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2013年1月20日 (日)

仏教の受容と日本民族の強靭性

 『日本書紀』によると、わが国への仏教公式的の伝来は、欽明天皇十三年(五五二)とされ、百済の聖明王が、欽明天皇に釈迦仏像や経典を献じたと記されている。しかし、別の資料ではそれは欽明天皇七年(西暦五三八)のことだったとされている。

 『日本書紀』によると、この時欽明天皇は、仏像の美しさに驚嘆され次のように仰せになったと伝えられる。「西蕃(にしのくに)の献((たてまつ)れる仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」。

 ここで注意すべきことは、『日本書紀』において日本の仏教を伝えた支那や朝鮮を「西蕃」と表現していることである。欽明天皇が仏教を採用するかどうかを郡臣に諮問した際に、仏教受容を支持した蘇我稲目(蘇我氏は、仏教を日本に伝えた百済系の渡来人といわれている)は、「西蕃諸国、一に皆之を礼(いやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)、豈に独り背かむや」と答えた。

 先進文明や文物を伝えてくれた相手の国を、「西の蕃人(西方の未開人というほどの意)の国」などと書いているのである。日本が支那の中華思想を受け容れさらに自己のものとして、中華思想の本家本元(支那・朝鮮)を「蕃人」と見なしているのである。日本の独立性・自主性の高らかな誇示であり、支那から多くの文化・文明を輸入していた『日本書紀』編纂当時にあっても、日本人は支那への属国意識を持ってなかったことの証拠である。ここが支那と朝鮮の関係との大きな違いである。

 外国文明の輸入に熱心であり、渡来諸氏族を背景にしたいわゆる国際派の蘇我氏ですら支那・朝鮮を「西蕃」と言っている。そして仏教に対しても蘇我稲目は、「外国も拝んでいるから日本も拝んだらよいだろう」と言った程度で、深い宗教的自覚に基づいて仏教を受け容れるべきだと主張しているわけではない。宗教を何か流行物と同じように考えている。

 また仏教輸入に反対した物部尾輿と中臣鎌子にしても、「わが国家(みかど)、天の下に王(きみ)とましますは、恒(つね)に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬に祭り拝(いわいおが)むことを、事(わざ)と為す。方(まさ)に今、改めて、蕃神(となりのくにのかみ)を拝むこと、恐らくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむことを」(日本書紀)と主張して反対した。

 この奉答も、日本国の自主性と純粋性を保たんとする国粋的立場から、「外国の神を拝むと日本の国土の神が怒る」と言っているのみである。

 本居宣長は日本人が崇める「神」を、「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ)きもの」と定義している。欽明天皇の御代に外国から到来した仏像こそ、まさにそうした外来の「神」であった。だからこそ、『日本書紀』は「仏」とは書かず「蕃神」と書いたのである。

 「蕃神」と名付けられた「仏」も、日本人にとっては「神」なのだから固有信仰の「神」とそう矛盾するものではなかった。『日本書紀』に言うところの「異国の蕃神」も、世の常にない徳と力があるのだから崇拝してもいいではないかというのが日本人の基本的な態度であった。日本人にとって仏とは八百万の神が一神増えたという感覚であったと思われる。

 こうした日本人の態度をいい加減でルーズな態度と批判する意見もある。しかし、日本人は決してルーズではない。むしろ潔癖な民族である。ただ日本人は実生活の中に実に強靱な同一の信仰精神を持っていたので、それが外来の宗教を包容し摂取してしまったということなのである。

 こうした排他性が希薄で、融通無礙・包容力旺盛な態度が、宗教のみならず多くの外来文化文明を自由に受け容れ、自己のものとし、さらに発展させるという、強靱な日本文化の基盤なのである。

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