« 千駄木庵日乗八月十九日 | トップページ | 千駄木庵日乗八月二十日 »

2013年8月20日 (火)

支那共産党の幹部や政府の官僚たちは国家を私物化し人民を食い物にしている

私は何年か前、約二週間ほど支那大陸を旅した。その旅行で実感したのは、支那人は「衛生観念」と「羞恥心」が希薄であるといふことである。南京に行った時、日本で言へば国民宿舎のやうなところに泊まったのだが、廊下の痰壷の上に「痰壷に糞をするな」と書いた「張り紙」があった。かういふ「張り紙」があるといふことは実際に痰壷に大便をする人がゐるといふことである。日本では考へられないことだ。衛生観念と恥を知る心があればさういふことは出来ない。

 

また、町の食堂に行ってトイレに入ると、トイレの床に小麦粉か何か食材が入った袋がたくさん積んであった。また日本でも名が知られ、観光客が多く訪れる施設のトイレに扉が無い事が多かったし、トイレットペーハーも無い所が多かった。女性の旅行者は本当に困ったであろう。

 

また、支那は「張り紙」「標語」も多い国である。「張り紙」や「標語」が多いといふことは、そこに書かれてゐることが実行されてゐないといふことでもある。「中国共産党万歳」といふ「標語」が多いのは、腹の底でさう思ってゐない人が多いから、「標語」を掲げなければならないのである。國民党独裁体制下即ち「中国人」によって支配されていた時代の台湾も「標語」が多かった。「総統万歳」「光復大陸」「実践三民主義」といふ標語が其処彼処に掲げられていた。

 

また、政府や国民党関係の建物の中には孫文の言葉である「天下爲公」といふ言葉が多く掲げられてゐた。

 

司馬遼太郎氏は次のやうに論じてゐる。「いま台北にいる。…歩道に段差が多く、あやうく転びそうになった。歩道は公道なのだが、どの商店も、自分の店の前だけは適当に高くしている。高さに高低がある。『"私〟がのさばっていますな』と、冗談をいった。中国文明は偉大だが、古来、"私〟の文化でありつづけてきた。皇帝も"私〟であれば大官も"私〟だったし、庶民もむろんそうだった。"私〟を壮大な倫理体系にしたのが、儒教であった。孝を最高の倫理とするのはみごとだが、孝は身の安全と家族の平穏ということのみの願望になりやすい。近代中国の父といわれる孫文は、このことをなげいた。色紙をたのまれると、『天下為公』(天下をもって公となす)と書いた。また、その著『三民主義』の冒頭にも、"中国人は砂だ、にぎってもかたまらない〟といった。"公〟という粘土質に欠けていることをなげいたのである」(「風塵抄ー台湾で考えたこと(1)公と私」全集六六)。

 

支那の権力者は国家さへ私物化する。だから「天下爲公」といふ「標語」を掲げざるを得なかったのである。それは国民党だけではない。今日の「中国共産党」も同じである。毛沢東・朱徳が率いた中共軍の軍規が厳正だったといはれたのは権力掌握以前だけであった。中共の権力掌握後、毛沢東は中国といふ國を私物化し多くの同志・国民を虐殺した。今日の支那共産党の幹部や政府の官僚たちも国家人民を食い物にしている。これは薄熙来の事件などを見ても明らかである。党と国家の指導者の居住地である北京の中南海の入り口には、『人民の為に服務せよ』と書かれた大きな看板があった。こうした看板が掲げられているのは、党幹部が人民のために服務してゐないからである。

|

« 千駄木庵日乗八月十九日 | トップページ | 千駄木庵日乗八月二十日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/58026085

この記事へのトラックバック一覧です: 支那共産党の幹部や政府の官僚たちは国家を私物化し人民を食い物にしている:

« 千駄木庵日乗八月十九日 | トップページ | 千駄木庵日乗八月二十日 »