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2013年1月25日 (金)

但野正弘氏の「継承された水戸の心 十五代将軍・徳川慶喜」題する講演内容・その一

一月十九日に行われた『第五回先哲に学ぶ会』における但野正弘氏(水戸学会理事)の「継承された水戸の心 十五代将軍・徳川慶喜」題する講演の内容は次の通り。

「本日付で、靖國神社第十一代宮司に徳川康久氏が就任した。徳川氏の祖父・德川誠氏は徳川慶喜の九男であり、德川康久氏は慶喜の曾孫。徳川慶喜は、天保八年(一八三七)に徳川斉昭の七男として小石川の水戸藩邸に生まれた。母は、斉昭の正夫人・登美宮吉子(有栖川宮家)。諡(おくりな)は贈られていない。水戸の人は慶喜公(けいきこう)と呼ぶことによって敬意を表した。斉昭の長男・鶴千代は十代藩主。

慶喜は質実剛健に育つように数え二歳の時に江戸水戸藩邸から水戸城内に送られて育つ。父・斉昭は慶喜を評して、『天晴名将とならん。されどよくせずば手に余るべし』と言った。幼少の頃より一般の武家の子と同じような着物を着て、素足で、ひび・あかぎれが大変だった。五歳になり、他の兄弟と一緒に三の丸に作られた弘道館に通う。

弘化四年(一八四七)御三卿一橋家の八代・昌丸が二歳で死去したので、阿部正弘から斉昭に対し、慶喜を一橋家の養子にと懇望された。同年八月に慶喜は十一歳で一橋家を相続。江戸へ出た。安政三年(一八五六)父・斉昭より『我等は三家・三卿の一つとして、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか。我等はたとえ幕府には反(そむ)くとも、朝廷に向かいて弓を引くことあるべからず。これ義公(水戸光圀卿)以来の家訓なり』と訓育された。

文久時代に世の中が少し変わる。島津久光が大きな力を持つ。久光は、大原重徳(しげとみ)に従って江戸に来て幕政改革を要求。慶喜は、文久二年(一八六二)七月、将軍後見職に就任。元治元年(一八六四)三月、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任じられた。

その二日後に筑波山挙兵が起った。これは諸生党と天狗党との水戸藩内部紛争。天狗党は水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に集結、京都に向かって行軍する。天狗党が京都に向っているという風聞から、禁裏御守衛総督の任にある慶喜はこれを抑えるために出陣。慶喜から天狗党に降伏命令が出された。天狗党は、加賀藩の人を仲介として降伏した。田沼意尊は天狗党の人を越前敦賀の鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)放り込み、三百五十二名の首をはねた。徳川慶喜は、天狗党を見殺しにしたとの批難を浴びた。しかし、慶喜は天狗党が降伏した後の処分は任されていなかった。立場上の難しさがある。

慶應二年(一八六六)七月、十四代将軍・家茂(いえもち)が逝去。同年八月、慶喜は德川宗家を相続、十二月に第十五代将軍に就任。慶喜は後に『余が政権奉還の志を有せしは、実にこの頃(注・将軍就任の頃)にて、東照公は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり』と言った。(『昔夢会筆記』―「将軍職を襲ぎ給いし事」)

慶喜は慶應二年十二月から同三年五、六月にかけて各種改革を実行。この改革を見た木戸孝允は、『今や関東の政令は一新し、兵馬の制亦頗る見るべきものあり。一橋の胆略決して侮るべからず、若し今にして朝政挽回の気を失ひ、幕府に先を制せらるゝことあらば、実に家康の再来を見るが如けん』と評した。慶喜は大政奉還の覚悟の上であったが、やれるところまではやってみたいと思った。

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