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2013年8月28日 (水)

天皇・國體について

古代の天皇様は現御神(生きたまふ神)として崇められつつ、人としてもきはめて自由に行動されてゐた。天皇の最大の御使命である祭祀とは、神人合一の行事である。「神人合一」とは「人にして神・神にして人」といふことである。天皇は、「人にして神・神にして人」であらせられるのである。

 

この場合の「神」とは一神教のゴッド・宇宙創造神・絶対無謬の唯一絶対神ではない。天地自然に宿りたまふ八百万の神々であり、太陽神であるとともに皇室及び日本民族の祖先神=天照大御神である。

 

「天皇が現御神である」とは、天皇が唯一神・全知全能の神・絶対無謬神だといふ事ではない。天皇が祭祀国家・信仰共同体日本の祭り主といふ「人として最も尊い御存在」であるといふことである。

 

また、祭り=神人合一とは、一切の「私」を禊祓ひ去って生成の根源に帰ることであり、「無私」こそが「祭」の窮極である。したがって、天皇の本質は「無私」なのである。無私だからこそ現御神といふ最高に尊い御存在となられるのである。

 

猪瀬直樹氏は、「天皇家に意味があるとすれば、天皇が無私=ゼロ地点にあるので、みんなが欲望で生きてゐる時に、さういふ人がお祈りをしてゐるのだなあといふことがある種の秩序になってゐる」と述べとていたが、ほぼ正しい見解である。

 

天皇が国民を統合される尊貴な御存在であられるといふことは、天皇は神にして人であらせられるといふことである。天皇が日本国の祭祀主であらせられることが、天皇が国家国民の統合の中心であり君主であらせられることの源泉なのである。「人にして神である」といふ天皇及び日嗣の御子の御本質・日本国の祭祀主であり統治者としての御本質に立ち返っていただくことが基本である。

 

天皇の「おほらかにして自由なそして神聖なる君主としての伝統」「祭り主として神聖性」「おほらかなる君主として国民を統治される真姿」が回復されるべきである。

 

天皇及び皇室は、占領軍によって押し付けられた「占領憲法」の規定などに全く拘束される必要はない。三千年の伝統のある天皇中心の國體及び天皇・皇室を、アメリカから押し付けられた成文法の枠の中、もっといへば欧米から輸入された近代民主主義の中に閉じ込めてしまふことが間違ひなのである。

 

成文法といふものは、人間相互の不信の上に成り立つものである。人間同士が信じ合へないから、成文法を作ってお互ひにそれを遵守することによって秩序を保つのである。

 

ところがわが国は天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同体である。前述した通り、天皇と国民の関係は権力関係・法律関係ではなく、精神的・信仰的関係である。ゆへに、天皇は人間不信の上に作られた成文法の枠外の御存在であられる。天皇中心の日本國體は、近代成文法や近代合理主義や近代民主主義を超越している。

 

天皇の御地位・自然な御行動・御発言は、成文法や政治家・官僚・メディアによって制限されるべきではない。

 

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