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2013年9月 2日 (月)

『太陽の道』について

天照大御神は、神勅のままに、天皇のお側近くでお祭りさてゐた。ところが、『日本書紀』の記すところによると、第十代・崇神天皇の御代に、疫病が多く発生し、國民の半数以上が死亡した。また百姓が流亡し背く者も出て、天皇の統治は困難を極めた。そこで、崇神天皇は、民の苦悩をわが苦悩とされ、民が苦しむのは御自らの罪であると思し召されて神を祀り祈られた。

 

これより前に、宮中では、天照大御神と大和大国魂の二柱の神を天皇の御殿にお祭りした。ところが、神々はそれぞれの威勢を遠慮されて、共に住みたまふことに安心なさらなかったと傳へられる。

 

崇神天皇は、皇祖天照大御神は、皇祖神として宮中の御殿に祭るだけでなく、国家国民全体の親神・最尊最貴の神として皇居の外でもお祭りすべきであると考へられ、天照大御神に皇居をお出まし願ひ、皇女・豊鍬入姫命(いよすきいりひめのみこと)を御杖代(神の御杖となって仕へる人。天皇の名代として神に奉仕する皇女=斎宮)として、大和の笠縫邑にお祭りした。

 

『日本書紀』によると、崇神天皇六年に、天照大御神を倭の笠縫邑にお祭りしたと記されてゐる。そこには今日、檜原神社が建立されてゐる。また元伊勢と呼ばれてゐる。

 

この神社の神域には、今日、北白川宮房子内親王(元伊勢の神宮祭主)の御歌

 

立つ石に むかしをしのび をろがめば 神のみいつの いやちこにして

 

の歌碑が建立されてゐる。

 

「いやちこ」とは、神の霊験などが著しいさま。あらたかなこと。はなはだ明らかであること。「みいつ」とは、霊威・神威のこと。

 

桧原神社の真向ひに、大和盆地の西にある二上山が眺められる。春分の日・秋分の日には、桧原神社の背後から昇った太陽が二上山のしずむといふ。桧原神社の鎮座する地(倭の笠縫邑)は、太陽の昇る山の麓であるので、この地に天照大御神を祀ったと考へられる。

 

桧原神社の西には、全長二七二㍍の天皇御陵に匹敵する大きさの前方後円墳がある。倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおほいちのはか)と申し上げる。孝霊天皇の皇女であらせられ、三輪山の神である大物主神の妃となられたと傳へられる。三輪山の神そして三輪山の背後から昇る太陽神をお祭りする役目を果たされた皇女であらう。

 

このお墓は『箸墓古墳』ともいはれる。古墳墓は「令義解」に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」と書かれてゐて宮内庁が陵墓参考地として管理してゐる。

 

この箸墓古墳を中心に東西約200キロの直線(北緯34度32分)は、「太陽の道」と呼ばれる。この線上に古代の祭祀遺跡が並んでゐるといふ。

 

東の端は、伊勢の斎宮址。西の端は、淡路島伊勢の森(伊勢久留麻神社)。この二つの「伊勢」のあいだを、古代遺跡や古い由緒をもつ神社が点在してゐて、共通点が太陽神の祭祀に関係があり、磐座・岩石が信仰の対象となり、女性の祭祀者のイメージが感じられるとされる。

 

太陽神の祭祀に深いかかはりを持った古代の「聖線」が「太陽の道」と名付けられた。桜井市の、長谷寺、三輪山、桧原神社、国津神社、箸墓、堺市の大鳥神社、淡路島の伊勢久留麻神社、伊弉諾神宮が線上に位置する。地図も磁石もない時代に東西の直線を引くことができたのはまことに不思議である。

 

堺市の大鳥神社の御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。社伝によれば、伊勢の能褒野(のぼの)で命を終へた日本武尊は一羽の大白鳥となり、この地にしばし留まられたあと、天に向って飛翔したといふ。大鳥といふ社名はこれに由来する。

 

日本武尊の叔母君は、天照大神を奉じて伊勢にいたった倭姫であり、大和を中心として東西の陸の両端に、それぞれ、ゆかりの斎王宮と大鳥大社があり、しかも、それらが同一の緯度上に並んでゐるのである。

 

淡路島の伊勢久留麻神社の御祭神は、大日孁貴尊である。伊弉諾神宮は、淡路国一の宮。御祭神は伊弉諾大神と伊弉冉大神。伊弉諾大神と伊弉冉大神は國生みを終へられた後、この地に鎮まられたと傳へられる。いはゆる「太陽の道」は、古代日本の日の神信仰が生んだ不思議な事実である。

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