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2013年6月 7日 (金)

日本文化の包容力について

日本は、四方を海に囲まれてゐる島国であるから、武力による侵略は受けにくかった。一方、大陸との交流は行はれた。わが国は閉じられた国ではなく開かれて國であった。海洋国家とは本来さういうものなのだらう。交流も、海を隔ててゐたので、何でもかんでも入って来る、受け容れるといふのではなく、うまい具合に取捨選択が出来た。日本の文化伝統に合致するもののみを受容して来たと言っていいのではないか。

わが国がさういふ大らかで開放的な国であった原因は、地理的環境のみではない。日本人は、あらゆるものに神が宿ると信じて来てゐる。山川草木国土全てに神の命が宿るのである。勿論人にも神の命が宿ってゐる。西洋宗教学ではかかる思想精神を汎神論と言ふ。

日本語の「カミ」のカは接頭語。ミとかムに意味がある。ミ・ムは霊的な力をいふといはれてゐる。ミは身であり実である。即ち存在の実質・中身のことである。強い霊力・霊威を持った存在のことをカミといふ。國語学上は上の方にゐるからカミといふといふ説は誤りであるといふ。

本居宣長は、「凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノフミドモ)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(ミタマ)を申し、また人はさらに云はず。鳥獣(トリケモノ)木草のたぐひ海山など、其餘何(ソノホカナニ)にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて。可畏(かしこ)き物を迦微(カミ)とは云なり、すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優(スグ)れたるのみを云に非ず、悪(アシ)きもの奇(アヤ)しきものなどをも、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」と述べてゐる。この考へ方が今日の神道学の神観となってゐる。

神に掛る枕詞は「千早振る」である。「チ」は霊のことであり、「ハヤ」は激しいといふ意、「振る」はふるへる意。霊が激しく振ふことをいふ。

漢字の「神」は象形文字で、偏の「示(しめすへん)」は、神へ供へ物を献ずる台の形を表す。つくりの「申」は稲妻の形を表す。即ち「神」といふ漢字は、雷を神として祀る信仰から発したのである。即ち日本でも支那でも「雷」は神として仰がれ恐れられたのである。

古代人にとって、太陽のやうな有り難い神もをられるが、雷のやうな恐ろしい神もをられたのである。宣長の云ふ通り、「悪(アシ)きもの奇(アヤ)しきものなどをも、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」なのである。

「カミナリ(雷)」といふ言葉は「神が鳴る」といふ意味である。歌舞伎にも「雲の鳴神上人」といふのが登場する。

日本人にとっての「神」とは奥行きが深く、幅が広い。だから、大陸から伝来した仏教・儒教を柔軟に受容したのである。日本人にとって、「神」も「仏」も「聖人」も、「尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて。可畏(かしこ)き物」すなわち「迦微(カミ)」なのである。

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