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2013年9月12日 (木)

継体天皇のご即位は決して新王朝の成立ではない

 

何とかして日本皇室の萬世一系・皇統連綿の伝統を否定したい反日歴史学者は、いろいろ想像を逞しくして、わが国古代に王朝の交替があったと主張する。そして葛城王朝・三輪王朝・河内王朝などという「王朝」なるものを設定している。

 

しかし、葛城氏や蘇我氏の権勢が強かったとしても、それは天皇の権威を背景としたものであった。

 

皇統の断絶が案じられた武烈天皇崩御の時も、大伴氏や物部氏という大臣・大連は、大きな権勢を持っていたのであるから、自ら王位を狙い新たな王朝を立てることはできたにもかかわらず、応神天皇五世の御子孫男大迹尊(おおどののみこと)をお迎えして天皇の御位について頂いた。この事実は、当時すでに萬世一系皇統連綿の道統が継承され続けたことを証ししている。

 

また、武烈天皇の無道な所行があったにもかかわらず、大和朝廷の打倒すなわち革命という事態にならず、皇統に属する方を求めて、皇位をお継ぎ頂いたことは、萬世一系・皇統連綿の道統がゆるがなかったことを証ししている。

 

支那では、天子は有徳の君子が天命を受けてなるものであり、いったん徳を失えば直ちにその位を他に譲らなければならなかったが、わが国では少しもそのようなことはなく、やはりどこまでも皇統に属する方に皇位を継承していただいたのである。それは古代から今日にいたるまでのわが國の揺るぎない道統である。

 

継体天皇が、二十年間大和にはお入りにならなかったことをとらえて、「継体天皇は皇位簒奪者であったので即位に反対する勢力を恐れてのことだ」という推測がある。しかし、大和朝廷の統治範囲はすでに大和盆地だけではなくなっていたのだから、大和盆地の中だけに宮殿が造営されるという必然性はない。

 

継体天皇の皇后は、手白香皇女(たしらかのひめみこ)である。手白香皇女は第二十四代仁賢天皇の皇女であり、母君は第二十一代雄略天皇の皇女・春日大娘皇女である。つまり、継体天皇は、仁賢天皇の皇女であり雄略天皇の皇孫女であられる方を皇后とされたのである。

 

そして、継体天皇と手白香皇女の間にお生まれになった方が、第二十九代・欽明天皇であられ、その御子孫が永く皇位を継承されるのである。

 

「継体」という諡号(しごう・貴人、僧侶の死後、その人の生前の行いをほめたたえておくる名。おくり名)の意味は、「天子の位を継承する。後継ぎ。継嗣」である。そして皇太子のことを「継体の君」という。支那の古典『史記』には「継体とは創業の王に非ず、是の嫡子先帝の正體を継ぎて立つ者を謂ふなり」と明解に示されている。「継体」とは、皇統及び先帝の正しい統治を継承するという意味である。継体天皇のご即位は決して新王朝の成立ではない。

 

資料の乏しい時代の歴史研究は、どうしても研究者の自分勝手なあるいは特定の意図に基づいた推測が叙述を支配する傾向が強い。これは危険である。

 

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