« 千駄木庵日乗一月八日 | トップページ | 千駄木庵日乗一月九日 »

2014年1月 9日 (木)

國體と憲法

「法」とりわけわが国にとっての「成文法」とは何かを考えなければならない。西洋法思想が入って来る以前、即ち江戸時代以前にも、わが國には法の支配はあった。日本は法治国家であった。古くからわが国にあった「成文法」と西洋近代の「成文法」との違いを考えねばならない。

 

今日の日本は「法治国家」であり、「法の支配」が行われていると思う。しかしそれは日本の伝統に深く根ざしたものであるのか、日本の伝統と矛盾したものではないのか、日本國體と相容れないところは無いのかが重要な問題である。

 

道徳・正義を実現する手段が「法」であるというのが通説である。法を守ることが道徳を実行することと同意義だということだ。しかし「法」がすべて正しいとは限らない。悪法というものも時に制定される。『現行占領憲法』によって正義・道徳が実現されているとは決して言えない。

 

憲法とは「国家の組織や運営にかかわる基本的な事項に関する定めをしてきた法」「この國のかたち」(Constitution)を成文化してものである、つまり「国家の組織・構成・大政・体質、政治の在り方、その拠って立つ伝統や文化」を記したものという定義がある。

 

西洋近代的意味の憲法は、絶対主義支配を打倒した市民革命によって出来上がった政権を正当化するための法律である。だから「憲法は権力の制限規範」「憲法は主権者・国民が権力を託した人々を管理するための規範」「憲法は主権者国民と政治家の間の最高度の約束である」ということになる。この議論を正当化するために依拠したのがルソーの「社会契約論」である。個人の権利を保障するために国家が作られるという思想である。そして国家と国民との間の契約が近代的意味での憲法ということになる。

 

しかしこの思想は、君民一体の信仰共同体であり、天皇を祭祀主と仰ぐわが日本國體とは絶対に相容れない思想である。わが国には絶対主義支配体制打倒の市民革命は起らなかった。明治維新は國體明徴化による変革であった。

 

『現行占領憲法』は日本の政治伝統や文化が成文化されていないから正しい「憲法」ではない。

 

日本國という國家は、単なる権力機構・政治的支配機関ではない。もっと大らかにして神聖なる存在であり、精神的・道義的・信仰的・文化的存在である。人と人とが精神的に結合した共同體である。日本國はその生成の過程を見れば明らかな通り、天皇を祭祀主とする信仰共同體である。日本國は革命とか開拓によって人為的に造られた國ではなく、神が生みたもうた國であるという神話と信仰が古来からの國體思想である。

 

 國家を単なる権力機関として見ると、國家の神聖性・道義性が隠蔽され、日本國の文化も、伝統信仰も、文化も、道義も、全て権力機関としての國家の下に置かれ、その支配を受けなければならなくなる。そして権力機関としての國家のみが前面に出て、国家が國民と対立し、やがて國家の中で権力と國民の闘争が日常化する。現代日本は、まさにそうした状況に置かれつつある。

 

 今日においてさらに重大な問題は、日本國天皇の祭祀という共同體國家日本の存立の基本である<天皇の祭祀>が、憲法の制約下に置かれるようになっていることである。

 

 憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現していない「天皇条項」があるから、日本は安定を欠いている。

 

 國家の基本法典たる憲法は必ず、その國民の、立國以来の歴史の中に培われてきた國民共同体(これが憲法上の「國民」の真の意味である)に立脚しなければならない。

 

 日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている現行憲法が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。

|

« 千駄木庵日乗一月八日 | トップページ | 千駄木庵日乗一月九日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/58910323

この記事へのトラックバック一覧です: 國體と憲法:

« 千駄木庵日乗一月八日 | トップページ | 千駄木庵日乗一月九日 »