権威の失墜を天下に示し、日本國は天皇中心國家であるという古代以来の國體を明らかする端緒となった。これが明治維新の原理たる「尊皇倒幕」「尊皇攘夷」の精神の生まれた根本原因である。そして、徳川幕府を打倒し天皇中心の日本國本来の在り方に回帰する変革即ち明治維新によって日本は救われたのである。

 

「攘夷」とは夷狄(野蛮な外國)を撃ち払うということである。そしてそれは、アメリカやロシアの軍艦の来航という國家的危機に直面して、國防意識が全國民的に高まった時に、自然に発生し燃え上がった激しき情念である。

 

徳川幕府は開府以来鎖國政策を取り、頑なに外國との接触を拒否していたにもかかわらず、アメリカの恫喝に遭遇すると、屈辱的な開港を行ってしまった。明治維新の志士たちはこうした徳川幕府の軟弱な姿勢を批判し否定したのであって、外國との交渉・開港を一切否定したのではない。ここが徳川幕府の封建的な鎖國政策と維新者の攘夷精神との決定的な違いである。

 

吉田松陰や坂本龍馬らは、日本の自主性を保持し日本の真の発展に資する外國との交渉を望んだのである。だから、松陰や龍馬など多くの維新の志士たちは外國の文物を学ぶことに熱心であった。松陰などは下田港から黒船に乗り込み密航してまで外國に渡ろうとした。

 

だからこそ、徳川幕藩体制が崩壊し、明治維新が断行された後の日本では、外國との交際を一切行わないという頑なな攘夷論は姿を消し、外國の侵略を撃退し日本の自主独立を守るために西欧の文物を学ばなければならないという強い意志を持った。これを「開國攘夷」という。ここに日本民族の柔軟性・優秀性があると言える。

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千駄木庵日乗四月五日

午前は、諸雑務。『萬葉集』評論原稿執筆。

午後は、病院に赴き、母に付き添う。

この後、丸の内の出光美術館にて開催中の「日本絵画の魅惑』展参観。

日暮里にて、友人と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2014年4月 5日 (土)

神話を度外視して皇統・皇位継承を論ずるなどという事は全く間違ってゐる

『古事記』において神代を語った上巻と、神武天皇以後のことを語った中・下巻とは決して別のものではなく、一続きにつながってゐるのである。「神代」と「今」はつながってゐるし、天皇は高天原にまします神の地上における御代理・御顕現=現御神であらせられる。そして「神代即今」である。そこには断絶は一切ない。だからこそ皇統連綿・万世一系なのである。かかる「神話的真實」を否定することは日本國體を否定することである。

 

 「日本神話」は、神々の世界が地上に連続するものであること即ち「神統譜」を語ってゐる。そして、日本の神々の根源神が造化の三神であり、最高尊貴の神が天照大神であり、その生みの御子が邇邇藝命であり、そのご子孫として地上に顕はれられた神が現御神日本天皇であらせられることを語ってゐる。

 

つまり「神統譜」と「皇統譜」を一続きとして語ってゐるのである。まさに天皇を中心とする日本國體の淵源と系統を記したものが「日本神話」である。

 

 上山春平氏は「『古事記』の神統譜が、一方にタカミムスビーイザナギーアマテラスーニニギという高天の原の系譜、他方に、カミムスビーイザナミースサノヲーオホクニヌシという根の國の系譜を設定し、この二つの系譜が、アメノミナカヌシを共通の始点とし、イハレヒコ(神武天皇)を共通の終点とする、という形でとらえられ…」(『神々の體系』)と論じてゐる。

 

 伊耶那岐命の國土生成は、『古事記』冒頭に示された「天つ神」=「天地初発の時に高天原になりませる神々」のご命令によって行はれたのである。

 

 『記紀』『風土記』に登場する日本の神々は、日本各地の地域共同體で信仰されて来た神々であるが、「日本神話」全體として統一され系統化された。その始原・根源の神が「造化の三神」である。

