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2014年3月22日 (土)

神話と歴史と皇位継承

何故、天皇は神聖なる御存在であらせられるのか、それは天皇が、天照大神の地上に於ける御代理であらせられるという「神話の精神」によるのである。また、何故天皇が日本國の統治者であらせられるのか、それは天皇が、天照大神より日本國を統治せよと御命令を受けておられるという「神話の精神」によるのである。それ以外に理由はない。このことをまず以て確認しなければならない。古代から今日に至るまで様々な時代の変遷があったが、このことは決して変わることはない。

しかるに、「神話と歴史とを混同してはならない」「神話と歴史とは異なるから、神話の精神で皇位継承を論ずるべきではない」といふ議論がある。これは全く誤りである。相当の尊皇精神を持ってをられる方、國體に関する専門知識を持ってをられる方にかかる議論をされる方がられる。これは実に困ったことである。

神話の世界とは神代の事である。日本天皇が国家を統治されるといふことは、「天壌無窮の御神勅」に基づくのである。天皇の国家統治は、まさに神代から発するのである。これはわが國體の根本である。神話を無視して日本國體を論ずることは出来ない。

神話と歴史は区別してはならない。日本の最古の歴史書は『古事記』『日本書紀』である。その歴史書たる『記紀』は、神話の世界から語られてゐる。わが國においては、神話と歴史は分かち難くつらなってゐる。「今即神代」が日本傳統信仰の根幹である。「高天原を地上へ」がわが國民の信仰的理想である。日本的変革・維新は、「高天原への回帰」「今即神代の実現」である。神話の世界即ち神代と人間の歴史世界を切り離し、分離させてはならない。

『天壤無窮の神勅』には次のやうに示されてゐる。
 「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」。

『天壌無窮の神勅』の「皇孫」といふお言葉は「ウミノコ」と読む。近世の國學者・平田篤胤は「孫をマゴと云ひ、曾孫をヒコと云ふ。然れどマゴとは真子(マコ)の義にて、生子(ウミノコ)より次々の子孫までを広く云ふ言(コト)にて孫をのみ云ふ語には非ざるなり。」(『玉襷』)「我が天皇命の高御座は、万千秋之長五百秋(ヨロヅチアキノナガイホアキ)に、所知看(シロシメ)せと依賜へる御座なる故に、その高御座に位(マシマ)すは、即天照大御神の御子に坐せばなり。(子とは、子孫末々までにわたる名なること、師説(註・本居宣長の説)に、具(ツバラ)にいはれたるがごとし。)」(『霊の真柱』)と述べてゐる。

天皇が天照大御神の生みの御子であらせられられることが、天皇の神聖性と天皇が日本國をしろしめす「おほきみ」であることの根拠である、といふことが端的に示されてゐる。「これ吾が子孫(うみのこ)」とは、邇邇藝命をはじめ神武天皇そして今上天皇に至るまでの御歴代の天皇は、天照大神の「生みの子」であり、御歴代の天皇は、天照大神の御神霊と一體であり、同一神格であり、邇邇藝命も神武天皇も御歴代の天皇も今上天皇も、天照大神と同じ関係であるといふことである。ゆゑに天皇を皇御孫尊(すめみまのみこと)と申し上げるのである。今上天皇は、邇邇藝命・神武天皇と不二一體なのである。天皇が現御神・現人神であらせられるとはかういふ信仰である。

 つまり「皇孫(うみのこ)」とは単に子孫といふ意味ではなく、天照大神が直接にお生みになった御子即ち天照大神の神霊の天降った御子そのものであるといふことなのである。即ち『天壌無窮の御神勅』は、歴代の天皇は、それぞれ肉身は異なられても、霊的・魂的には邇邇藝命と永遠にわたって全く同じ霊格であるということを示してゐるのである。天照大御神との御関係は、邇邇藝命も、歴代天皇も、今上天皇も全く同じなのである。

神話と歴史を分離させて日本國體・天皇統治の御本質・そして皇位継承を論ずるなどといふことは全く誤りである。

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