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2013年3月 3日 (日)

『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」-四五〇〇余名の肖像』展参観

本日参観した『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」-四五〇〇余名の肖像』展は、「本展で紹介する『人物写真帖』の制作は,明治12年,明治天皇が深く親愛する群臣の肖像写真を座右に備えようと,その蒐集を宮内卿に命じられたことに始まります。そして,宮内省主導のもと,大蔵省印刷局が撮影や写真帖の制作を担当し,この事業は進められました。現存するこの写真帖の総冊数は39冊,有栖川宮幟仁親王を始め皇族15方,諸官省の高等官ら4531名が収められており,そこには,幕末から明治維新にかけて,改革に奔走し,新政府の成立に尽力した人物に加え,各分野で日本の近代化を担った人々の姿があります。また,このうちの15冊には,肖像写真とともに小色紙に記された621名分の詠進歌が収められており,本作品制作の特殊性を示しています」(案内書)との趣旨で開催された。

幕末から明治の時代を担った元勲らの未公開肖像写真を展示する展覧会である。明治初期の皇族、文武百官即ち大臣参議、官僚、軍人、そして民間の学者・文化人・宗教家(神官僧侶)などの肖像写真が展示されていた。

この「写真帖」には肖像写真と共に色紙に記された621名分の詠進歌も収められた。『写真帖』は今回が初公開で、今回は、有栖川宮熾仁親王、北白川宮第二代・能久親王、三條實美、岩倉具視、板垣退助、乃木希典、東郷平八郎、勝海舟、川路利良、松方正義、山県有朋ら近代日本建設に貢献した人々約100人の比較的若き時代の肖像写真が展示されていた。

購入した「図録」には373人の肖像写真と写真帖に掲載された全員の名を収録されていた。小生がよく散策する谷中霊園に眠っている人も多かった。能久親王、榎本武揚、大久保利通はなかなか好男子であった。三島通庸はその逆であった。

残念なのは、私の母校・二松学舎の創立者・三島中洲先生は、重野安繹、川田甕江とともに明治の三大漢学者に数えられ、明治十年まで大審院判事であったが、重野・川田両氏は4531名の中に選ばれていたが、中洲先生は選ばれなかったようで『図録』の名簿にその名は無かった。慶應義塾創立者・福沢諭吉、同人社創立者・中村正直の名もなかった。二松学舎・同人社・慶応義塾は明治初年『東京府下三大私塾』と言われた。西郷隆盛、篠原国幹、桐野利明、江藤新平の名もなかった。また、選ばれた人の半数以上は、薩・長・土・肥出身者と思われる。特に薩摩長州が圧倒的であった。ただし、旧幕臣や旧会津藩士の名もあった。さすがに徳川慶喜はなかった。ところが松平容保の名はあった。どういう基準なのか判然としない。

明治天皇は、この写真帖制作にあたって、准奏任官以上、麝香間祇候(明治維新の功労者である華族または親任官の地位にあった官吏を優遇するため、明治時代の初めに置かれた資格)、華族には、和歌と漢詩を詠進すべきことをお命じになった。明治天皇の和歌を大切にされる大御心と拝する。天皇の国家統治と和歌は一体である。やまと歌は、君民一体の國體の基本である。やまと歌を詠むことは。政治や行政に潤いを与えると共に真の大和心を興起させる基である。今日の官僚・国会議員などにも、「歌会始」の際、和歌か漢詩を詠進させる制度を設けるべきではないかと実感した。

尚蔵館にも、東御苑にも、外國人観光客が多数来ていた。支那人も多かった。写真を撮りまくっている支那人もいた。時期が時期だけに、「日本に関心があるのだなあ」などと喜ぶことはできなかった。何となく反発を感じるのは致し方なきことであろう。

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