 

 「日本神話」は神統神話であり皇統神話なのである。一貫した道統・靈統の継承がはっきりと明確に示されてゐるのである。「万世一系の天皇」は「天地生成の神からの靈統・神統・皇統を継承する天皇」といふことである。

 

 日本民族は、天之御中主神を天地宇宙の根源神と仰ぎ、天照大神を日本の神々の中で最高至貴の神と仰ぎ、天皇を現御神(地上に生きたまふ神)として仰いだのである。

 

 『古事記』神代史は、神々と皇室の系譜を神話として物語ってゐるのであるから、神話の上に立つ歴史である。我が国においては神話と歴史は断絶していないし、別のものでもない。「高天原を地上へ」「今即神代」と言うとおり、神話を起源としてその命の流れとして歴史が展開して来てゐるのである。「天津日嗣」「皇統連綿」とは神代以来今日まで継承されてきた永遠の真実である。神話を度外視して皇統・皇位継承を論ずるなどという事は全く間違ってゐる。

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千駄木庵日乗四月四日

午前は、諸雑務。

午後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

この後、駒込高齢者安心センターに赴き、母のことについて相談。書類提出。

須藤公園を散策。散りかけた桜を仰ぐ。ゲリラ豪雨に遭遇。

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ゲリラ豪雨直前の須藤公園

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ゲリラ豪雨が始まった須藤公園。

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須藤公園弁天堂

 

この後、病院に赴き、母に付き添う。母は少し気が立っている。

帰宅後も、原稿執筆。

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2014年4月 4日 (金)

日韓併合は植民地支配ではなかった

 明治維新を断行したわが国は、李氏朝鮮を援けて清国の侵略を排除した。また朝鮮半島を侵略しようとしたロシアの野望を撃破した。この二つの戦いが日清・日露両戦争である。当時の朝鮮半島が独立国家として自立していれば、わが国は、日清・日露両戦争をする必要もなかったし、朝鮮を併合する必要はなかったのである。しかし、朝鮮が支那やロシアに対して「事大主義」(支那・ロシアという勢力の強い国に従って言いなりになること)に陥り、支那・ロシアの属国となってしまう危険があった。朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、次は日本である。「朝鮮併合」はわが国の独立と自存のための止むを得ざる選択であったし、当時の国際世論の認めるところであった。

 

 併合後は、わが国の指導と投資により、南北縦貫鉄道の施設、多角的港湾の設定、多種多様の殖産興業、教育の普及、保健衛生施設の拡充、水利灌漑施策の充実等々、近代化建設はめざましいものがたった。これは台湾も同様である。つまり、台湾及び朝鮮統治は西欧列強の植民地支配とは全く異なる性格のものである。 

 

 「江華島条約」(明治八年)から「日韓併合」(同四十三年)に至るまでの間、日本の対朝鮮半島政策において明治の父祖が一貫して心血をそそいだのは、欧米列強からいかにして日本および朝鮮を守り抜くかということであった。隣接する朝鮮半島とその周辺が強大国の支配下に入ることは日本の安全に対する脅威であった。

 

 ゆえに、日本自体が朝鮮半島へ進出すべきだというのではなく、朝鮮が第三国の属国にならないようにするというのが、「朝鮮独立」を目指した明治前半期の日本の対朝鮮政策であった。日本が国運を睹して戦った日清、日露両戦争が韓国の独立保全を目的として戦われたことは両戦争の「宣戦の詔書」に明らかに示されている。

 

 「朝鮮併合」以前の朝鮮半島は混乱の極にあった。日韓併合前の朝鮮即ち李王朝政府は名のみのものであって、その実力は全く失われ、当時の朝鮮は独立国家の体をなしていなかった。李王朝は専制政治だった。勢道政治(一族政治)などの言葉も残っている。「朝鮮併合」の翌年支那に辛亥革命が起こり清朝が滅亡している。

 

