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2013年5月 5日 (日)

日本國體と成文憲法

憲法論議が喧しくなってきている。憲法を論ずるにあたって最も大切なのは、國體である。

信仰共同体國家日本の祭祀主であらせられる日本天皇は、地上における天照大御神の御代理即ち現御神であらせられるのであって、國民が作った成文法によって制限され、規制されるご存在ではない。

伊藤博文は、明治十五年に書いた岩倉具視宛の書簡で、「…我皇室の如きは、二千五百有余年、邦國の体裁を固定せざる以前に於て、既に君主の地位を占む。豈に國憲を定め國会を起すの時に至り、始めて君主たる事を認めらるゝを俣たんや。」(『伊藤博文傳』中巻)と書いてゐる。

近代國家体制が制度的・法的に確立した時期よりはるか以前から、すなはち天孫降臨以来、天皇はわが國に君臨せられてゐたのである。

野口武彦氏は、「美濃部達吉は『帝國の國體と帝國憲法』(大正二年)といふ著書で、『國體』とは『國家の成立する基礎たる精神』、『國家団結の基づく所の民族精神』であり、従って『単純なる法律上の観念に非ず』といい、さらに『國體は憲法上の観念に非ずして主としては倫理上の観念なり。憲法は國の政治組織を定むと雖も國體を定むることなし』と明言してゐる。そして『政体』の概念については、『我が帝國の國體に基く憲法上の特色は萬世一系の皇統を君主として奉戴する君主政体なることに存す』とい命題が明確に述べているとおり、これを國家の政治組織と定義しているのである。」(『王道と革命の間』)と述べてゐる。

西洋の國家観は、國家とは「ある特定の地域の内部で物理的暴力による支配機構」といふ事らしい。そして國家は個人の抑圧装置としてゐる。個人にとって國家とは本質的に敵である。そして、成文憲法は、国家権力の制限規範だといふ。このやうな國家観・憲法観で日本國體・日本天皇の国家統治の御事を規定してはならない。

天皇と國民の関係は、支配・被支配の対立関係ではないのである。祭祀主たる天皇は、國民を支配し隷従させたのではなく、信仰的権威(これを御稜威といふ)によって統率し統一したのである。

権力支配組織ではない日本國體を、西洋的主権論で規定することは全く誤りであり、國體の破壊である。日本國の統治大権は建國以来、天皇にあることを憲法に明確に示すべきである。天皇の統治大権とは、権力や武力による支配ではなく、祭祀と一体のものであり、天皇が神聖な信仰的権威によって統率し統一することである。

西洋的主権論を基本原理とする『現行占領憲法』を改正するのではなく、無効を確認し、日本國體精神に基づく「正統憲法」に回帰すべきである。

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