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2013年8月16日 (金)

日本国は「中国」「中華」であり、日本天皇は「天子」である

世界の先進国で支那を「中国」と呼んでゐる国は日本以外にない。どこの国も「支那(英語ではChina)」と呼んでゐる。わが国が支那のことを「中国」などと呼称する自体、「日本は中国の属国であり冊封国だ」と認めることになり、わが国にとってこれほどの屈辱はない。

 

さらに、わが国がとてつもない差別思想である「中華思想」を容認することとなり、「中華帝国主義」に侵略され併呑される原因となる。わが国及びわが国民が支那を「中国」と呼ぶことは、極論すればわが国及びわが国民が支那の支配下に日本が入ることを容認することになる。

 

古代において日本は「中華」であり、日本天皇は「天子」であるとの自覚が確立してゐた。『日本書紀』巻第九の「神功皇后九年の条」に、神功皇后が朝鮮半島に赴かれた時、新羅の王が「吾聞く、東に神國(かみのくに)有り。日本と謂ふ。亦聖王(ひじりのきみ)有り。天皇と謂ふ。必ず其の國の神兵(みいくさ)ならむ。豈兵を擧げて拒(ふせぐ)ぐべけむや」と述べ、白旗を掲げて降伏したと記されてゐる。新羅が降伏したのを聞いた高麗・百済両国の王も、日本軍の陣営の外に来て、「今より以後(のち)は、永く西蕃(にしのとなり)と稱()ひつつ、朝貢(みつきたてまつること)()たじ」と述べたと記されてゐる。

 

この記述にはわが国古代における「わが国は神の国であり、天皇は聖なる君主であらせられ、日本の兵は神兵であるといふ意識」が明確に示されてゐる。のみならず、隣国朝鮮においてもさうした意識があったのである。

 

また、『日本書紀』巻十四の「雄略天皇七年の条」には、「時に、新羅、中國(みかど)に事(つか)へず、天皇、田狹臣(たさのおみ)の子弟君(おときみ)と吉備海部直赤尾(きびのあまのあたひあかお)とに詔して曰はく、『汝、往来て新羅を罰()て』とのたまふ」と記されてゐる。

 

ここに記されてゐる「中國」とはわが国の事である。わが国は古代から、わが国が「中華」であり、西の隣の新羅・百済・高麗の三国はわが国に朝貢する「蕃國」であるといふ意識があったのである。

 

つまり、わが国は、支那の中華思想を換骨奪胎し自己薬籠中の物として、「わが国こそが中華である」との意識を確立したのである。

 

推古天皇十五年(六〇七)、隋に使者を遣した。『日本書紀』には、「大礼小野妹子を大唐に遣はす」とある。これに対応する『隋書』倭国伝の文には、「其の国書に曰く、『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々』と。帝これをみて悦ばず。鴻臚卿に謂って曰く、『蛮夷の書、無礼なるものあり、復た以て聞することなかれ」(隋の煬帝はこの国書を見て喜ばす、外務担当の大臣・鴻臚卿に『野蛮人の国書は無礼である。聞くことはない』と言った)と記されてゐる。

 

「日出づる処の天子」といふ言葉には、わが日本は日の神天照大御神の地上的御顕現であらせられる日の御子が統治される国がであるといふ思想精神が表白されてゐる。わが日本天皇は日の神の御子であるといふ思想精神である。中華思想においては「天子」は支那の皇帝ただ一人であるはずである。しかし、日本はこれを認めず、わが日本天皇も「天子」であるとしたのである。また「書を致す」「恙無きや」といふ句も、対等の立場に立った表現である。

 

次の年の推古天皇十六年(六〇八)四月に、隋の答礼使・裴世清が帰国する小野妹子と共に日本に来た。隋は、日本の隋に対する対等関係以上の外交姿勢を「無礼」とは思っても、事実上これを容認したのである。

 

九月十一日には、推古天皇は裴世清の帰国に際しての聘問(進物を携へて訪問する意)の辞で、「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に致す」と仰せられた。「天皇」と「皇帝」といふ表現も、日本が支那よりも対等以上の関係のあることを表はしてゐる。

 

以上述べてきたやうに、わが国は古代において既に日本国は「中国」「中華」であり、日本天皇は「天子」であるとの自覚が厳然と確立してゐたのである。

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