 日露戦後の明治三八年(一九○五)、「第二次日韓協約」が調印されて韓国は我が国の保護国とされ、外交権を日本が掌握した。そして、韓国統監府が設置され、初代統監に伊藤博文が就任した。その伊藤博文の本心は韓国を名実伴う独立国にすることにあった。韓国皇太子・李王垠殿下は伊藤博文公を追慕して「伊藤は「自分は今、韓国を立派な国に建て直すために懸命の努力を払っておりますが、殿下はやがて韓国の帝位にお就きになる方ですから、それに相応しい御修行にお励みになりますように」と常々申していた」と語ったという。

 

 以来、日本にとっての朝鮮は植民地というより拡張された日本の国土であった。日本国民は、朝鮮・台湾を統治するにあたって、おおむね本土と同じ待遇を与えた。そして本土以上の投資を行った。台湾と朝鮮の総督府、台北駅・ソウル駅を見れば明らかである。日本の何処のにもあのような立派な建物はなかったし、駅舎もなかった。狭量な金泳三は歴史的建築物の旧朝鮮総督府を壊してしまった。台湾の旧総督府は総統府としてそのまま使われている。

 

 しかし伊藤博文公の朝鮮に対する真摯な心を韓国民の一部は理解することができず、ついにハルピン駅頭において伊藤公は安重根の銃弾によって暗殺された。これが、「日韓併合」に至る原因である。                

 

明治四三年(一九一○)の「日韓併合条約」締結(初代総督寺内正毅)は、日本の強圧によるのではない。日本に併合されることによって朝鮮の近代化・文明開化が達成できるということは、当時の朝鮮改革派の合意であった。一九○四年(明治三七年)の日露戦争では、東学党(民間宗教)の教徒五万人は日本と共にロシアと戦った。さらに、一進会の前身の進歩会の人々三五万人がこれに加わった。

 

 一九○四年に結成された「一進会」という近代的な大衆政治組織は、朝鮮王朝と守旧勢力を打倒し、日本と連携して近代化を為し遂げようとした。そして、日韓併合・開化啓蒙運動を展開し、一時期は百万をこえる組織となった。

 

 この大韓帝国内の強力な民意に従い、日本が合法的な手続きを経て朝鮮統治権を持ったのである。「日韓併合条約」は、十九~二十世紀の弱肉強食・優勝劣敗の時代において、日本、ロシア、支那三国間パワーバランスの中で、欧米列国もこれを勧め、支持したものである。当時韓国内に百万人の会員がいた一進会は、「併合嘆願書」を韓国十三道からの「併合嘆願書」と共に、韓国皇帝、韓国首相、日本統監宛に提出し、皇帝の「御沙汰書」により、内閣も一人を除く全員が賛成して実現したのである。

 

 当時の国際法では、政府代表に直接明白な強制がない限り、正当対等に成立したものとされたのである。「日韓併合」は法的に有効に成立しており、国際法上無効などということは金輪際あり得ない。「日韓併合条約」は国際法上有効であったという原則は断じて譲ってはならない。                                

 

 「日韓併合」に対して、韓国・北朝鮮側は「日帝三十六年の植民地支配」として非難攻撃しているが、以上述べて来た通り、「日韓併合」は決して植民地支配ではなかったし、単なる領土拡張政策でもなかった。日本の韓国統治は西洋諸国の行った植民地統治とは全く異なるものであった。これは感情論ではないのである。それは、明治四十三年八月二十九日の「韓国併合に付下し給へる詔書」に「民衆は直接朕が綏撫の下に立ちて其の康福を増進すべし産業及貿易は治平の下に顕著なる発達を見るに至るべし」と示され、また、大正八年三月一日の独立運動事件の後に出された「総督府官制改革の詔書」に、「朕夙に朝鮮の康寧を以て念と為し其の民衆を愛撫すること一視同仁朕が臣民として秋毫の差異あることなく各其の所を得其の生に聊(やすん )じ斉しく休明の沢を享けしむることを期せり」と示されていることによって明らかである。

