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2013年1月25日 (金)

但野正弘氏の「継承された水戸の心 十五代将軍・徳川慶喜」題する講演内容・その二

慶応三年(一八六七)十月十四日、慶喜は『大政奉還の上表』を奉呈。翌十五日聴許。十一月五日付の紀伊藩主徳川茂承(もちつぐ)は『手書き』に、『近年草莽不逞之徒、…討幕之企(くわだて)相唱候ニ至リ…嗚呼、歳寒シテ松柏ノ後凋ヲ知ル。誰カ幕府ト君臣之大義ヲ明ニシ、寧、忘恩之王臣タランヨリ、全義之陪臣トナリ、…』と書いた。

水戸第十代藩主・徳川慶篤は次のように書いた。(月日不明)『近年草莽不逞之徒、恐多クモ勤王討幕之邪説相唱、…其動乱ニ乗ジ大権ヲ奪候奸謀黠計モ難計儀、…弊藩ノ儀ハ、奥羽之諸藩ヘモ地勢連接致候間、万一上國ニテ騒乱ヲ生候議有之候ハゝ、唇歯之勢ニテ相援合、幕府ヲ輔翼可致は申迄モ無之、…』。義公以来の家訓を否定。紀伊の意見を水戸十代藩主・徳川慶篤がまともに受けて行動したら水戸の心は消えてしまい、父・斉昭の精神は伝えられなくなる。徳川慶篤の教育係は諸生派であった。

将軍ではなくった徳川慶喜には旧幕府軍に対する命令権はない。鳥羽伏見には行っていない。風邪をひいて大阪城で寝ていた。松平容保・定敬兄弟を連れて大阪を脱出。容保は慶喜に騙された形になった。

慶喜は、慶應四年一月十二日、江戸城に帰着。将軍として江戸城に入らなかったのは慶喜のみ。一月某日、フランス公使ロセス(ロッシュ)は、慶喜に再挙を勧告した。それに対し慶喜は『厚意謝するに余りあれども、日本の國體は他国に異なり、たとえいかなる事情ありとも、天子に向いて弓ひくことあるべからず、祖先に対しては申し訳なき次第に似たれども、予は死すとも天子には反抗せず』(『昔夢会筆記―仏國公使再挙を進め申せし事』)と断言した。

慶喜は同年二月十二日、東叡山寛永寺大慈院に謹慎した。その時の心情は、『若し戦結びて解けざらば、支那・インドの覆轍を踏みて、皇国は瓦解し、万民は塗炭に陥らん、これ実に忍びざる所なり』(『徳川慶喜公伝』)であった。国内において英仏代理戦争が起こり、どちらが勝っても日本は植民地になっていたであろう。同年四月十一日、慶喜は水戸に向う。新門辰五郎がお供した。

徳富蘇峰は、『徳川慶喜に百の欠点があったとするも、この一点(注・大政奉還及び再挙しなかったこと)に於て、特筆大書せらるべき一人であったと云はねばならぬ。彼は家康の血統を傳ふるも、寧ろ義公の遠孫、烈公の子として、永く記憶せらる可き一人と云はねばならぬ。惟ふに何人が出で来るも、徳川慶喜の大政返上以外の決断は出で来る可きものでは無い』と論じた。

明治三十四年頃、有栖川宮邸でスペイン国王族の饗応が行われた際、伊藤博文が徳川慶喜に『維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしか』と質問したら、慶喜は『唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々諭(さと)さるるやう…』と述べた(『徳川慶喜公伝』)。

徳川慶喜は、引退した後外国に行って余計なことを喋り捲っている元総理とは全く違う。水戸の『尊皇の大義』は、義公によって確立され、會澤正志斎・藤田幽谷・藤田東湖によって学問的に高められ大系化された。藤田東湖は『回天詩』において「苟(いやし)くも大義を明らかにし人心を正さば、皇道奚(なん)ぞ興起せざるを患(うれ)へん。斯(こ)の心奮發して神明に誓ふ、古人云ふ、斃れて後已むと」詠んだ。徳川慶喜は、水戸の心を根本に据えて外国勢力の介入を排除して日本の危機を救った」。

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