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2013年3月24日 (日)

祭祀とは、神人合一の行事である

神道の基本行事は、神を祭ること即ち祭祀である。「祭り」とは神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。祭祀は、神人合一の行事である。

「祭祀」とは、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふことによって、罪けがれを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰るといふ行事である。言ひ換へると、一切の私利私欲を禊祓ひ去って生成の根源に回帰するといふことである。「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従ひ奉る)から「まつり」といふのである。

「祭り」の語義に関しては次のやうな説がある

柳田國男氏は、「祭りごととは、食物を獻上する事に關する行動儀式といふ事であるらしい。…神の命令によって、與へられた種子を田に下して作った結果をば、神に奉り、復命する事がまつろふなのだから、まつりごとは、神に食物を食物を獻上する事である」(『祭りの話』)と論じてゐる。

柳田國男氏はさらに、「神の大前に侍座して暫く時を過ごす意。根本は尊敬せられるものとの対座面會、後世の語で意へば拝謁に近い語であったかと思ふ」(『神社のこと』)「マツルは…マツラフといふ語と別のものではない。今でいふならば『御側に居る』である。奉仕と謂っても良いかも知らぬが、もっと具體的に言へば御様子を伺ひ、何でも仰せごとがあれば皆承はり、思し召しのまゝに勤仕しようといふ態度に他ならぬ。たゞ遠くから敬意を表するといふだけではないのであった」(『先祖の話』)と論じてゐる。

山口悌治氏は、「(まつりとは・四宮註)一切の私利私欲を禊祓ひ去って生成の根源に還ること。…『無私』こそまた『まつり』の本義なのである。したがって『無私』がまた日本の天皇の御本質なのである。…『無私』であるからこそ天意の継承者として天津日嗣にましますのではないか。」(『萬葉の世界と精神』)と論じてゐる。

 人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が、神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。禊によって罪穢を祓ひ清め、祭りと直會(神と共に供へ物を食する行事)によって神との一體観を回復する。これが神道行事の基本である。

神祭りは、日本傳統精神の原点であり日本傳統文化の祖型である。神祭りでは、共同飲食=神人共食が非常に重要な意味を持つ。「同じ釜の飯を食ふ」といふ言葉があるやうに、共同飲食は、人と人との共同意識・合一感を形成する。

祭祀において、神饌を神に差し上げて、これを人も頂戴して、飲食する「直會」が不可欠な行事である。座を変えてものをすることを直るといふが、祭祀を終えて座を変え神からのお下がりを頂戴するので直會といふのであらうか。直會とは、「なほり(直)あひ(合)」の変化とも、「なほる(直)」に反復・継続の助動詞「ふ」のついたものの名詞化ともいふ。忌(い)みの状態から平常になほることの意で、そのしるしの飲食をいふ。

直會は神人共食の行事であり、神と同じものを人が食べることによって神の魂・力・生命が人と一體になるといふ信仰である。神人共食=直會には、人の命を神に帰一し奉る意義がある。神に供へた物を人が食することによって、人は神の生命力を身に付け人の生命力を強化する。この神人共食が、日本の祭りの根幹である。

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