 

 したがって、朝鮮、台湾、樺太を「外地」と呼ぶことはあったが、「植民地」と呼ぶことは政府によって排された。事実、民法、刑法を始め大半の法律は内地と同一内容で施行され、各種の開発や公共事業も進み、医療衛生制度や教育制度も整備され、内地の政府民間の負担も相当の額に達した。そして乱脈だった李朝末期の韓国社会を正し法治社会をもたらした。これは欧米列強の植民地支配・愚民政策・搾取行為とは全く異なるものであった。

 

 また日韓併合と同時に多くの朝鮮人が雪崩を打って日本に来た。二百万人近く移住して来た。その上、毎年何十万という朝鮮人が出稼ぎに来た。日本の方が朝鮮の植民地になったと言っても過言ではない。

 

 日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは歴史的真実である。日本が韓国統治において一方的な収奪したというのは大きく事実に反する。

 

 日本の朝鮮統治により、朝鮮は多大な発展を遂げた。三○年間に、一○○万足らずだった人工が二五○○万に増え、平均寿命は二四歳から四五歳に伸び、未開の農業国だった朝鮮は短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌した。

 日本本土から優秀な教師が赴任して朝鮮人を教育し、日本政府から莫大な資金が流入し、各種インフラが整備された。その他、文芸・美術など文化面でも復興が遂げられた。 

 

 韓国・朝鮮人の独立運動が国内外において起こったが、一般の民衆から孤立し、限定されたものであった。韓国人の多くは日本統治体制に協力し、多くの有為な韓国人青年が日本軍将校として志願した。日本に協力し日韓融合に努めた多くの青年達が、韓国が独立した後、大統領・首相・閣僚・参謀総長・企業家・高級官僚・学者をはじめとする国家指導者となった。こうした事実を否定することはできないし、否定することはかえって韓国人の誇りを傷つけることとなる。

 

 日本の台湾・朝鮮統治は、台湾・朝鮮を搾取の対象としたのでない。投資と開発、教育の普及を行うことによって、共存・共栄の道を歩んだのである。台湾・朝鮮の遅れた社会構造を解体して産業革命の基礎を作り出した。

 

 日本が大東亜戦争で敗戦に追い込まれたからといって、朝鮮統治が「国策の誤り」であり、「アジア近隣諸国に対して植民地支配と侵略を行ひ、計り知れぬ惨害と苦痛を強いた」と貶めることば絶対に許されない。

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千駄木庵日乗四月三日

午前は、諸雑務。

午後は、『萬葉集』評論原稿執筆。

この後、病院に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆。

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2014年4月 3日 (木)

この頃詠みし歌

 

消えてしまひし虹を恋ほしみ空仰ぐ 美しきものははかなきものぞ

 

早咲きの桜の花を見上げては心浮き立つ我にしありけり

 

春の光差し込む部屋にわが母は拘束されて横たはりゐる

 

拘束されし母の手をとりなぐさめの言葉をかける時の切なさ

 

拘束されし母は苦しみを訴へず明るくゐませばいとしかりけり

 

人多き食品売り場を経巡りて母のためにと卵焼き買ふ

 

三十年昔のことを語らへり三十年後の我は九十七

 

温かき風吹き初めし夜の町 満月は煌々と照り輝けり

 

見上げれば空には満月輝けり 春一番の吹き来たりし日

 

高層のマンションの窓はきらめきて人の生活(たづき)は華やぎてをり

 

きらめけるマンションの窓を眺めつつ人の生活の華やぎを祝す

 

春風に吹かれて揺れるタクシーに乗りて行くなり明るき街を

 

人を誉める言葉の巧みさに舌を巻くベテラン政治家の祝辞聞きつつ

 

命あるうちに為すべきことを為す あきらめるなどといふことの無く

 

駅のホーム 大声で子供を叱りつける母親の顔は鬼にかも似る

 

