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2013年3月23日 (土)

六義園散策記

六義園(りくぎえん・やまと言葉では、「むくさのその」と言ふ)は、德川幕府五代将軍・徳川綱吉の寵愛を受け、信任が厚かった柳沢吉保が元禄十五年(一七〇二)に築園した和歌の教養と理念を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園である。

六義園の名は、漢詩の分類法(詩の六義)にならった『古今和歌集仮名序』にある和歌の分類六体(そへ歌・かぞへ歌・なずらへ歌・たとへ歌・ただごと歌・いはひ歌)に由来する。「真名序」では「風・賦・比・興・雅・頌」の六義になってゐる。

『古今和歌集』の「序」は紀貫之が執筆した。紀貫之は、平安前期の歌人、歌學者。三十六歌仙の一人。仮名文日記文學の先駆とされる『土佐日記』の作者である。加賀介、土佐守などを歴任。醍醐天皇の勅命による『古今和歌集』撰進の中心となった。

六義園は、中心に大きな池が配置され、築山(小高い丘)がある。池の周囲を散策する道があり、その外側には深山幽谷を思わせる林の中にも道が作られている。

池は紀州和歌の浦を模してゐる。築山は藤代峠と名付けられている。紀州・和歌山県にある藤代峠がモデルとなってゐる。標高は35m。いただきは「富士見山」と呼ばれ、そこからは素晴らしい展望が開けていて、六義園全体を見渡すことができる。紀州の藤代峠は、有間皇子が謀反の罪で死を賜った悲劇の地として知られる。有間皇子はご自分の死を予感して次の歌を詠まれた。

「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還かへりみむ」(141)

「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(142)

『萬葉集』屈指の名歌である。

和歌の浦は、和歌山市の南西部に位置する入り江。国指定の名勝。萬葉の昔から景勝の地として親しまれてきた。小生も一度訪れたことがあるが、空と海と島山とが一体をなす景色であり、しかもきわめて静かで穏やかな雰囲気を持ってゐる地である。『萬葉集』に次の歌がある。

「若の浦に潮滿ち來れば潟を無み葦邊をさして鶴(たづ)鳴き渡る」(和歌の浦に潮が満ちて来ると、干潟が無いので葦辺をさして鶴が鳴き渡る、といふ意)

 聖武天皇が御即位の年に和歌の浦に御巡幸遊ばされた時、供奉した山部赤人が和歌の浦の静かなる景色を歌った歌である。赤人は、『萬葉集』の代表歌人の一人で、素晴らしい叙景歌を詠んでゐる。

 この歌は天皇の御前で朗々と歌われた。日本民族には「海の彼方に常世(永遠の理想郷)がある」といふ伝統的な信仰がある。また、大和地方の住む人々にとって海は憧れの対象であった。それがこういふ海の景色を讃える歌を生んだのである。

 『萬葉集』の代表的な叙景歌として名高い。鶴が葦辺を飛ぶ姿を絵画的に歌ってゐることは事実であるが、この歌は写生・描写の歌と限定的にとらへてはならない。自然に対する畏敬の念を表白し、神秘的と言へるほどの静寂さが描写され自然との一体感が歌はれてゐる。

 

柳沢吉保自身も吉保がが仕へた徳川綱吉も、「生類憐みの令」や「赤穂事件」などであまり評判が良くない。しかし、綱吉は徳川歴代将軍の中では、尊皇精神の篤い人であったと思はれる。綱吉の将軍時代に、禁裏御料を一万石から三万石に増額して献上し、また大和国河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計六十六陵を修復させた。公家達の所領についてもおおむね綱吉時代に倍増してゐる。また、のちに江戸城中松の廊下で吉良上野介義仲に斬りつけた赤穂藩主浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも、勅使・院使を迎へる当日に江戸城を血で汚し、儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったとされる。

柳沢吉保も、日本の伝統文化特に和歌には造詣の深い人であった。「六義園」が完成した時、六義園を描いた絵巻を、霊元上皇に献上し、お褒めのお言葉をいただいてゐる。

         ○

今日は実に多くの人々が六義園を訪れてゐた。特に夕刻になると、ライトアップされる枝垂桜を見ようとする人々が続々と入って来た。

和歌の浦を模した池

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藤代峠よりの眺望

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和歌の浦を模した池と、藤代峠を模した築山

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