« 千駄木庵日乗二月十六日 | トップページ | 千駄木庵日乗二月十七日 »

2013年2月17日 (日)

千駄木の須藤公園について

私宅の近くに須藤公園という公園がある。江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺(だいしょうじ)藩(十万石。寛永十六年〈一六三九年〉、加賀藩の第三代藩主・前田利常が隠居する際、三男・利治に大聖寺七万石を割いて大聖寺藩が立藩された)の屋敷跡であり、明治維新後、長州出身の政治家・品川弥二郎の邸宅となった。

品川弥二郎は、足軽の家に生まれ、吉田松陰門下となり、尊王攘夷運動に挺身、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀。有名な『トンヤレ節』作詞者。維新後は、内務大臣・枢密顧問官などを歴任。永井荷風が明治新政府を「足軽政府」と揶揄し、北村透谷は、明治維新を「幕府から薩長への権力の移動であった」と嘆いたが、品川弥二郎や山県有朋の足跡を見るとこれらの批判も納得できる面がある。

吉田松陰は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という辞世を遺したが、品川や山県は、維新後、権力者となり、武蔵の野辺に大邸宅を構えたのである。松陰の、「僕は忠義をなすつもり。諸君は功業をなすつもり」という言葉を想起する。九段坂に品川弥二郎の銅像がある。

明治二十二年(一八八九年)に実業家・須藤吉左衛門(この人物の故事来歴は不明。ただし、須藤公園のすぐ近くに須藤という表札がかかった邸宅が二つある)が買い取ったという。昭和八年(一九三三年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付、昭和二十五年(一九五〇年)に文京区に移管された。

須藤公園の入り口のすぐ前に親戚の家があったので、この公園は小生の子供の頃の遊び場の一つであった。紙芝居屋さんや粘土細工屋さんがよく来ていた。公園の中を駆け巡ったり、ブランコや砂場などで遊んだ。

この公園は、台地と低地とに分かれていて、深山幽谷を流れ下るような高さ約十メートルの滝がある。一時、枯れていたが、今は水が流れ落ちている。そして池があり、回遊式庭園となっている。池には、亀が棲息しており、池の中の岩の上でよく甲羅干しをしている。池の中に島があり、弁天様を祀った朱色のお堂がある。大名屋敷の面影をのこしたなかなか風情のある公園である。須藤公園は住宅密集地の中の森と言った感じある。

公園の上の方が、駒込林町というお屋敷町であり、下の方は、駒込坂下町という下町である。東京の山の手と下町の区別が分かる典型である。私は駒込坂下町に生まれ育った。

公園の一角の小高い丘に

「かしこくも 親王あれませり 九重の 御そのの松に 日の昇る頃                従二位爲守」

と刻まれた歌碑がある。

昭和八年十二月二十三日の、今上天皇の御生誕を奉祝して入江爲守氏が詠まれた歌である。この歌碑は、昭和十年に町内の青年団が建てたものという。皇太子が日の神の御子としてお生まれになったことを寿いだ歌である。歌碑に何の説明書きがないのが残念である。

入江爲守(ためもり)氏は、明治から昭和の御代前期まで宮中に仕えた方であり歌人である。子爵。京都生。慶応四年四月二十日生まれ。冷泉為理(れいぜい-ためすけ)の三男。幼少から父に歌学を学び、漢詩は森槐南に学んだ。のち入江為福の養子となる。昭和天皇の侍従長をつとめた入江相政(すけまさ)の父。明治三十年貴族院議員。のち東宮侍従長,侍従次長を経て、昭和二年皇太后宮大夫。大正四年から御歌所所長を兼ね,「明治天皇御集」「昭憲皇太后御集」編集事業を完成させた。昭和十一年三月十九日六十九歳で逝去。

110407_161501

弁天堂

130213_144901

歌碑

|

« 千駄木庵日乗二月十六日 | トップページ | 千駄木庵日乗二月十七日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/56781101

この記事へのトラックバック一覧です: 千駄木の須藤公園について:

« 千駄木庵日乗二月十六日 | トップページ | 千駄木庵日乗二月十七日 »