風強き彼岸の中日 菩提寺に来りて先祖の墓清めをり

 

ゴシゴシと水で洗ひ清めたり先祖の眠るこの墓石を

 

我もまたいづれは入る墓所 水で清めぬ風強き日に

 

買ひて来しおはぎをパクパク食べてゐる九十四歳の母頼もしき

 

はじめて来し店のカウンター 常連がベラベラしゃべり身の置き所なし

 

隣室の家族の声の聞こえ来て休日の病院やや賑はへり

 

団塊の世代が九十代になる頃の老人医療はいかになるらむ

 

まあとにかく人生といふはこんなものと思へばそれであきらめもつく

 

観音堂に祈り捧げる我の事じっと見つめる太りたる猫

 

太陽の霊気わが身に入り来て無限なる力を蘇らせたまへ

 

車椅子の母の笑顔を見てうれし 九十四歳にしてこの生命力

 

母上の命の力甦り明日も生きませ永久に生きませ

 

朝夕に神と佛に当病平癒祈り続けて今日の喜び

 

もっと頂戴と母は言ひたまふ 食欲が増し来ることに何と有難き

 

夕暮に手をとり合ひて語らへる母と我とを神は守らす

 

湯島なる新花町の夕暮を歩み行きたり思ひ出をたづね

 

恋せし人の住みゐし町を春の宵訪ね来たりて心さみしき

 

恋せし人の家は跡形もなくなりて新しきビルが建ちてゐるなり

 

新花町といふゆかしき名前の古き町美しき女(ひと)が住みてゐしかな

 

学生時代の淡き恋を偲びつつ湯島新花町を経巡りにけり

 

新花町てふ町名も今はなくなりて思ひ出のよすがは消え果にけり

 

春来たりし青山霊園に友ら集ひ 桜の下を歩み行くかな

 

春の空にトンビ飛びゐるのどかさよ都の眞中の青山霊園

 

春の苑 桜の花の咲き初めて 今日のみ祭りはさやけかりけり(『先覚金玉均先生没後百二十年墓前祭』)

 

春の苑友ら集ひて先覚者金玉均大人の御霊拝ろがむ()

 

桜花不忍の池に咲き満ちて大江戸の春は今盛りなり

 

夕暮の不忍の池の桜並木 花咲き満ちる夢の如くに

 

諏訪台の桜の花が見ゆるなり春爛漫ののどかなる朝

 

窓開けて彼方の丘を眺むれば桜花爛漫春盛りなり

 

春嵐吹き荒ぶ道を歩む時 雷(いかづち)の音天より下る

              ◎

 

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湯島の街にまだ残っていた黒塀と見越しの松のある家。

「粋な黒塀見越しの松に仇な姿の洗い髪…」という春日八郎氏が歌った『お富さん』という流行歌が、かつて一世を風靡したのを思い出した。湯島でもここ一軒だけであろう。取り壊されないように祈るのみ。

 

 

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千駄木庵日乗四月二日

午前は、諸雑務。

午後は、病院に赴き、母に付き添う。病室に来客あり。

帰宅後は、『萬葉集』評論原稿執筆など。

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2014年4月 2日 (水)

日暮里・谷中で写した写真・その二

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谷中天王寺の見事な桜

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谷中霊園の桜並木。今年から飲食を伴う「お花見」は禁止された。

賛否両論あり。

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谷中霊園の桜

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東叡山寛永寺根本中堂

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日暮里諏方神社

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寛永寺に建てられている「上野戦争碑」

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日暮里・谷中で写した写真

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西日暮里養源寺の弘法大師像と櫻

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養源寺の山門

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谷中霊園の横山大観のお墓

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谷中霊園の上に浮かぶ飛行船

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谷中霊園の桜

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谷中大仏(天王寺釈迦牟尼仏仏像)

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谷中天王寺境内

 

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2014年4月 1日 (火)

