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2013年9月14日 (土)

白山神社に参拝して

今日、参拝させていただいた白山神社は、文京区に鎮座する神社の中でも、根津神社・湯島天神と並んで創建が古い神社である。しかるに小生は今日初めて参拝させていただいた。白山の町の中に溶け込んだ古い神社という雰囲気であった。

 

 

 

御祭神は、菊理姫命、伊弉諾命、伊弉冊命。創建は、天暦年間(九四七~九五七)に加賀一宮白山神社を本郷元町(現在の本郷一丁目)の地に勧請したと伝えられる。後に元和年間)将軍秀忠の命で白山御殿(現在の小石川植物園内)に遷座、明暦元年(1655)現在地に再度遷座したという。五代将軍・德川綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けた。

 

 

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境内掲示板には次のように記されている。

 

「当社人皇六十二代村上天皇天暦2年(9489月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。

 

 建武4年(1338)足利尊氏により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和2年(1616)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安4年(1651)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655)現在地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍家綱公之生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文6年(1677929日祭礼賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。

 

 元禄3年(1690)正月29日旧幕府より社領30石寄附之あり。右朱印元禄6年(1693929日戸田能登守相渡さる。元禄16年(17031129日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで悉く類焼し、宝永元年(1704614日加藤越中守掛にて仮殿手当として金500両桧5000挺寄附あり。再建せられたるも享保3年(17193月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治32年拝殿建設、昭和8年改修し同9918日盛大に正遷座大祭施行す。

 

なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり。

 

 当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の一つである」。

 

 

 

 

 

驚いたのは、孫文の肖像が刻まれた碑(「孫文先生座石の碑」)があったことである。白山神社総代、各町会有志によって建立されたという。碑文には次のように記されてあった。

 


「明治43年(19105月中旬、神社近くに住む盟友、宮崎滔天宅に寄遇していた孫文は滔天と共に、白山神社の境内の石に腰掛け、中国の将来と革命について語り合った。そのとき、夜空に光芝を放つ、一条の流星をみた。このとき、祖国の革命を心に誓った。そして、清朝を倒した辛亥革命の最高指導者となり、中国国民党の創設者になった。孫文が流星を見て、清朝を打倒し、新中国建設を誓った場所を後世に残そうと、白山神社の清水宮司を中心に町会有志が、この記念碑を建立した。
孫文と滔天が見た、一条の光芝を放つ流星は、ハレー聾星ではないかと思われる。ハレー彗星が太陽に最も近づいたのは、明治43年(1910420日であった。中国や日本では、むかし、この星を妖星と呼び、変事が起こるきざしと考えられていた。」

 

 

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白山という地名は、この神社が鎮座してゐることに由来するし、小石川という地名も、白山神社が加賀国石川郡の白山神社本社より勧請されたことによるということである。加賀藩邸もこの近くにあり、現在東京大学となっている。しかし、この白山神社と加賀藩との関わりはなにも記されていなかった。宮崎滔天がこの神社に近くに住んでいたということも全く知らなかった。

 

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