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2013年6月29日 (土)

日本人の死生観

江戸後期の儒學者で、幕末から明治初期にかけて大きな學問的影響を及ぼした佐藤一斎が、四十二歳から八十歳まで、年号で言へば文化十年から嘉永四年まで書き続けた箴言集『言志四録』の第百三十七条には次のやうに記されてゐる。

「吾思ふ、我が身は天物なり。死生の権は天に在り當に順にこれを受くべし。…天之を生じて、天之を死せしむ。一に天に聴(したが)ふのみ。吾れ何ぞ畏れむ。吾が性は即ち天なり。軀穀は則ち天を蔵するの室なり。精氣の物と為るや、天此の室に寓す。遊魂の変を為すや、天此の室より離る。死の後は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、而して吾が性の性たる所以のものは、恒に死生の外に在り。吾れ何ぞ焉れを畏れむ。夫れ昼夜は一理、幽明も一理、始(はじめ)を原(たず)ね、終りに反(かへ)し、死生の説を知る」(私は思ふ。われわれの身體は天から生じたものである。生死の権は天が握ってゐるので、まさに素直に従ってこれを受けるべきである。…天がわれわれを生み、天がわれわれを死なせるのだから、全く死生は天に従ふべきで、我々はどうして恐れることがあらうか。われわれの本質は即ち天である。我々の肉體は身體に天を蔵する部屋である。萬物を生成する根源の氣が固まって天がこの部屋に住むのである。魂が肉體から遊離すれば、天はこの部屋から離れる。死の後は即ち生の前であり、生の前は即ち死の後であって、我々の本質は常に生死を超越してゐる。われわれは何で生死を恐れやうか、といふほどの意)

この佐藤一斎の文章には、「魂が身體から遊離することが死であり、肉體の死は、人間そのものの消滅ではなく、現世から身を隠すことに過ぎない」といふ日本人の傳統的死生観が表白されてゐる。

『言志四録』は、西郷隆盛の終生の座右の書であったといふ。西郷隆盛は、流罪で沖永良部西郷隆盛は、流罪で沖永良部島にあった時、次の漢詩を詠んでゐる。

「獄中有感(ごくちゅうかんあり) 

 朝に恩遇を蒙り夕べに焚阬(ふんこう)せらる

 人世の浮沈は晦明に似たり

 縦(たと)ひ光を回らさゞるも葵は日に向ふ

 若し運を開くる無くも意は誠を推()

 洛陽の知己皆鬼と為り

 南嶼(なんしょ)の俘囚独り生を竊(ぬす)む

 生死何(なん)ぞ疑はむ天の附與なるを

 願はくは魂魄(こんぱく)を留めて皇城を護らむ」

結句は、楠公そして松蔭の「七生報國」の精神そして佐藤一斎と同じ死生観を表白してゐる。肉體から離脱した魂魄は、この世に留まって皇城即ち上御一人をお守りすることを誓ったのである。

徳富蘇峰はこの詩について「『洛陽の知己皆鬼と為り』とあるは、寺田屋事件で死したる有馬新七らを指すものであろう。『南嶼の俘囚独り生を竊む』とは、すなわち西郷が自らを言うところである。『願はくは…』と結んだ一句を見れば、彼は根っからの勤皇家であったことが分かる」(『明治三傑』)と論じてゐる。

日本民族は古来、肉體は滅びても魂は永遠であるといふ信仰を持ってゐる。人は死してもこの國の中に靈はとどまって遠くへは行かないと信じ、あの世とこの世とは交流し、人間の今際の時の念願は死後達成され、人はたとへ死しても何度も生れ変ると信じたのである。我々の祖先にとって死とは生れ変りの儀式の一つであった。

わが民族が死を恐れないのは、生と死とに遠い距離感を持たなかったからである。楠正成の『七生報國』の精神と同様に、大東亜戦争におけるわが國軍民の敢闘精神も、實にさうした信仰がその根底にある。

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