千駄木庵日乗四月一日

午前は、諸雑務。

午後は、日暮里諏訪台、谷中霊園、東叡山寛永寺散策。

夕刻、病院に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『月刊日本』連載中の「萬葉集」解釈原稿執筆・脱稿・送付。

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「東京裁判」及び「村山談話」について

戦勝国による一方的な復讐劇=リンチが東京国際軍事裁判であった。東京国際軍事裁判は、“法の真理”に照らして完全に間違ったものであった。「平和と人道に対する罪=侵略戦争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」を新たに作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した。しかし、そもそもそのような概念は、戦争が開始された時にも、終戦時にも、裁判後にも定着しなかった。

 

 東京国際軍事裁判は、人類の貴重な法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反して被告を断罪した。つまり、裁判とは名ばかりの非常の野蛮で公平性を全く喪失した戦勝国による一方的な復讐劇=リンチが東京国際軍事裁判であったのである。

 

 「村山談話」には「国策を誤り」などと書かれているが、昭和三年から二十年までの十七年間に、総理は十四人、内閣は十五も成立しては倒れという状況であるから、一貫した国策など立てられるわけがない。文民と軍、陸軍と海軍の相剋も激しかった。したがって、共同謀議などということもあり得なかった。

 

 「村山談話」にはさらに「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と書かれている。「植民地支配」とは、わが国の台湾及び朝鮮統治のことであるが、わが国の統治によって台湾や朝鮮に「多大の損害と苦痛」を与えたという事実はない。むしろその逆に、わが国の統治によって台湾及び朝鮮は近代化を遂げ発展したのである。    

 

 明治維新を断行したわが国は、まず李朝朝鮮を援けて清国の侵略を排除した。また朝鮮半島を保護下に置こうとしたロシアを撃破した。この二つの戦いが日清・日露両戦争である。

 

 朝鮮併合は、当時の韓国が独立国家として自立していればわが国は、日清・日露両戦争をする必要もなかったし、朝鮮を併合する必要はなかったのである。しかし、朝鮮が支那やロシアに対して事大主義(支那・ロシアという勢力の強い国に従って言いなりになること)に陥り、支那・ロシアの属国となってしまう危険があった。朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、次は日本てある。朝鮮併合はわが国の独立と自存のための止むを得ざる選択であったし、当時の国際世論の認めるところであった。

 

 併合後は、わが国の指導と投資により、南北縦貫鉄道の施設、多角的港湾の設定、多種多様の殖産興業、教育の普及、保健衛生施設の拡充、水利灌漑施策の充実等々、近代化建設はめざましいものがたった。これは台湾も同様である。つまり、台湾及び朝鮮統治は西欧列強の植民地支配とは全く異なる性格のものである。 

 

 また他のアジア各国・各民族も日本による西欧列強の排除によって、独立を達成することができたのである。 

 

 世界の中で、政府及び国会が自国の近代史を侵略の歴史であったと表明した国はわが国のみである。侵略というのなら、英・仏・露・オランダなどは何百年もの間、侵略をくり返してきた。彼らのしたことと比べれば、わが国の台湾及び朝鮮統治非常に短期間であった。そして東南アジアへの進出は植民地支配をしていた欧米列強を排除するための軍事進攻であった。政権・軍閥が並立していた支那大陸への軍事進攻は、独立主権国家の領土を侵した行為ではない。

 

 「痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明」しなければならないような「多大の損害と苦痛を与え」た「戦争犯罪」をしでかした国は日本ではない。戦争犯罪の最たるものといえば、非戦闘員を大量に虐殺した広島、長崎の原爆投下であり、東京大空襲などわが国核都市に対する無差別爆撃である。

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千駄木庵日乗三月三十一日

午前は、諸雑務。

午後は、相談センターの方と共に、「介護付き有料老人ホーム」を二カ所見学。母が入所するかどうかを決めるためである。

夕刻、病院に赴き、母に付き添う。夕食の介助。機嫌が良いのでうれしい。医師及び相談員の方と相談。

帰宅後は、資料の整理。

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