« 千駄木庵日乗三月四日 | トップページ | 萬葉古代史研究會 のお知らせ »

2013年3月 5日 (火)

天皇の国家統治の意義

「大日本帝国憲法」において「しらしめす」の漢語表現として「統治」という言葉を用いた。そしてこの「統」という言葉は統べる(統一する)という意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)という意である。明治天皇が明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになっている。このお言葉こそまさしく「治める」の本質なのである。無私と慈愛というまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

天皇の國家統治のことを「しらしめす」と申し上げるのは、天皇が天の下の全てを認識され、全てに関係され、領有し支配されることである。それは、天皇が鏡の如く「無私」の御存在であるから可能になるのである。天皇が鏡の如く全てを映し出す「無私の御存在」であればこそ、全てを領知され認識され司られることができるのである。天皇國家統治の「みしるし」である三種の神器の一つが「鏡」であるのはそのことをあらはしてゐるのである。天皇は自己を鏡となして一切のものごとを映し出される御存在である。

「しらしめす」即ち<天皇の統治>とは、天津神の御命令で日本に天降って来られて、天津神の御委任で天津神の日の神の霊統を継承される現御神として、天津神の命令のままに天の下の全てを認識され把握されるという信仰的な意義があるのである。天皇の統治は決して権力行為ではない。

「しる」は単にものごとを知識として知るといふのではなくもっと深く「領知する(領有して支配すること)」の意。天皇の御統治の御事を「しらす」「しろしめす」といふのと同意義。今日でも「そんなことは知りません」といふのは、単に知識として知らないといふ意味以上に、「私には関係がない」といふ意味も含まれる。「知る」とは「関係する」「司る」「支配下に置く」といふ意味である。

天下の一切の物事を「お知りになる」ということは、<無私>の境地であられるということであり、天下の一切の物事に対して深い<慈愛の心>を持たれているということである。<無私>と<慈愛>の心が無くては対象を深く認識し把握する事はできない。

先帝昭和天皇陛下が、よく「あっそう」というお言葉をお発しになられたのは、まさに無私と慈愛の心で相手の言う事をお聞きになられお知りになったということである。有難き限りである。

井上毅・伊藤博文などの先人たちは、日本の国体を根幹としつつ近代成文憲法を実に苦心して作りあげたのである。その努力は素晴らしいものである。「大日本帝国憲法」は決してドイツから輸入した翻訳憲法ではなかった。「大日本帝国憲法」は、明治維新の輝かしい歴史の所産であり、日本国民の政治的良識の結晶であった。

|

« 千駄木庵日乗三月四日 | トップページ | 萬葉古代史研究會 のお知らせ »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/56889778

この記事へのトラックバック一覧です: 天皇の国家統治の意義:

« 千駄木庵日乗三月四日 | トップページ | 萬葉古代史研究會 のお知らせ »