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2013年11月13日 (水)

三島由紀夫・森田必勝両氏の辞世について

 

 三島由紀夫氏辞世

 

 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜

 

 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

 

 森田必勝氏辞世

 

 今日にかけてかねて誓ひしわが胸の思ひを知るは野分(のわき)のみかは

 

 「益荒男が」の歌は、直訳すると、「日本男児が腰に差している太刀の刀が鞘に合わないために持ち歩くと音がすることに幾年も耐えてきたが今日初霜が降りた」という意。しかし、「鞘鳴り」というのは単に音がするという物理的な意味ではない。日本には古代から刀には魂(多くの場合蛇・雷の靈、須佐之男命の八岐大蛇退治の神話がある)が宿っているという信仰があった。鞘が鳴るというのはその刀剣に宿っている靈が発動するという意味である。刀が靈力を発揮したくて発動するのを何年間も耐えたということである。檄文にあるところの「我々は四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ」という叫びに呼応する歌なのである。

 

 「散るをいとふ」の歌は、「散ることを嫌がっている世の中にも人にも先駆けて散っていくのこそ花であると吹く小夜嵐(夜に吹く強い風)」という意味である。これは端的に言って「散華の美」を歌っている。今の世の中は繁栄と生命尊重にうつつを抜かして、命を絶つとか國のために生命を捧げるということを嫌がっているが、生命以上の価値即ち日本の伝統と文化そしてその體現者でらせられるところの天皇陛下の御為に命を捧げることこそ真の美しき生き方であり死に方であるという歌である。

 

 「今日にかけて」の歌は、「今日という日にかけたかねてから誓っていた私の胸の思いを知るのは野分(のわき・秋から初冬にかけて吹く強い風)のみであろうか、いやそうではない」という意。誰も分かってはくれないのではないかという孤独感を持ちながらも、いやそうではない誰かは分かってくれると信じて散っていく心を歌っている。

 

 「今日の初霜」「小夜嵐」「野分」という季節感のある言葉を用いて志を述べているのはまさに日本文芸・敷島の道の道統を正しく継承していると言える。

 

 和歌というものは、日本伝統精神を保持し継承する殆ど唯一の文芸である。和歌の形式(五七五七七)とそこから生まれる「しらべ」が日本人の心情を訴えるのにもっとも適しているのである。

 

 『萬葉集』以来、歌は祈りであり鎮魂である。本居宣長は「物のあはれにたへぬところより、ほころび出て、をのづから文(あや・言葉の飾った言い回し。表現上の技巧・注)ある辭が、歌の根本にして、眞の歌なり。」(石上私淑言・いそのかみささめごと・歌論書)と述べている。「もののあはれ」即ち物事に対する感動・自己の魂の訴えを一定の「カタ」におさめて美しく表現するのが歌である。

 

 そうした特質を持つ和歌の中で、萬感の思いを全靈を傾けて表白しようという切なさにおいて成立しているのが、「相聞」と「辞世」と「挽歌」である。とりわけ「辞世」は文字通り命を賭した歌である。

 

 現代の危機の一つとして、言葉の乱れということが言われている。この言葉の乱れは、情報化社會といわれ、活字媒體のみならず様々な情報伝達機能が発達した現代において、言葉を発するということ自體、苦しむこともなくなりきわめて安易になっていることが原因になっていると思われる。これが現代の腐敗・堕落・混迷の原因の一つである。つまり言葉までもが商品化しているのである。「言靈のさきはふ(豊かに栄える・注)國」といわれてきた日本において、現代のように言靈があまりにも安易に語られて過ぎている時代はかつて無かった。

 

 死に臨んだ時の「言葉」「歌」は即ち「辞世」は命懸けの言靈である。昭和四十五年十一月二十五日の三島由紀夫・森田必勝両氏の自決の際の「辞世」はまさに命懸けの言葉である。

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