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2013年8月 7日 (水)

『もののあはれ』と『清明心』

日本民族は、「もののあはれ」といふ美感覚を持ってゐる。「あはれ」とはうれしいにつけ、楽しいにつけ、悲しいにつけて、心の底から自然に出てくる感動のことばである。

 

「もののあはれ」とは、物事にふれてひき起こされる感動である。知的興味とは違った何かに深く感動することのできる感じやすい心のことである。自然・人生の諸相にふれてひき出される素直なる感動の心である。理論・理屈ではない。「清明心」「正直の心」を美感覚の世界における表現が「もののあはれ」といへる。

 

本居宣長に次のやうな歌がある。

 

事しあればうれしかなしと時々にうごく心ぞ人のまごゝろ

 

この宣長の歌について、村岡典嗣氏は「この眞心こそは、やがて古神道に於ける清明(あか)き心、中世神道における正直の觀念の發展せるものに外ならない。彼(註・宣長)が一切の偽善や作為をあくまでも斥け、その見地から儒教を攻撃したのもこの立場からである。」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。

 

宣長にはまた次のやうに歌がある。

 

眞心をつゝみかくしてかざらひていつはりするは漢(から)のならはし

 

宣長のいふ「からごころ」は、日本人本来の素直なる心・清明心・もののあはれとは正反対に位置するといふことである。

 

先人は「正直」「清明心」といふに本人の中核精神が「三種の神器」の一つである「鏡」に象徴されると信じた。

 

北畠親房は、『神皇正統記』で「鏡は一物をたくはず私の心をなくして萬象をてらすに、是非善悪のすがたあらはれずと云ふことなし。其すがたにしたがって感應するを徳とす。是正直の本源なり」と説いてゐる。

 

「清明心」は、鏡の心であり、太陽の心であり、天照大御神の御心である。この精神が、「主体性」を喪失せずに「無私」の態度で一切を包容摂取するといふ矛盾と思へるやうなことを為し得て来た原因であると思ふ。

 

「鏡」は、天照大御神の『神勅』に「吾が児、この寶鏡を視まさむこと、當に吾を視るが如くすべし」と示されてゐる通り、天照大御神の御霊代(れいだい・みたましろ)である。

 

また、仲哀天皇が筑紫に進軍された時、筑紫の県主・五十迹手(いとて)が『三種の神器』の意義を天皇に奏上した言葉に「白銅鏡の如くにして、分明(あきらか)に山川海原を看行(みそなは)せ」(『日本書紀』「仲哀天皇紀」)とあるやうに、鏡のやうに明らかに山川海原を統治されるお方が、天照大御神の「生みの御子」であられせられる日本天皇なのである。

 

「鏡」は天照大御神の広大無辺の御慈愛と曇りなき御心を表象する。

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